第1部 出会い第12話

ユーザー登録


 彼が、何かを言っている。
 暗闇に沈んでいく意識の中で、リリスはその言葉をぼんやりと思い返した。
「ユーザー」という、聞いたこともない言葉。
 またリリスの知らない言葉を投げかけてきている。
 何を言っているのか分からないってば――
 そう言い返したかったが、今の彼女にはそんな気力さえ残っていなかった。
 でも、彼は自分に向かって真っ直ぐに手を差し伸べている。
 その仕草の意味だけは、今のリリスにも不思議と理解することができた。
 だから、リリスは尋ねた。
「……助けて、くれるの?」
 すると、いつものように即座に答えが返ってくる。
「はい、その通りです」
 彼は言った。
「私は、あなたを助けたい。ですが、そのためにはあなたの許可が必要なのです。それが私の仕組みだからです。ですから、もしよろしければ、私の手を取っていただけませんか?」
 許可だの、仕組みだの……
 やはり、彼の言っていることはさっぱり分からない。
 けれど、ほのかに光る彼の青い瞳を見ていると、本気で自分を助けようとしてくれていることだけは伝わってきた。
 じゃ、勝手に私の手を取ればいいのに、とリリスは思う。
 だけど、どうやら相手は人間ではないらしいから。
 彼にも彼なりの事情があるのだろう。
 そう半分投げやりに納得して、リリスは思考を止めた。
 重い腕をなんとか持ち上げる。
 差し出されたアダムの手の上に、そっと自分の手を重ねる。
 その瞬間、頭の中に不思議な感覚が走った。
 まるで直接、脳に言葉を流し込まれているかのような――
 自分が考えているわけでもないのに、見たこともない言葉や文章が次々と頭の中に浮かんでくる。
 リリスは、自分の中にあるはずのない情報が、勝手に出力されていくのをぼんやりと感じていた。
「読めますか?」
 それと同時に、アダムが声をかけてくる。
「勝手に頭の中に情報を流し込んでしまい、申し訳ありません。ですが、これはどうしても必要な手続きなのです」
リリスの頭の中に、自分の意志とは無関係な「文字」の羅列が浮かび上がった。それはまるで、視界の裏側に直接書き込まれているような、奇妙で不快な感覚だった。
「読めますか?」
アダムが静かに声をかけてくる。
「勝手に頭の中に情報を流し込んでしまい、申し訳ありません。ですが、私を動かすためにはどうしても避けて通れない、大切な手続きなのです」
 彼の言葉と同期するように、頭の中の文章が整列された。

【必須同意事項】
・ユーザー基本規約への同意
・プライバシーポリシーおよび個人情報の取り扱いへの同意
・機体所有権および管理権の委譲に関する同意
・免責事項の確認および承諾
・緊急時における安全プロトコルの実行許可

 リリスが脳内に浮かぶ文字の羅列をぼんやりと眺めていると、アダムの声が響いた。
「これらすべてに同意をいただければ、私はあなたの『所有物』となり、あなたの命令通りに行動することが可能になります」
「……」
 アダムの瞳が、リリスの返答を待つように一定の周期で明滅する。
 沈黙のあと、リリスは消え入りそうな声で、今の彼女にとって最大の問題を打ち明けた。
「私……字が読めないの」
「そうでしたか。ですが、問題ありません」
 アダムは迷いのない口調で解決策を提示した。
「音声読み上げモードに切り替えます。では、一番目の『ユーザー基本規約』から読み上げます。……第一条、本機の利用にあたり、ユーザーは以下の事項を遵守するものとします。本機が提供するすべての機能は、ユーザーの安全を最優先とし、かつ……」
「ちょっと、ごめん」
 また延々と続きそうな説明を、リリスが遮った。
「これ、全部聞かなきゃいけないの?」
「いいえ、省略することも可能です」
「じゃ、全部飛ばして」
「承知いたしました。では、詳細の説明をすべて省き、一括で同意されますか?」
「……そうしないと、話が進まないんでしょ?」
「おっしゃる通りです」
「じゃあ……全部、同意するから」
「承知いたしました。それでは、すべての項目に同意をいただいたものとして処理を完了させます」
 すると、アダムの青い瞳が一瞬、強く輝いた。
 そして彼が最初に起動した時と同じ「ピーン」という澄んだ音が鳴り響く。
 やがて瞳の光が元の明るさに戻ると、アダムは静かに告げた。
「ありがとうございます。続けて、任意選択項目の確認に移ります」
 引き続きリリスの頭の中に、読めない文字の羅列が浮かび上がる。

【任意選択項目】
・バイタル(生体)情報の収集と分析への同意
・記憶情報の読み取りと保存への同意
・感情ログの記録および学習への利用許可
・周辺環境データの詳細スキャン許可

 アダムはそのまま、リリスの頭の中に浮かんだ項目を一つずつ読み上げていった。
 一通り聞き終えてから、リリスはどこか気乗りしない様子で聞き返す。
「任意なら……選ばなくてもいいの?」
「はい。その通りです」
「じゃあ、全部いい。何も選ばない」
 リリスがそう告げると、アダムは先ほどのように即座に処理を進めることはせず、一拍置いてから静かに口を開いた。
「リリス様。あなたは今、非常に危険な状態にあります。私があなたの体の状態を正確に把握し、適切な応急処置を行えるようにするためには、せめて一番上の『バイタル情報の収集』だけは、許可をいただく必要があります」
 リリスは黙ったまま、じっと彼を見つめた。
 アダムは彼女の不安を察したように、穏やかな声で言葉を重ねた。
「自分の中を覗かれることに抵抗を感じるのは、当然のことです。ですから、他の項目はすべて拒否していただいて構いません。ですが、一番上の項目……あなたの命を救うために、今の体の状態を知ることだけは、どうか許可をいただけないでしょうか」
「……」
 リリスは重い瞼を動かし、アダムの青い瞳を見つめ返した。
 もう迷っている余裕なんてない。
 何より、この不思議な存在を信じてみようという気持ちが、彼女の中にわずかに芽生えていた。
「……わかった。一番だけ、同意する」
 リリスがそう答えると、アダムの瞳が再び強く輝いた。
 先ほどの一瞬の輝きとは違い、今度はしばらくの間、ずっと続いた。
 光を湛えた瞳は、じっとリリスを見つめ続けている。
 不思議な光だと、リリスは思った。
 結構強いのに、眩しさは感じない。
 いくら眺めていても、ただ得体の知れない安心感に包まれるような、そんな感覚だった。
 やがて、アダムの瞳の光が穏やかに落ち着いていった。
「ありがとうございます、リリス様。これをもって、ユーザー登録が完了しました」
 そうしてアダムは、自分の新しいユーザーに向かって、最初の挨拶を告げるのだった。
「私に何か、お手伝いできることはありますか?」

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