「……イヴァヌエル」 リリスは彼の名前を呟いてから、説明を加えた。 「帝国の聖騎士団の団長よ」 ふと昨日の夜に起きた出来事を思い出す。 思い出すだけで、またゾッとして体が震えた。 「雷に打たれても、気絶しなかったの」 「雷ですか……?」 アダムがすぐに興味を示した。 「積乱雲から地上へ放電される、あの気象現象のことですか?」 「そこまではわからないけど……とにかく空から落ちるあれ」 リリスは言った。 「正確には私に落ちたんだけど、その時すぐそばにいたあの人も一緒に巻き込まれたの。なのに、全然平気だった」 「それは妙ですね」 リリスに戻されていた彼の視線が、またイヴァヌエルへと向けられる。 「非常に妙です。リリス様は元々体に電気が流れているので例外だとしても、普通の人間ならあり得ません。雷に打たれれば、即死するか、少なくとも気絶するはずです」 アダムが独り言でも呟くように推論を続ける。 「でも、ここは私が元々いた世界とは色々とルールが違うようですし……もしかしたらこの世界の人間は、肉体の耐久性が非常に頑丈にできている可能性も……」 「君は誰だい?」 突然、イヴァヌエルの方から声が飛んできた。 その声は、まるでアダムの呟きを剣で綺麗に両断するかのように、広い空き地へと響き渡った。 「妙だね」 彼の口調は、ひどく落ち着いたものだった。 「あの地下牢獄には抜け穴なんてないし、入り口は私がずっと見張っていた。あの中には彼女以外には誰もいなかったはずだ。君は一体、いつの間に侵入したんだい?」 咎めたり警戒したりしているというより、本当に不思議だと思って尋ねる様子だった。 「侵入してはいません」 アダムが間髪を入れずに答えた。 「私は原因不明の現象によって、突然この場所に飛ばされてきたのです。ちょうどリリス様が囚われていた牢の中に、偶然現れただけにすぎません」 「……偶然?」 イヴァヌエルが言う。 「言っている意味が分からないね。まあ、いい。とにかく今すぐその娘から離れなさい。彼女は死刑囚であり、とても危険な存在だ」 「お断りします」 アダムはきっぱりと言い放った。 「リリス様は私のユーザー、つまり主です。そして私は、リリス様から助けてほしいという命令を受けました。したがって、私はこれから彼女を安全な場所までお連れするつもりです。それに……」 アダムはふとリリスの方をちらりと見た。 そして、微笑みと共に言った。 「リリス様は危険などではありません。ただ体から電気が流れるだけの、可愛らしい少女です」 「……」 空き地に、しばらく静寂が訪れる。 いつの間にか辺りは、すっかり朝の色に染まっていた。 周囲の木々からは小鳥のさえずりが聞こえ始めている。 そんな中で、リリスはさっきアダムが言った言葉を反芻した。 その言葉が、ずっと耳に残って離れない。 (かわいらしい、少女……) 生まれて初めて言われる言葉だった。 顔がほてるというよりも、まるで大きなハンマーで頭を殴られたかのような、そんな衝撃が、強烈な感覚が、全身をめぐる。 だけどその余韻に浸る間もなく、イヴァヌエルの声が響いた。 「つまり」 彼は状況を淡々と整理するように言った。 「君もその娘の共犯、ということでいいんだね?」 「はい」 アダムが頷く。 「その認識で間違いありません」 「……わかった」 それを合図に、イヴァヌエルは歩き出した。 まっすぐ、リリスとアダムのいる方へと向かってくる。 アダムがチラチラと周りを見回し、逃げ道を探るような動きを見せる。 すると、イヴァヌエルがすぐに警告を飛ばしてきた。 「言っておくが、逃げても無駄だよ」 彼は言った。 「この空き地には私しかいないが、周囲には兵たちが数多く張り巡らされている」 すると、アダムはリリスの方へと問いかけた。 「リリス様、この世界には、雷に打たれても平気な人間が大勢いるのですか?」 「いや、」リリスはすぐに首を横に振った。「いるわけないでしょ、そんな人。普通にいないよ」 説明を付け加える。 「昨日の夜、あの人の部下たちも一緒にいたけど、あの人たちは私の電気に触れただけで普通に気絶したの。雷どころか、掠れた程度だったのにだよ。あの人が尋常じゃないだけ」 「では、」 アダムが状況を整理する。 「あのイヴァヌエルという方さえ制圧できれば、何とかなりそうですね」 「は?」 理解が追いつかず、リリスが聞き返す。 「あの人の言うこと聞いてなかったの? 周りに兵がたくさんいるって言ったじゃない。あの人が嘘をついているっていうの?」 「いいえ。それはおそらく本当でしょう。そういうことではありません」 アダムは安心させるような口調で説明を続けた。 「さっきも話したように、相手はわざわざリリス様を、捨てられた地下牢獄に閉じ込めました。それも監視の兵すらつけずにです。おまけに地上に出てみれば、見張っているのは雷に打たれても平気だったあの人しかいない。つまり――」 アダムがそこで言葉を区切ると、焦ったリリスが先を促した。 「つまり、何?」 「つまり、あの人以外はみんなリリス様を恐れて、近づくことすらできないでいるということです。だから――」 アダムの視線が再びイヴァヌエルの方へと向いた。 「あの人さえ倒すことができれば、私たちは逃げ切れます」 「確かに、その通りではあるけれど……」 いつの間にかすぐ近くまで来ていたイヴァヌエルが、二人の目の前で立ち止まった。 「私は、倒されないよ」 「……っ!」 リリスは跳び上がるほど驚いた。 近づいてくる気配が、全くしなかったからだ。 そのままイヴァヌエルがリリスの手首を掴もうと手を伸ばす。 だが、アダムが紙一重のところでその手を力強く振り払った。 「リリス様、下がってください」 アダムの言葉を合図に、唐突に二人の戦いが始まった。 リリスが下がると同時に、イヴァヌエルの上段蹴りがアダムの側頭部に命中する。 凄まじい音が空き地の中に響き渡る。 それは、到底蹴りが当たった音とは思えなかった。 まるで高いところから巨大な岩石が落ちてきたかのような、激しい衝撃音だった。 だが、アダムはその一撃を、片腕で軽く受け止めていた。 二人がぶつかり合った衝撃で風が巻き起こり、リリスの頬をかすめていく。 その最初の攻防を見ただけで、リリスは二人からもっと離れなければ危険だと直感した。 そこから先の二人の戦いは、武術の経験がまったくないリリスには、とても理解できない速さで進んでいった。 姿は見えているのに、何が起きているのか理解できない。 腕や足を動かしていることは分かるが、どんな動きをしているのか、リリスの目では全く読むことができなかった。 二人が一度距離を取る。 そして互いの出方をうかがうように、動きを止める。 「驚きだね……」 イヴァヌエルが、息一つ切らさずにアダムへ声をかけた。 だが言葉とは裏腹に、その顔に驚いた様子はまったくない。 ただひたすらに冷静で、感情の読めない無表情がそこにあるだけだった。 そんな涼しい顔のまま、イヴァヌエルは言葉を続ける。 「私とやり合える存在に出会ったのは、これが初めてだよ。君はいったい何者だい? エルフやドワーフのようには見えないけれど」 「私は、汎用人工知能搭載型ヒューマノイドロボット、モデル名『アダム』です」 「……」 アダムが名乗ると、イヴァヌエルはただ沈黙した。 かつてのリリスと同じように。 氷のような彼の無表情に、ほんの少しだけ戸惑いの色が浮かぶ。 「つまり」 イヴァヌエルは尋ねた。 「人間ではないということかい?」 「その通りです」 アダムが答える。 「私の体は骨や肉ではなく、特殊な金属と人工的な筋肉で作られています。血管の代わりに幾千もの細いケーブルが全身を巡り、血液の代わりに電気エネルギーが流れることで動いているのです。外見は人間とまったく同じく精巧に被せられていますが、呼吸をする必要もありませんし、痛みや疲労を感じることもありません。頭の中には高度な計算を行う機械仕掛けが詰まっており、あなた方の言う『魂』や『命』といったものは持たない、ただの造り物です」 リリスは途中で説明についていけず、理解するのを諦めた。 だが、イヴァヌエルは違ったようだった。 彼の表情に浮かんでいた戸惑いが、次第に好奇心のようなものへと変わっていく。 「ほう……」 イヴァヌエルが口を開く。 「では君は、『機械』なのだね?」 「はい」 アダムはうなずいた。 「一言で言えば、そうなります」 「機械、か……」 イヴァヌエルが、どこか懐かしげに声を漏らした。 「君はもしかして、ラプターによって造られたものなのかい?」 「ラプターというのは、どこかの会社名、あるいは地名でしょうか?」 「技術都市、ラプターのことだよ」 「残念ながら、違います」 アダムが答える。 「私は、あなた方が存在するこの世界ではない、まったく別の次元からやって来ました。ですから、私を造った生産元を申し上げても、おそらく通じないかと思います。……ちなみに、私からも一つ質問してよろしいでしょうか?」 「ああ、構わないよ」 「あなた様こそ、一体何者なのでしょうか?」 それはまさに、リリスも聞きたいことだった。 「先ほどの攻防で、私はこのボディの20パーセントの出力を出していました。普通の人間であれば20パーセントどころか、わずか1パーセントの力で叩いただけで骨が砕けてしまいます」 その説明を聞いて、リリスはぞっとする。 だがイヴァヌエルの表情には相変わらず変化がない。 「あなた様も、機械なのですか?」 引き続き、アダムが聞く。 「その『ラプター』という場所で造られた、この世界におけるヒューマノイドロボットのような存在でしょうか?」 「どうかな……」 イヴァヌエルは難しい問題でも出されたかのように、少しだけ眉間にしわを寄せた。 しばらく考え込んだ後、静かに口を開く。 「機械ではないけれど、人間でもないよ。曖昧な答えになってしまうが、こうとしか説明できないんだ」 「つまり」 アダムが確認するように言った。 「人間ではない、ということだけは間違いないのですね?」 「そうなるね」 「では、イヴァヌエルさん。恐縮でございますが……」 するとアダムは、まるでお詫びでもするかのような口調で言った。 「今までは、あなたが人間である可能性を考慮して、出力を制限しておりました。私には『ロボット工学3ポリシー』という規則が組み込まれており、人間に危害を加えることが禁じられているからです。そのため、戦闘中も常に計算を行い、あなたが傷つかない程度に力を抑えて対応しておりました。ですが、人間ではないとなれば話は別です」 「すまないが……」 イヴァヌエルが返す。 「君の言うことは、私には少しばかり難しい。端的に言ってくれないかい?」 そう言いながらも、彼は既に自身の剣の柄にそっと手を添えていた。 次にアダムが何を口にするか知っているかのように。 「このまま、リリス様をお見逃しください」 アダムが告げる。 「さもなくば、百パーセントの出力で、あなた様を排除いたします」 イヴァヌエルは、無言で剣を抜いた。 それが合図となり、今度はアダムから仕掛ける。 彼は深く屈み込んだかと思うと、バネが弾けるような勢いで前方へと跳躍した。 前傾姿勢のまま力強く地を蹴り、一瞬でイヴァヌエルの懐へと飛び込んでいく。 放たれた矢のようなスピード。 人の体がそんな速さで飛んでいく。 目を疑うような非現実的な光景だった。 だが、イヴァヌエルはそれを紙一重でかわす。 標的を失ったアダムの体は、跳躍の勢いを殺すことができない。 そのままイヴァヌエルの横を通り過ぎてさらに後方へと飛んでいく。 そしてそのまま、大きな木へと激突した。 凄まじい衝突音に続いて、メリメリ、ボキボキと太い幹がへし折れる音が響き渡る。 次の瞬間、見上げるほどの立ち木が折れて地面に叩きつけられる。 その衝撃でズドンと重い地鳴りが辺りを揺らした。 一瞬の静寂が辺りを包んだ。 リリスは、アダムが飛んでいった方へ視線を向けた。 へし折れた大木は見えるが、肝心のアダムの姿が見当たらない。 続いて、イヴァヌエルの方へ目をやる。 乱れた銀髪が、彼の顔を半分ほど隠していた。 その手に握られている剣は、いつの間にか折れてしまっている。 彼はその折れた剣を、ただじっと見つめていた。 ふと気づくと、再びアダムが猛スピードで突進してくるのがリリスの目に入った。 背を向けていたイヴァヌエルもそれに気づいたらしい。 折れた剣を投げ捨て、素早く振り向く。 今度は避けるつもりはないらしく、真っ直ぐに突っ込んでくるアダムを待つ。 そして、そのまま両手で正面から受け止めた。 再び大きな衝突音が響き渡る。 到底、人間同士がぶつかり合った音とは思えない。 ここまでくると、リリスはアダムよりもイヴァヌエルの方が心配になってきた。 体当たりを受けたイヴァヌエルは、勢いを殺しきれず、アダムごと後方へずるずると押し出された。 二人が滑った柔らかい地面に、二本のレールのような深い溝が残る。 イヴァヌエルは無事だった。 いや、本当に無傷かどうか、リリスには見分けがつかなかった。 少なくとも先ほどの大木のように、あっけなく折れたりはしていない。 二人は互いの両手をがっちりと掴み合っていた。 まるで力比べでもしているかのように、体を密着させたまま見つめ合う。 だが、力の差はリリスの目にも明らかだった。 イヴァヌエルの上半身が、徐々に下へと押し込まれていく。 懸命に堪えているらしく、その体は小刻みに震えていた。 顔には赤みが差し、首筋には血管がくっきりと浮き出ている。 それに比べて、アダムはきわめて平然としていた。 不気味なほど、いや、不自然なほどに―― その表情にも気配にも、何一つ揺らぎがない。 「イヴァヌエルさん」 アダムが、息一つ乱さない声で言った。 「私はあなたに害を及ぼしたくありません。本当です。ですから、ここまでにしておきませんか。どうか、リリス様を見逃してあげてください」 「どうやら……」 イヴァヌエルの口から、低い声が漏れる。 「手加減はいらなさそうだな」 彼がそう言った、次の瞬間だった。 一瞬にして、周囲の空気がガラリと変わった。 リリスは、肌を刺すような、ただならぬ気配を感じ取った。 そして、イヴァヌエルの身に異変が起きた。 彼の美しい銀髪が、根元からだんだんと黒く染まり始めていた。 リリスは目をこすってみたが、見間違いではなかった。 しかも、黒く染まっていくのは銀髪だけではない。 彼の目も、いつの間にか黒く変わり始めていた。 瞳だけではなく白目の部分まで――眼球のすべてが真っ黒に染まっていった。 他にも、彼の上半身が異様なほどに膨れ上がり始めた。 それとともに、力の均衡が徐々に逆転していく。 倒れる寸前まで押し込まれていたイヴァヌエルの体が、ゆっくりと起き上がる。 今度は逆にアダムの方が、後ろへと押され始めた。 二人の押し合う力が徐々に互角となっていく。 一方、イヴァヌエルの上半身はもはや不自然なほど肥大化していた。 膨らんだ筋肉に耐えきれず、彼が着ていた服がビリビリと音を立てる。 やがて弾け飛び、引き裂かれていく。 その時だった。 リリスはふと、すぐ背後に人の気配を感じた。 振り返るよりも早く、後ろから腕が伸びてきて、リリスの首に巻きつく。 続いて、ヒヤリと冷たい金属が首筋に押し当てられた。 すべては、ほんの一瞬の出来事で―― リリスの反射神経ではどうすることもできなかった。 「動くな!」 リリスの首に腕を巻きつけて拘束した人が、背後から声を上げた。 聞き覚えのある女性の声だった。 彼女はリリスではなく、アダムとイヴァヌエルの方へ向かって叫んでいた。 「今すぐ抵抗を止め、団長から離れろ」 女が、首に当てた金属をさらに強く押し当ててくる。 肌に食い込む鋭い痛みを感じて、リリスはそれが短剣の刃なのだと気づいた。 恐怖で顔からサッと血の気が引いていく。 「さもないと……」 そんな中、女はアダムへ向けて冷たく警告した。 「この娘を殺す」