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第23話


ひどく騒がしい音で、リリスは目を覚ました。  耳元で響くのは、幾羽もの鳥たちが甲高く鳴き交わす声。  彼女はまぶたをこすりながらゆっくりと体を起こした。  自分が岩の上ではなく、ふかふかとした草と苔のベッドに寝かされていることに気がつく。  昨夜の記憶が少しずつ蘇ってくる。  視線を巡らせると、少し離れた場所にアダムの姿があった。  彼は昨夜と変わらない姿勢のまま、静かに座り込んでいる。  リリスが上半身を起こした動きを感知したのか、アダムもゆっくりと顔を上げた。  伏せられていたまぶたが開き、その瞳に静かな青い光が灯る。  そして、朝の挨拶を投げかけてきた。 「おはようございます、リリス様。お目覚めはいかがですか?」 「……うん。悪くなかった」  素直にそう答えると、アダムは安心したように頷いた。 「それは何よりです」  彼がそう口にした直後だった。  ――ぐぅぅぅっ。  森の中に、リリスの腹の音が盛大に鳴り響いた。  一気に顔が熱くなる。  昨夜、小さな木の実を少し口にしただけなのだから無理もない。  リリスは恥ずかしさで思わず俯いてしまった。  アダムが口元にわずかな微笑みを浮かべた。 「では、何か朝ごはんになるものを探してきましょう」 彼はそう言って、ゆっくりと立ち上がった。 「ここで待っていてください」  アダムはそう言い残し、朝の森へと歩き出した。  それからほんの少し待っただけで、アダムは戻ってきた。  その両手には、いくつか色鮮やかな木の実や果実が乗せられている。 「お待たせしました」  アダムはリリスの前にしゃがみ込んだ。  そして汚れを拭き取った木の実を、そっと彼女に手渡す。 「少しですが、召し上がってください」 「……ありがとう」  リリスは小さく礼を言い、受け取った木の実を口に運んだ。  瑞々しい甘さが空っぽの胃に染み渡っていく。  いくつか実を食べ進めたところで、ふと彼女は顔を上げた。 「……君は?」  リリスは自分だけが食べていることに気まずさを覚え、彼に尋ねた。 「食べないの?」 「はい、私は大丈夫です」 「どうして?お腹、空かないの?」  リリスは不思議そうに問いかけると、アダムは静かに首を横に振った。 「私には、食事をとる必要がありません」 「必要が……ない?」 「はい。私はヒューマノイドロボットですので、人間の食べ物を消化して栄養にする機能は備わっていません。人間の食事の代わりに、電気エネルギーを充電することで動いているのです」  アダムの落ち着いた説明を聞いて、リリスはまじまじと彼の姿を見つめた。  やはり、この人は人間ではないのだと、改めて実感させられる。 「じゃあ……君の食事は電気、ってこと?」 「はい、そういうことになります」  アダムが頷くと、リリスは少し口ごもった。  そして、膝の上で食べかけの果実を落ち着きなくもじもじと動かすと、少しだけ上目遣いになってアダムを見つめた。 「……じゃあ、電気、食べる?」  リリスが言うと、アダムの顔に一瞬嬉しそうな笑みが浮かんだ。  しかし、彼はゆっくりと首を横に振る。 「お気遣いありがとうございます。ですが、今は大丈夫です」  アダムは説明した。 「現在の私のバッテリー残量は80%を超えていますので、すぐに電気を補給する必要はありません。それに……今のリリス様には、なるべく電気を出していただきたくないのです」 「どうして?」 「リリス様の精神状態やバイタルサインは、まだ不安定な状態にあります。そしてリリス様の体調はその電気の力と深く結びついています。無理に電気を放出すれば、お体に負担がかかってしまうでしょう。ですから、今はどうかご自身の安静を優先してください」 「……わかった」  リリスは渋々といった様子で小さく頷くと、再び手の中の果実に齧りついた。  もぐもぐと口を動かしながら、リリスは自身の体の調子を静かに確かめてみる。  小さな果実をいくつか食べたところで、お腹はまだまだ空いている。  着ている服は泥や泥濘で汚れ、あちこちが擦り切れてボロボロだ。  帝都の地下牢を抜け出し、ろくに休む間もなく逃げ続け、ついには森の冷たい土の上で野宿までした。  誰がどう見ても浮浪者と変わらない姿だろう。  鉛のように体中が重く、あちこちが痛む。  けれど――不思議なことに、精神的にはそこまでの疲労を感じていなかった。  むしろ、今まで味わったことのないような奇妙な感覚に包まれていた。  それは「爽快」といった晴れやかなものでも、「自由になれた」という単純な開放感でもない。  生きている――  人生で初めて、リリスはそんな実感を抱いた気がした。  それは、決して悪くない気分だった。  手にしていた最後の果実を食べ終えると、リリスはゆっくりと立ち上がった。  しかし体は重く、ぐらりとよろめいてしまう。  それを見たアダムが、反射的に一歩を踏み出し――  ピタッと動きを止めた。  リリスの胸に、ちくりと申し訳なさがよぎった。  疲労で頭の中がぼんやりとしていて、細かいことはよく覚えていない。  けれど昨夜、彼に対して何かきつい言葉をぶつけてしまったような気がする。  やがてリリスが自力でしっかりと地面に立つと、アダムもそれに従うように静かに立ち上がった。  二人は正面から向かい合う。  ちょっとした沈黙が落ちた。  頭上では、相変わらず鳥たちのさえずりがのどかに響いている。  ぼんやりとその鳴き声を聞きながら、リリスはぽつりと問いかけた。 「……これから、どうすればいいの?」  その問いに、アダムは落ち着いた声で答えた。 「このまま森の中で暮らし続けるのは、あまり現実的ではありません。今はまだよくても、いずれ食糧の調達にも限界が来るでしょう」 「じゃあ……これからどこに行けばいいの?」  不安そうに見上げてくるリリスを安心させるように、アダムは穏やかな声で続けた。 「まずは、追手が派遣されている可能性は極めて高いです。なので、人々の目を避けながらこの森を抜けましょう。そして、帝都の影響が行き届かない、なるべく遠くの土地を目指すのが安全かと思われます」 「……」  リリスは小さく深呼吸をすると、どこかあきらめたような色を浮かべて言った。 「つまり、とりあえず帝都から遠ざかることくらいしか、今は打つ手がないってことね?」  声からは絶望して取り乱すわけでもなく、思いのほか冷静な響きがした。  その落ち着いた声に、アダムの青い瞳の光がわずかに揺れる。  少し驚いたようだった。 「……おっしゃる通りです」  アダムは素直にうなずいた。 「正直に申し上げまして、今は帝都からやって来るはずの追っ手を振り切り、とにかく距離を置くこと。それが、今の私たちにできる精一杯のことです」  それを聞いて、リリスはふっと息を吐き出した。  状況は絶望的かもしれない。  けれど、リリスは不思議とパニックになることはなかった。  ただ、今の自分がやるべきことがはっきりしただけだ。 「わかった。……行こう」  リリスが決意を込めて前を向く。  すると、アダムも「はい」と短く、けれど力強く応えた。  森のもっと奥へと、足を踏み入れる。  最初は木々が深く生い茂り、どこが道なのかもわからないような道のりだった。  野生の動物たちが通ってできた細い獣道を、土や草を踏みしめながら慎重に進んでいく。  頭上からは木漏れ日がきらきらと降り注ぎ、風が吹くたびに青葉がさわやかな音を立てる。  そんな豊かな自然の中をしばらく歩き続けていると、足元の様子が少しずつ変わってきた。  邪魔な石ころや突き出た木の根が減り、段々と歩きやすくなっていく。  やがて、明らかに人の足で踏み固められた平らな土の道が現れた。  伸び放題だった枝葉も人の手で払われた形跡がある。  すると、前を歩いていたアダムの足取りが徐々にゆっくりになっていった。  やがて彼は完全に足を止め、後ろを歩くリリスへと振り返る。 「リリス様。どうやら、この先に村がある可能性が高いようです」 「うん、そうみたいだね……」  リリス自身も、ただの獣道から段々と歩きやすく整っていく道を見て、うすうす人の気配を感じ取っていたところだった。  彼女が少し緊張した面持ちになると、二人の間に短い沈黙が落ちた。 「どういたしますか?」  やがて、アダムが問いかける。 「このまま進みますか、それとも引き返して別の道を探しましょうか?」 「……」  そう聞かれても。  外の世界を知らないリリスにはどうすべきか判断がつかない。  彼女は不安そうにアダムを見上げ、逆に問い返した。 「……あなたはどうした方がいいと思う?」 「私としては、このまま村へ向かうべきだと考えます」  アダムは答えた。 「理由は二つあります。一つは、水分の確保です。昨日の夕方にこの森へ入ってからかなりの時間が経ちますが、未だに川や湧き水といった水源が見当たりません。先ほど召し上がった果実の水分だけでは、いずれ限界が来ます」  そう指摘された途端、リリスは急に喉の奥がカラカラに渇いていることに気がついた。  今までは気が張っていて忘れていたものの、意識した途端、無性に水が飲みたくなってくる。  ごくりと唾を飲み込もうとしたが、喉が張り付くように痛んだ。 「もう一つの理由は、物資の調達と休息です」  アダムは続けた。 「今のリリス様の服、ボロボロです。それに、野宿のままではお体の疲れも取れません。村に入れば、安全な井戸水はもちろん、運が良ければ着替えや日持ちのする食料なども手に入るかもしれません」 「でも……もし村の人たちに攻撃されたり、捕まったりしたらどうするの?」 「ご安心ください。帝都から追手がすぐ放たれていたとしても、帝都の外の広大な国土の中で、私たちの現在地を即座に特定することは不可能です。それに、このような辺境の村人たちが、帝都の事情やリリス様のお顔を詳しく知っているとも考えられません」  アダムはそこで言葉を区切り、少しだけ声のトーンを和らげた。 「私たちが素性を隠し、ただの旅人として振る舞えば、怪しまれる危険は低いはずです。それに、万が一の事態が起きたとしても、私が必ずリリス様をお守りします」 「……」  お守り、という言葉を聞いて、リリスの胸の内に渦巻いていた不安がふと和らいだ。  それに、彼の言う通りだった。  ここで恐れて立ち止まっていても、喉の渇きはひどくなるばかりなのだ。  リリスは納得して頷いた。 「……わかった。村へ行ってみよう」  すると、アダムは「承知いたしました」と応え、村へと続く道を先導するように歩き始めた。  リリスも静かにその背中を追う。  これまではどこか警戒心が拭えず、常に数歩分の距離を空けて彼の後ろを歩いていた。  しかしさらに道を進むと、事情が変わった。  やがて木々の隙間から、丸太を粗く組んだ質素な防柵――  村の入り口を示す素朴な木の門が見えてきたのだ。  辺境の小さな集落らしい、静かで閉鎖的な気配が漂っている。  見知らぬ人々の生活圏が目前に迫った途端、リリスの胸に追われる身としての不安が大きく膨れ上がった。  彼女は本能的な恐怖に駆られ、思わず小走りになると、前を歩くアダムのすぐ背後へと身を寄せた。  背中に身を寄せた気配に気づき、アダムが歩みを止めて振り返った。  そして、怯えるリリスを安心させるように、柔らかな微笑みを向けてくれる。  昨夜の暗闇の中ではあれほど不気味に思えた彼の青く光る瞳が、今の彼女には何よりも心強く、確かな拠り所のように感じられる。  強張っていた肩の力が、少しだけ抜ける。  いつしか二人の間にあった距離は完全に縮まっていた。  二人は肩を並べるようにして、ゆっくりと村の入り口へ歩みを進めていった。  丸太を粗く組んだだけの素朴な門が、いよいよ目前に迫る。  その時だった。  門の向こう側で、ふいに人影が動いた。  足音に気づいた誰かが、ゆっくりとこちらへ顔を向ける。  息を呑んだ次の瞬間――  リリスはその村人と、真正面から視線がぶつかった。