広場は、たちまち大勢の村人たちでごった返すようになった。 魔女が井戸の水を浄化してくれるという話が、またたく間に村中へ広まったためである。 とはいえ、およそ三百人いる村人が全員集まったわけではない。 ちょうど半数の、おおよそ150人弱だろうか。 残りの者たちは深刻な水分不足によって動く気力すら失い、家の中で横たわったまま、ただ静かに死を待つことしかできない状態なのだという。 どこか浮足立ったような、騒々しい空気が広場を包み込んでいる。 その只中で、リリスは不安を押し殺すように口を開いた。 「……それで、私は何をすればいいの?」 「そうですね……」 尋ねられると、アダムは即座に答えた。 「まずは、汚染の根本的な原因を特定する必要があります。それが分からなければ、的確な浄水の計画を立てることができません。手始めに原因の分析へと参りましょう」 そう言ってアダムは、村長と神父、さらには近くに集まっている、やる気のある数人の青年たちに向かって問いかけた。 「井戸の水が汚染された理由について、何か心当たりがある方はいらっしゃいませんか?」 「だから魔女の仕業だと言っておるじゃろうが」 真っ先に口を開いたのは、村長だった。 「さもなければ、常にきれいな水が湧き出るはずの井戸が、いつまでもあのように濁り続けるわけがない。何かひどく不自然な力が、あの井戸の底で働いておるに違いない。呪われたのだよ、きっと」 すかさず、神父が穏やかな口調で割り込む。 「ですが村長。そうして何でもかんでも魔女のせいにしてしまっては、結局のところ原因の究明はできず、話は何も前に進みません」 神父に諭され、村長はぶつぶつと文句をこぼしたが、その声は小さく、すぐに消え入った。 「ですが、村長の推察はあながち間違いとも言い切れません」 アダムが頷いてみせる。 「確かにおっしゃる通りなのです。そもそも井戸の水というのは、地中深くを流れる地下水脈から汲み上げられています。水は土や砂の層という天然のフィルターを通り抜けながら絶えず流れているため、仮に何らかの原因で一時的に濁ったとしても、時間の経過とともに新たな澄んだ水が流れ込みます。自然と元通りになるはずなのです。それにもかかわらず、これほど長期間にわたって水が酷く腐敗し続けている状態は、地学的な観点から見ても明らかに不自然だと言えます」 「一つ気になるのは……」 青年のうち一人が口を挟んだ。 「あの腐ったような匂いですが、どこか獣の肉が腐った匂いに似ている気がするんです」 「そうそう、私もそう思ってた」 それに同調するように、細身の村娘も言う。 「何か大きな動物でも井戸に落ちて死んじゃったんじゃないかって……」 「いや、それはない」 すると、筋骨隆々とした中年の男が割り込んだ。 「水から匂いがし始めた時、俺たちで中を調べたじゃないか。井戸の底には動物の死骸なんて何一つなかった。ただ透明な水があるだけだったんだ」 「それなのに、匂いはした……ということですか?」 アダムが尋ねると、中年の男は重々しく頷いた。 一時の沈黙が降りたが、それも長くは続かず、すぐにアダムが明徴な声を響かせた。 「直接調べてみましょう」 アダムは言葉を続ける。 「土壌そのものが汚染されたか、あるいは動植物の腐敗以外にも、未知の物質が水脈に溶け込んでいる可能性も考えられます。とにかくここで推論を重ねていても埒が明きません。もう一度あの蓋を開けて、直接調べるしかなさそうですね」 すると、全員の視線が一斉に井戸へと向けられた。 先ほど狂乱してしまった男が開けた蓋は、今はすでに村人の手によって固く閉ざされている。 リリスは自ずと眉間にしわを寄せた。 またあの凄まじい悪臭を嗅がなければならないのかと思うと、ひどく気が滅入る。 「では、行きましょうか」 そう言って、アダムが迷いなく井戸へ向かって歩き出す。 すると青年たちや神父もすぐにそれに続いた。 村長も忌々しげに舌打ちをしながら後に続く。 逡巡していたリリスも、結局その背中を追うほかなかった。 井戸の前に辿り着くと、リリスの眉間に寄った皺がさらに深くなった。 まだ蓋を開けてさえいないというのに、すでに悪臭が漂ってきている。 やがて手伝おうという意志のある者たちが、ぐるりと井戸を囲むように集まった。 だが、誰もがリリスと同様、渋い顔をしている。 誰が蓋を開けるのかという無言の牽制が生まれる。 そんな中、アダムが躊躇なく真っ先に木の蓋へと手をかけた。 「では」 アダムが平然と告げる。 「開けますね」 その言葉を聞いた瞬間、集まった全員が一斉に服の袖を引き上げ、鼻と口を覆った。 アダムが蓋を開けた。 すると、待っていましたとばかりに猛烈な悪臭が井戸の底から噴き上がった。 「う、うううっ……!」 早速全員の悲鳴が続く。 まるで煙突から立ち上る黒煙のように、もはや目に見えるのではないかと錯覚するほどの凄まじい腐臭が、瞬く間に井戸の周囲へと充満する。 「うええぇっ……ひどい!」 激しい吐き気を催し、リリスは咄嗟に背を向ける。 逃げるようにして井戸から遠ざかる。 「早く……」 耐えきれず、誰かが叫んだ。 「早く蓋を閉めろ!」 その声に呼応するように、次々と悲鳴に近いえずき声が上がる。 顔をありったけ歪め、人々は口元を固く押さえたまま、蜘蛛の子を散らすように後退していった。 目や鼻を突き刺すような暴力的な匂いの波に、むせ返って咳き込む者や、胃液を吐き出しそうになってその場にうずくまる者まで現れる。 「ですが……」 蓋を掴んだまま、アダムが困り顔で言った。 「蓋を開けなければ、中の調査ができません」 「調査以前の問題じゃ!」 村長が顔を真っ赤にして叫ぶ。 「このまま嗅ぎ続けたら、喉の渇きで死ぬ前に、この悪臭で殺されてしまうわ!」 結局、アダムは静かに蓋を元通りに閉めた。 それからしばらくの間―― 散らばった人々は、悪臭の波が薄れ、鼻腔を突く残響が消え去るまで待つほかなかった。 やがて井戸の周りの臭気が徐々に薄れてくると、人々は再び井戸の周りへとぞろぞろ集まってきた。 「困りましたね」 神父が顔をしかめて言った。 「これでは到底、調査など不可能です」 リリスも同感だった。 現実問題として、人間の鼻で耐えられる限界を優に超えている。 そこでふと、リリスはある疑問が口に出されるのを予感する。 実際に、誰かがその問いを発した。 もちろんアダムに向けられたものだった。 「ところであなたは、平気なんですか?」 その一言で、全員の注目がアダムへと集まる。 「言われてみれば、その通りじゃ」 村長がいぶかしげに目を細める。 「井戸の一番近くにおり、自ら蓋を開けたくせに、眉ひとつ動かしておらんではないか。お主、どうして平気にいられるんだ?」 「私は、忍耐力が並外れているからです」 アダムが事もなげに即答した。 リリスは強張った体を緩め、安堵の息を吐いた。 アダムが正直に「自分は人間ではない」だの「ロボットだ」だの、牢獄の中で聞かされたような意味不明な説明を始めてしまうのではないかと危惧していたのだ。 どうやらそこまで空気が読めないわけではないらしい。 「もちろん、これはひどい匂いです」 アダムは言葉を続けた。 「ですが、私にとっては耐えられないほどではありません。……結局のところ、調査は私単独で行うしかなさそうですね」 「忍耐力って……」 筋骨隆々の中年男が呆れたように言う。 「気合でどうにかなるような代物じゃねえだろう。……大した男だぜ」 「まあ、いいじゃないですか」 村娘がほっとした顔で息をついた。 「おかげさまで、とりあえず何とか調査を進められるってことですから」 「それはそうだけど……」 活発そうな青年が、どこか不満そうにこぼす。 「この男一人に、それもよそ者に、村の運命がかかってる仕事を任せちまっていいのか?」 すると、村娘がひんやりとした視線を青年に向けた。 「じゃあ、アレックスがやる?」 「……」 アレックスと呼ばれたその青年は、結局尻尾を巻いてしまう。 「そんな顔しないでくれよ、ラフィネ」 ラフィネと呼ばれた村娘は、ふんと小さく鼻を鳴らすと、彼を無視するように視線を逸らした。 「では、決まりですな」 神父が場を収めるように言った。 「彼にお願いするほかに道はなさそうですが、村長、よろしいですね?」 村長はアレックスと同様に忌々しそうな顔つきだったが、渋々といった様子で頷いた。 「……この状況じゃ、背に腹は代えられん。よそ者だろうがなんだろうが、頼むしかあるまい」 村長の同意を得て、神父はアダムの方へと振り返った。 そして静かに姿勢を正すと、厳かに頭を下げた。 「どうか、よろしくお願いいたします。どうかお力をお貸しください」 だが、アダムは神父の言葉には即答せず、リリスの方へと振り返った。 まるで「最終的な決定は、主であるあなたが下してください」とでも言いたげに―― 恭しい視線を向けてくる。 その動作につられて、村人たちの視線が再び一斉にリリスへと注がれた。 「……っ」 またしてものしかかってくる重圧から逃れるように―― リリスは首をすくめ、こくこくと小さく頷いた。 彼女の承諾を得ると、アダムは村人たちへと向き直る。 そして、余裕に満ちた、鮮やかな微笑みを浮かべながら言った。 「お任せください」