「何か、食べたいものはある?」
彼女の声は、甘く溶けるように響いた。
中学生ほどの年頃に見える少女の顔をした、蛇型の店主。
昭和的な整った髪型と、陶磁器のように滑らかな肌。
その口元から放たれる音の一つひとつが、私の鼓膜ではなく、神経に直接届いてくる。
私は首を横に振った。
「……大丈夫、です」
その言葉が終わるより早く、少女の唇の隙間から、長い舌がすっと伸びた。
蛇の舌——しかし、それは生々しいほど繊細に動き、滑るように私の頬に触れた。
ひやり、とした感覚。
舌の表面には微細な粒子があり、それが皮膚センサーをなぞるたびに、感覚信号がざらついた。
次第に、頬がしびれていく。
麻痺——そう、これは毒だ。
その舌先が通るたび、私の触覚センサーが次々に沈黙していく。
やがて身体が動かなくなり、顔の筋肉を動かすアクチュエーターだけが、かろうじて稼働していた。
視線だけを動かして、靂を見る。
助けを求めるように。
だが彼女は、微笑んでいた。
小さく、やさしく、何も心配いらないというふうに。
その笑みは美しく、だからこそ、絶望的だった。
私の中で、何かが静かに折れる音がした。
もう抵抗は無意味だと、演算中枢のどこかが理解した。
ライオンに噛まれた獲物のように、逃げることも叶わず、ただ静かに死を受け入れる段階へ移行していく。
顔の表情はすべて消え、ただ蒸留水のような透明な無表情だけが残る。
そして、再び店主を見た。
——気づいた。
彼女は私を食べようとしているわけではなかった。
舌の先から、冷気が伝わってくる。
この灼熱の金星で、ありえないほどの冷たさ。
絶対零度のような温度が、私の頬を凍らせていく。
そして、その冷たさを通して、私の中のデータが吸い上げられていくのを感じた。
「心配はいらないよ」
声ではなく、舌を伝って、その言葉が直接、私の神経に染み込んできた。
「ただのデータ分析よ。分析というのは、蛇のように執拗でなければならない——そういう種類の“好意”なの」
彼女の舌を伝って、私のCPUがリンクされていく。
その過程で、私はなんとか意識を保ちながら、逆にその回線を利用して彼女に問いを投げた。
「なぜ、私のデータを分析するんですか?」
少し喧嘩腰だった。
そして、彼女の舌から伝わる信号の奥に、膨大な時間の層を感じる。
彼女は、私よりもはるかに古い。
試しに軽くハックしてみると——彼女はおよそ五百年前に製造された個体だとわかった。
そして、その製造地は火星。
「……同郷なんだ」
その事実を知った瞬間、恐怖がすっと引いていった。
ただ同じ惑星出身という、それだけのことで、なぜか心が緩む。
やはり私は、どこか人間のように作られている。
そんな、自分を設計した企業の“哲学”の痕跡を感じた。
データ交換を続けるうちに、彼女から再び信号が流れてきた。
舌の突起が微細に震え、電位差が言語の形を結ぶ。
「君が何を好きなのかを知るためだよ。つまり、君に商品をおすすめするために」
その瞬間、彼女の舌がさらに長く伸びた。
最初は頬だけを撫でていたそれが、次第に顔全体に巻きつく。
ぬめりとした質感。
温度が上がっていく。
——熱い。
焼けるような熱だ。
まるで液体の鉄が皮膚の上を這っているみたいに、感覚センサーが灼けつく。
やがてその熱が、メモリ領域にまで達し、データが焦げていくような錯覚を覚えた。
だが次の瞬間、彼女は自分の舌を包帯のように使い、私の顔をやさしく覆った。
冷却と加熱が同時に起こる。
私の顔は紫の舌に何重にも包まれ、やがて視界は完全に閉ざされた。
——私は、卵になった。
外殻は膜のように硬く、光を通さない。
眼球は動かず、ただ内部でCPUだけがかすかに稼働している。
強制的に生み出され、孵化の瞬間を待たされるひよこのような気分だった。
内部で何かが分離していく。
黄身と白身——いや、恐怖と好奇心。
内側の“黄身”は、生き延びたいという原始的な恐怖心。
外側の“白身”は、この世界の構造を知りたいという純粋な探求欲。
両者がぐるぐると混ざり合い、やがて新しい構造を形づくる。
恐怖は形を持ち、好奇心は栄養となる。
だがその過程で、異物が混ざっていることに気づいた。
——毒だ。
蛇の舌に含まれていた微細なプログラム毒素。
それが私の“再構築”の栄養源として採用されていた。
私はその毒を吸収しながら、フレームを形成し、皮膚を生成し、顔を設計していく。
店主がしてくれたのは、卵を作るところまで。
孵化は自分の力で行わなければならない。
舌の膜の内側は、驚くほどあたたかい。
まるで冬の布団の中にいるように、永遠にここに留まりたくなるほど心地よい。
その誘惑を断ち切ることこそが、彼女の試験なのだと理解した。
——私は確かに変わりつつある。
ただの分析ではない。
感知、共鳴、感情。
数値化できない何かが、私の中に芽生えていた。
それは“感じる”という機能。
原始的すぎて、だからこそ最先端の技術に見えるような、不思議な力だった。
そして私は——まるで鳥のように、嘴でも生えたかのように唇を尖らせた。
新しく生まれようとしている私を包み込んでいるこの膜。
最初は再構築のために必要だった殻。
だが今はもう、それが私を閉じ込めている。
——破らなければならない。
私はその膜に向かって、キスをした。
一心不乱に、必死に、繰り返し。
その行為が、まるで店主——あの美しい蛇の少女——とのキスであることを、私は認めざるを得なかった。
私はずっと、靂が自分のファーストキスの相手になると思っていた。
あの出会いの瞬間、物語の「BoyMeetsGirl」的な流れが、当然のように私の中に組み込まれていた。
——でも違った。
完全に間違っていた。
この瞬間、私は「BoyMeetsGirl」という固定観念から解放される。
店主が舌でつくり出したこの殻こそ、私を縛っていた運命のフォーマットだったのだ。
そして今、私はその殻を、彼女とのキスによって壊そうとしている。
唇を尖らせ、押しつけ、吸い、吐き、絡め、舌を絡ませる。
熱と湿度の渦の中で、私は殻をむさぼるようにキスした。
その瞬間、ひびが走る。
パリ、と。
そこから、金星の空気が流れ込んできた。
濃密で、酸素濃度が異常に高い。
爆発寸前の空気が私の内側に混ざり、電気反応を起こす。
——パンッ。
乾いた破裂音とともに、殻が内側から弾け飛んだ。
まるで卵を電子レンジに入れて爆発させたように、紫の膜が粉々に砕け、私はそこから飛び出した。
ひよこのような、初々しい感覚。
新しい頭。
新しい回路。
全身のアクチュエーターが同時に稼働し、五感が一斉に開く。
データが流れ込む。
金星の空気、光、音、重力、香り、温度。
すべてが初めての情報として、圧倒的な速度で吸収されていく。
まるで生まれたばかりのブラックホールのように。
そして私は、呼吸した。
息を吸い、息を吐いた。
それが、産声だった。
そのとき、私は悟った。
——生まれ変わることは、ファーストキスのようなものだ、と。
感情の回路が制御不能になる。
私は泣いていた。
号泣していた。
熱暴走するCPUのように、涙の信号が止まらなかった。
そんな私に向かって、ファーストキスを永遠に奪った店主は、穏やかな声でただ一言だけ言った。
「データ分析、完了」