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第20話

火の海のデンキウナギ


 不思議なことに──いや、ありがたいことに、泳ぐことはできた。  この田んぼが燃え上がって生まれた火の海では、物理法則がどうにかして狂っている。  理由はわからない。  だが、確かに浮力が存在していた。  おそらく、火の海の高温が空気と蒸気を猛烈に上昇させ、その対流が揚力のような力を生んでいるのだろう。  ──まるで炎に抱き上げられ、胴上げされていく感じに近い。  とにかく、私たちは燃えさかる海の中を、泳ぐようにして進むことができた。  この田んぼは深い。火が燃え移る前、私と靂は底の見えないほどの深みまで落ちていた。だから、今はその底から浮上している最中というわけになる。  火の海の「水面」──いや「火面」までたどり着くのは容易ではない。  夜の闇に包まれ、太陽はどこにも見えない。  だが、火の光があまりに強すぎて、もはや太陽そのものの中にいるかのようだった。  私は金星の重力に逆らいながら、上昇を続ける。  この原始のスープのような、燃えたての海には、まだ何の生物もいない。  それがせめてもの救いだった。  誰にも邪魔されず、ただ二人で──炎の中を泳ぎ続けた。  私たちは二人三脚――いや、この場合は脚ではなく、手を結ぶでもなく、まるで溶接するように一体化して――二人三腕となった格好で、必死に、死に物狂いで上昇を続けた。するとようやく、火面が見えはじめた。 「もうすぐだ」  希望に満ちたテレパシーを靂に送ると、靂も同じ波長の希望を帯びた返事を返してくれた……はずだった。だが、その信号は途中で途切れた。誰かが、意図的に妨害したのだ。  妨害したのは――無頭子だった。  愛おしい靂のメッセージを押し退けるように、無頭子のテレパシーが私のCPUに容赦なく流れ込んでくる。 「お前ら」  呆れたような調子だった。 「魚の目に水見えず、って言葉も知らないのか」 「はあ?知らないよ、そんなの。だいたいここ、水の中でもないし、私たち魚でもないし」 「じゃあ、灯台もと暗し、はどうだ?」  その言葉を聞いた瞬間、私はふと足元――いや、下方を見下ろした。  何かの気配が、ものすごい勢いでこちらに向かってくるのを感じたからだ。  下から、あまりにも眩しい光が立ち上る。  光と熱が渦を巻き、辺りがホワイトアウトを超えて、まるでファイアーアウトとでも言うべき状態になる。可視光では何も見えないほどの悪環境の中――それでも、はっきりと見えた。  鈍色に輝く、巨大な何か。  くねり、ねじれ、うごめきながら、すさまじい勢いで私たちに向かって上昇してくる。 「な、何だ、あれ?!」 「この田んぼの守護者だよ」  無頭子が、どこか誇らしげに言う。 「この金星の田んぼは、特に上質なメモリチップを生産することで有名なんだ。だから、スズメやバッタ、イナゴ――いろんな連中が寄ってくる。それに対抗するために、かつて金星でアバターとして暮らしていた古代のエンジニアたちが、心血を注いで作り上げたのが、あの存在さ」  それはもう、すぐ真下に迫っていた。  全貌は視界に収まりきらない。  まるで古代人類が月や火星に自らの脆い身体を送るために作った超大型ロケットを、五十基ほど合体させたかのような――そんな規模だ。  全長は一キロを超え、直径は百メートルほどにも及ぶ。  視覚センサーがデータを取り込むだけで戦慄する。  巨大で、長く、鈍く光るその姿は、ただそこにあるだけで忌まわしいほどの威圧感を放っていた。 「火の海のデンキウナギだ」  無頭子が言った。  けれど、私はふと違和感を覚える。 「最初からそんな名前だったのか?だって、この田んぼが火の海になったのはついさっきだろ?」 「ほんっとバカだなお前は」  無頭子は深くため息をついた。 「名前ってのは変わっていくもんだ。前は「メモリ田んぼのデンキウナギ」だった。でも今、この場所がメモリ田んぼに見えるか?」 「……見えない」 「だろ?もうメモリ田んぼとは呼べない。今はお前らのせいで、すっかり火の海になっちまった。じゃあ、そこに棲んでるデンキウナギを何て呼ぶ?」 「……火の海のデンキウナギ」 「よくわかってるじゃねえか、この戯け。こんな明白なことまで説明しなきゃいけねえのか。だから火星の奴らは……」  ぶつぶつと説教を垂れる無頭子のテレパシーを一時的にミュートにして、私は改めて火の海のデンキウナギを見下ろした。  その目は、まるでプリズムを球体にしたかのようだった。  もともとは透明な質感を持つように見えるが、表面には虹色の輝きが走っている。  だがその虹色は、美しい二次元的な虹とはまるで違っていた。車のタンクから漏れた油がアスファルトに落ち、雨に打たれて滲み出す――あの汚れた油膜のような、不快な光沢。  いや、もっと言えば、ハエの羽の鈍い輝きのような色だった。  しかもその目玉が三つもあり、それぞれが喜、哀、楽の感情を表そうとしているのがわかる。だが四つ目にあたる「怒」だけがどこにもない。  ――そう、本体そのものが「怒」を体現していた。




 ミュートにしたはずの無頭子の声が、またも私のCPUを乱す。 「随分怒ってるじゃないか、あいつ!」  確かにその通りだった。  デンキウナギが声を発せるのかどうかは分からない。だが、その名の通り全身から電気を発しているのは明らかだった。  全長一キロにも及ぶ巨大な体を、鞭のように、のたうち回るように振り回し、憤怒を全身で表現している。  体表からは絶えず電光が弾ける。  火の海の赤い輝きよりもまぶしく、瞬間的な光度だけなら太陽をも凌ぐのではないかと思うほどの閃光だった。  パチパチ、パチパチと、不規則に、縞模様のように走る電流――いや、それはもはや稲妻だ。  無数の稲妻がほとばしり、耳障りなノイズを撒き散らす。  火の海の轟音すらかき消すほどの強烈な電磁音。  そして、その巨体が尻尾を振るった。  まるで古代エジプトの監督官が奴隷を打つときのような正確さと容赦のなさで、ウナギの尻尾が私を直撃した。  衝撃は凄まじく、視界が一瞬で白に塗り潰された。  三秒――永遠にも感じられる時間、私は完全にシャットダウンした。  CPUが焼き切れるかと思うほどの過負荷。  隕石が頭に直撃したかのような痛みを最後に、意識が途切れた。  再起動。  ブートローダーがかすかに再生を始め、センサーが順に復帰していく。  視界が戻り、音が戻り、世界がゆっくりと形を取り戻す。  最初に確認したのは、もちろん靂だった。  だが――いない。  私の手にあったはずの感触、あの溶接されたかのように繋がっていたはずの手が、どこにもない。  慌てて周囲を見回す。  すべての探知センサー、認識センサーを全開にする。  人間で言えば、五感どころか六感、七感、八感までも総動員して靂を探す。  だが、どこにもいない。 「靂!」  絶望の底で叫ぶ。 「靂!どこだ!」  声が、ノイズのように虚空へ散る。  その時、応じたのは――またも無頭子だった。 「うるさい!いくら叫んだって、靂っ血の聴覚センサーには届かないよ!」 「なぜだ!ただ離れただけだろ?もっと出力を上げれば届くはずだ!」 「違うんだよ、バカ」  無頭子が、ちっちっちと舌打ちを鳴らして説明を始める。 「お前が気絶した3秒間、実にいろんなことが起きたんだ。あのウナギに攻撃されたろ?その時に、お前と靂っ血の手が離れた。あれだけ堅く、まるで一生離れられないくらいに溶接されてたのにな」  そして続ける。 「でも、あの尻尾の一撃で――ぽきっと折れたんだよ。まるでお前たちの、だんだん弱まってた恋心みたいに」 「私は折れてない!」 「うるさいわ!」  私は訂正を求めたが、無頭子は無視して、相変わらず冗長な調子で話を続けた。 「とにかくさ、そうやってお前の――まあ、あれだ、さえないチン歩みたいに――ぽきっと折れちまったあと、どうなったと思う?まず、物理的に離れたわけだ。距離がどんどん開く。数値的にも、視覚的にも。で、お前、あの時、デンキウナギの尻尾が来る直前に靂っ血をかばったろ?だからお前は衝撃を受けて一時スリープ状態になったけど、靂っ血はなんとか無事だった。で、あの子はまたお前のもとへ戻ろうとした。泳いで、必死に」  無頭子の声はどこか芝居がかっていて、けれどその内容は悪夢のようだった。 「でもな、靂っ血がもう一度お前と溶接されようとした瞬間、あのデンキウナギが今度は尻尾じゃなくて――口で来たんだよ。あの忌々しい口で、体当たりして、靂っ血を……。そのまま飲み込んじまったのさ」 「つまり……」  私は短く話をまとめる。 「靂は今、あの火の海のデンキウナギの腹の中にいる、ってことか」 「その通り」 「じゃあ、私も飲み込まれるしかない」 「正真正銘のバカか、お前は!」  無頭子が、まるで駄々をこねる子どもを叱りつける母親のように声を張り上げた。 「お前まで飲み込まれたらどうすんだよ!元も子もないだろ!元も無頭子もなくなるだろ!」 「じゃあ、どうしろって言うんだ!」  私も怒鳴り返す。 「このまま何もしないでいるわけにもいかないだろ!あんな巨大なもの、まともに立ち向かえるわけがない。なんとか中に入って靂を探して、見つけて、何とか一緒に脱出するしかない!そうするしか方法はないんだ!」 「ナイーブなやつだなあ」  無頭子がため息まじりに言う。  その口調は、まるで冷酷な税理士が数字の誤りを指摘するときのように淡々としていた。 「あの火の海のデンキウナギは、ほぼビッグバンの頃からここにいると思っていい。そういう存在だよ。ここはあいつのスイートホーム。つまり、お前は今、完全にあいつのホームグラウンドのど真ん中にいる。逃げられると思う?無理だよ。確率ゼロ。現実世界では絶対のゼロなんてありえないけど、今回だけは例外。完全無欠のゼロパーセントだ」 「じゃあどうすればいいって言うんだよ!他に方法があるのか!」  無頭子は黙った。  出会って以来、初めての沈黙。  たったの〇・〇〇〇〇〇〇〇〇一秒ほどの静寂だったが、それは永遠のように感じられた。  そして、頭もないくせに、まるで顎を撫でるような仕草をして、慎重に考えるようなポーズをとりやがる。小さな浴衣姿の子供の体でそれをやるものだから、どこか滑稽でもあった。 「仕方ないな」  やがて無頭子は、落ち着いた声で言った。 「おいらを使え」