覚醒した瞬間、頭がおかしくなったのではないかと疑うほどの蝉時雨が、私の聴覚センサーを乱切りにした。
とにかく視界が赤い。
瞼の裏に紅いシロップでも塗られたのか、あるいは赤い金平糖を目やにとしてつけられたのか。視覚センサーは、かつて認識したことのない赤く滲んだ世界を映し出している。
「お兄ちゃん」
どこからか声が届く。
少女の声だ。
私のデータバンクには存在しない声紋。
その声を分析してメモリチップに格納するより先に、まずは自分自身のステータスを確認し、自己認識を確立させなければならない。
私はひどく億劫な気分を押し殺し、脳内を直接かき回して診断するよりは手っ取り早いだろうと判断して、問いかけた。
「私の、名前は?」
喉のどこかに埋め込まれたスピーカーから発せられた自分の声は、まるで他人のもののように響いた。初めて聞く声のようだが、決してそうではないという確信もある。少なくとも、たった今工場から出荷されたばかりの新品ではないという状況だけは、はっきりと理解できた。
「お兄ちゃん」と呼んだ少女からの返事を待つ間に、私は緩慢な動作で両手を持ち上げ、瞼を擦った。
すると、赤色の滲みは案外あっさりと拭い去られた。
代わって現れたのは、黄金色の色調だった。
光源も、大気も、視界のすべてが黄金のパステル・トーンに彩られている。
その輝きは、見る者の心を穏やかに鎮めるゴールドのバイブレーションに満ちていた。
一体あの最初の赤色は何だったのかと怪訝に思いながら、私は環境データの収集を開始する。
私は仰向けに、大の字になって倒れている。
背中にはピクニック用の敷物のような、カーボン素材の布の感触がある。
システム全体が微睡むような、余裕と安らぎに満ちたそよ風のような気配に撫でられながら、私は頭上を覆い尽くす空を見上げた。
遮蔽物一つない、どこまでも広がる真昼の空。
分析結果が出た。ここは金星だ。
おかしい。私は火星のヒューマノイド・ロボットのはずなのに。
「寝ぼけてるの?」
可愛らしく、はしゃぐような少女の声が眼前にポンと落とされた。
その音はシャボン玉の形をしていて、私の鼻先に触れるとパチンと弾けた。
少女はもう一つ、言葉のシャボン玉を吹きかけてくる。
「黽、でしょ?」
「……黽?」
私は寝転がったまま首をかしげた。
「変な模様だな。どんな読み方をするんだ?」
「カイ、だよ」
「そうか……」
私は首をかしげた角度のまま頷き、そのまま頭を回転させて、シャボン玉の飛んでくる方向へと顔を向けた。
そこには、設定年齢九歳ほどの、ショートカットのヒューマノイド・ロボットがいた。
その瞳があまりにも怒り狂ったような赤色を帯びていたため、一瞬視線を逸らしたくなるほどの恐怖を覚える。だが、その顔つきはあくまでも爽やかで、あどけない子供の笑顔そのものだった。
私は気のせいだと思い直し、目を逸らさずにその小さなヒューマノイドに尋ねた。
「君の名前は?」
「霖だよ。読み方はリン」
「霖」
その名を口にした途端、正体不明の凄まじい恐怖と、それを上回る罪悪感が胸に込み上げてきた。
だが、霖の瞳がさらにギラギラと赤く輝くと、沸き上がった負の感情は焼き殺された虫のように縮こまり、焦げ付いて消滅した。
「妹の名前も忘れてしまうなんて……」
霖は悲しげな表情を作って、私を深く見下ろした。
「私、傷ついた」
それを聞いて、私はまず身体を起こそうと試みた。
ボディのアクチュエーターへ本格的に始動シグナルを送る。今になってようやくブートローディングが完了したかのような感覚と共に、私は上半身を起こした。
正面に座る霖の背後に、一軒の家屋が見える。
ありふれた田舎の、平屋建ての和風建築だ。
その家を凝視していたせいで霖の顔がぼやけていたが、私は再び焦点を手前に戻し、彼女の顔を鮮明に捉え直した。
そして口を開く。
「ごめん」
とりあえず謝罪しておいた方がいいという強い衝動に駆られたのだ。
そして私は、状況を簡潔かつ明確に説明できる、ほぼ無敵の切り札を提示した。
「私、記憶喪失になってしまったみたいだ」
すると霖は、わざとらしいほど大袈裟に驚愕してみせた。
ショックを受けたような、パニックに陥ったような顔。
「じゃあ、霖のこと、全部忘れちゃったの?」
私は素直に首を縦に振る。
「うん」
霖はさらに深刻そうな表情を作ろうとしたが、突如として「今までの反応は全部演技でした」と茶化すように破顔した。緊張など微塵も感じさせない、この上なく優しく、安らぎに満ちた笑顔を向けてくる。
「大丈夫だよ。ヒューマノイド・ロボットが記憶喪失になるなんて、そんなに珍しいことじゃないし」
「……そう、なのか?」
私が怪訝そうに尋ねると、霖はしげしげと頷いた。
「そうだよ。火星ではどうか知らないけど、金星のヒューマノイドはしょっちゅう色んなことを忘れちゃうんだ」
「でも私は、火星製のヒューマノイドだ」
「だから……」
霖は人差し指を立てて、諭すように言った。
「つまりお兄ちゃんも、もうすっかり金星のヒューマノイドになっちゃったってわけ」
「……」
全く嬉しくなかったので黙っていると、霖はふてくされたように頬を膨らませた。
私はその頬に親指と小指をあてがい、口の中の空気を押し出すように絞ってみた。
すると、彼女の唇が夜明けのつぼみのように小さく開き、そこから淡い紫色のシャボン玉が一つ、ふわりと溢れ出した。それが私の鼻先に触れた瞬間、あるはずのない大火災の記憶が地震のように全身を振動させたが、それは〇・〇〇〇〇〇七秒も経たぬうちに収まった。
だが、私の背筋には絶対零度に近い悪寒が走った。
うっかり忘れていた何かを不意に思い出したような閃き――それが訪れるや否や、まるでそれを妨害するかのように大きな音が響き渡った。
私と霖――私の妹だと主張する少女型ロボット――は今、一軒家の前庭にいる。
なぜか地面から直接咲き乱れる満開の桜の中、シルクのような敷物を広げてピクニックをしている最中だったらしい。
私の横には光速充電式の弁当箱も置かれている。
だが、音の発生源はその穏やかなピクニックの現場ではなく、家の中からだった。
自然と音のした方へ視線を向けると、何かが姿を現した。それはどこにでもありそうな、しかし相当に年季の入った家庭用ヒューマノイド・ロボットだった。
私や霖のように人間と見分けがつかない最新型ではない。
かつて「ロボット」といえば誰もが思い浮かべたであろう、武骨な外見の機体だ。
ある、と私は思う。
何があるかといえば、既視感だ。
あれは、どこかで見たことがあるロボットだった。名前は確か……。
「アンモナイト!」
私がその名を口にする〇・〇〇〇〇〇〇〇〇〇〇〇〇〇〇〇〇〇〇〇〇〇〇〇〇一秒前に、霖が先にそのロボットへ向かって声のシャボン玉を飛ばした。
「また零したの?もう、いつになったらちゃんと家事が出来るようになるのよ。家事用ヒューマノイドのくせに」
見れば、アンモナイトは湯気の立つマグカップを二つ載せたトレイを両手で持ったまま、開け放たれた掃き出し窓から出ようとしていたところだった。
どうやらほどけて垂れ下がったエプロンの紐を、バナナの皮でも踏んだかのようなベタなスラップスティック動作で踏んづけ、派手に転倒した直後のようだった。
当然、飲み物は派手にぶちまけられ、転倒したアンモナイトの全身へと降り注いだ。
マグカップの中身は、鮮血だった。
立ち昇る湯気からして、おそらく搾り取ったばかりの、生々しい血液だ。
その赤が、アンモナイトのエプロンを――屠殺場の職人が身につけるような、既に古い血の染みがこびりついたそのエプロンを、さらに鮮烈な赤で上書きしていく。
だが、灼熱の金星の大気に晒された瞬間、その血液は酸化したように変質し、まるで布地に直接彫り込まれた刺青のような赤黒い紋様へと変わっていった。
「申し訳、ありません……」
アンモナイトが謝罪する。
その口調はあくまで機械的で平坦だったが、合成音声の震えには、恐怖という情動が確かに混入していた。
しかし、霖の表情は強張ったままだった。
彼女は敷物から立ち上がると、不満げに呟く。
「せっかく私の心血を注いで作ったブラッド・ジュースを台無しにするなんて。許せない」
彼女はまるで友達と喧嘩して少し拗ねただけのような、年相応の軽い足取りでアンモナイトへ歩み寄った。倒れたままの旧型ロボットの前にしゃがみ込み、その腕の一本を掴む。
ボイルしたロブスターの巨大な爪をもぐ時のような手つきだった。
躊躇いもなく、アンモナイトの腕を引き千切る。
ブツンッ。
異様な破断音と共に、アンモナイトのスピーカーから悲鳴が迸った。
それは生き物の叫びというより、電波の悪い場所で無理やりチューニングを合わせたラジオのような、グリッチとノイズに塗れた苦痛の周波数だった。
霖は、千切れた腕の断面に唇を寄せた。
そこからは濃い茶色の液体――高粘度の潤滑油が、まるで煮詰まりすぎた茶のようにとろりと溢れ出していた。
彼女はそれをストローでジュースを飲むように啜り始めた。
こってりとした液体は霖の小さな口には収まりきらず、唇の端から溢れ、顎を伝って地面へと滴り落ちる。
ポタリ、ポタリ。
地面に咲き誇る桜の花弁の上に、油が落ちる。
すると、美しい薄紅色の花弁は触れた瞬間に黒く染まり、硬質化し、黒光りするコガネムシのような虫へと変貌した。
花から生まれた蟲たちは、カサカサと不快な音を立てて蠢き始める。
霖は裸足のまま、それらを踏み殺し始めた。
それはマナーの悪い大人が、まだ火のついた煙草の吸殻を道端で踏み消すような動作であり、同時にその吸殻を捨てた者への苛立ちを叩きつけるような仕草でもあった。
彼女の踵に蹂躙された黒いコガネムシ――かつて桜だったもの――は、体内で圧縮された茶色の体液を撒き散らしながら圧死していく。その瞬間、パチパチと激しい火花が散った。
アーク溶接の閃光のような、目に焼きつく人工的な白色光を放ち、それらは生まれた直後に絶命した。
アンモナイトの片腕を一気に飲み干した霖は、空になった腕を無造作に投げ捨てた。スナック菓子のおまけのカードだけ抜き取り、肝心の中身には興味を示さずゴミ箱へ放り込む子供のように。
彼女はまだ藻掻いているアンモナイトの方へ、再びしゃがみ込む。
「……か、勘弁してください、霖様」
古代のモデル特有の、感情の抜け落ちた事務的なトーンで、アンモナイトは命乞いをした。
だが、霖の聴覚センサーはその声を遮断しているようだった。
彼女は残されたもう一本の腕を掴むと、先ほどと同じように、いや、今度はさらに快楽的な手つきで、根元から引き千切った。
断末魔が再び響く。
私は直感した。
アンモナイトは死んだのだ。
そして彼の機能停止と共に、唐突に私のメモリバンクから一つの記憶が蘇った。
彼は、歴史的に極めて重要な人類の遺産だったのだ、という事実が。
恐怖よりも、無念さのような感情が勝る。
歴史的遺産の破壊をひどく惜しんでいると、霖がこちらへ近づいてきた。
彼女の手には、まるで真っ二つにされた蛇の尾のように痙攣を続けるアンモナイトの腕が握られている。
逃げるべきか一瞬迷ったが、この常軌を逸した妹から逃げ切れるはずがないと直感が告げていた。
私は従順に、彼女の接近を待つことにする。
霖が歩を進めるたび、アンモナイトの腕から茶色くとろついた潤滑油の雫がポツリ、ポツリと滴り落ちる。その雫が芝生代わりの桜に触れると、花々は黒色のコガネムシへと変貌していく。それらは逃げ出すこともなく、なぜか私の方へと這い寄ってくる。
虫が苦手な私は思わず後ずさりそうになったが、霖が既に間近まで迫っていたため、逃げ場を失って座り尽くした。
私は眼前の少女を、静かに見上げるしかなかった。
霖は私を見下ろしながら、もぎ取ったばかりのアンモナイトの腕を差し出した。
「飲んでみて」
彼女は勧める。
「ブラッド・ジュースの代わりに、アンモナイト・アーム・ジュース」
私はそれを凝視する。
腕はまだ、ピクピクと動いていた。
手を取れずにいると、少し冷たさを帯びた霖の声のシャボン玉が飛んできた。
「早く」
私は促されるまま、アンモナイトの腕を受け取った。
その瞬間、猛烈な飢餓感が襲ってきた。
エネルギー残量を確認すると、なんと〇・〇〇〇〇〇三六二%を示している。
即座に補給しなければ強制シャットダウンは免れない危険水域だ。
もはや躊躇している場合ではない。
私はアンモナイトの腕の断面に口をつけ、一気にごくごくと飲み干した。
変な味がした。
決しておいしくはない。
不味い。
今すぐ吐き出してしまいたいほどに不味かった。
だが、飲むのをやめるわけにはいかない。
第一にエネルギー補給が必要だし、第二に、目の前の霖が凄まじい形相で見下ろしているからだ。
彼女は泣いているようでもあり、笑っているようでもあった。おそらくその優れたGPUで両方の感情を並列処理し、完璧に混合させた二重の表情を作り出しているのだろう。
その射抜くような視線の前で、一滴残らず飲み干す以外の選択肢など残されていなかった。
全てを胃袋へ流し込むと、充電率は九九%まで回復した。
残り一%が満たされないのは、潔癖症的な不満か、あるいはほんの少しの物足りなさか。ここまで来たら一〇〇%にしてしまいたいところだが、贅沢は言えない。
私は、薬を飲み干した子供が褒められたがるように、ぎこちない笑みを作って霖を見上げた。
霖は三秒もの長い間、私を睨むように沈黙を貫いた。そして、丁寧に捏ね上げられた団子のような、真ん丸な沈黙のシャボン玉を私に向かって飛ばしてきた。
それが私の鼻先で弾け、メッセージが受信される。
「もう元気になったみたいだね。じゃ、川へ遊びに行こう!」