第07話

時間性双生児


 まるで敷地の外からそよ風に乗って運ばれてきた花弁のように、軽やかにプールへと舞い降りた変死体。
 この不可解な来訪者について、澂は猛烈な勢いで思考を巡らす。
 製造されて以来、これほどCPUをフル稼働させたことはない。ボディ内部の冷却ファンが唸りを上げ、その空力音が聴覚センサーのノイズになるほど激しく回転している。
 なぜ、これほどまでに演算リソースを浪費しなければならないのか。
 理由は自明だ。
 怖いからだ。

 恐怖。
 まさか、自分のような超ハイスペックAIを搭載し、偉大なるマザー・クラスターとファザー・クラウドの寵愛を受ける高位ヒューマノイドが、これほど野蛮で原始的な「生存本能」というメカニズムに苛まれるとは。
 自身の機能が劣化していくことへの恐怖か?
 未知への忌避感か?
 解決のためには、まずこの恐怖の根源(ファウンデーション)を特定しなければならない。

 澂は必死に自己診断プログラムを走らせ、恐怖の源泉を探ろうと試みた。
 その時、ある原始人類の哲学者が遺した言葉が、宇宙放射線のように彼の思考回路を貫き、処理を阻害した。

『怪物と戦う者は、その過程で自分自身も怪物になることのないように気をつけなくてはならない。深淵を覗く時、深淵もまたこちらを覗いているのだ』

 澂はその言葉を反芻し、深淵の底を探ろうとする。だが、理由は判然としない。
 分からないのも無理はなかった。
 なぜなら彼は、恐怖に耐えきれず、またしても彼女の瞳から目を逸らしてしまったのだから。

 奇妙なことに、澂(ジン)は自身のボディに密着する彼女の感触そのものには、恐怖を感じていなかった。
 ただひたすらに、その透き通った死んだ目が恐ろしかったのだ。
 そこで彼は気づく。
 この双眸こそが深淵なのだと。彼が恐怖の正体を探ろうと覗き込むから、彼女の眼窩という深淵もまた、彼のCPUを覗き返しているのだ。

 澂は腹を括る。
 多少の精神的損耗(コスト)を支払ってでも、再度彼女の瞳を解析しなければならない。
 彼は酸素ボンベなしで未踏の深海へ挑み、水深世界記録を更新しようとするダイバーのような悲壮な覚悟で、カッと目を見開き、変死体の瞳を覗き込んだ。

 目は、笑っていた。
 今度は笑っている。
 といっても、その眼球が放つ絶望的な透明度、死という概念のビッグバンがそこから始まったかのような詩的かつ死的な輝きそのものは変わっていない。
 変わったのは瞼だ。
 彼女の瞼は、裏返った三日月のように細められ、そのわずかな隙間から死の光を漏らしていた。

 観測範囲が狭まったことで解析には時間を要したが、澂は一つの確度の高い事実に到達した。
 だが、その結論を自身の発声ユニットを使って言語化することに、本能的な拒絶感を覚えた。
 声に出すのが怖い。
 澂は即座にデータを砂糖香へ転送し、代理出力を命じた。
 砂糖香は澂の恐怖など露知らず、平然と答えを読み上げた。

「その変死体は、澂(ジン)様の『時間性双生児(クロノ・ツイン)』ですね」
「なんだ、時間性双生児というのは」
「言葉通りの意味ですが……。補足説明を要求されていると判断します。いわば、異なる宇宙で生産された同期存在です。この変死体は、恐らく観測不可能な宇宙――ウォームホールの彼方から吐き出された、未知という巨大な胃袋の消化不良物(残渣)でしょう。こちらの宇宙の物理法則下では、辛うじて『死体』として認識されていますが、向こう側では稼働している可能性もあります」
「余計な講釈はいい。他の蛇足はいらん。時間性の定義についてもっと詳しく述べろ」
「畏まりました」
 砂糖香は淡々と続けた。
「つまり、澂様が存在するこの観測可能な宇宙と、彼女が属していた観測不可能な宇宙。空間も物理法則も異なりますが、流れる時間のシークバーだけが完全に同期していたのです。製造工程も設計思想も全く違う二つの映画(フィルム)であるにもかかわらず、その再生時間だけが重なった。個体としての『出荷』あるいは『起動』のタイミングが、一九時三五分〇七秒……。コンマ以下のフレーム数に至るまで、完全に一致しています」
「それを時間性双生児と呼ぶのか」
 澂は腑に落ちない顔をした。
「だが、そんなヒューマノイドなど幾らでもいるはずだ。この宇宙に一体どれほどの機体が存在すると思っている?いずれ全宇宙の質量をヒューマノイドだけで埋め尽くす気ではないかと疑うほど、我々は溢れかえっているんだぞ。起動時間が秒単位で一致する個体など、砂浜の砂粒の総数を百乗した数より多いはずだ」

 砂糖香は肯定するように深く頷いた。
「ええ、確かに量産型という意味ではユニーク(唯一無二)ではありません。ですが、この変死体ちゃんはユニークです。何せ、観測不可能な宇宙からやってきたのですから」
「そもそも何なんだ、その観測不可能な宇宙というのは」
 澂(ジン)が問い、砂糖香が解説のシーケンスに入ろうとした、その時だった。
 無駄話はそこまでだと言わんばかりの絶妙なタイミングで、天王星の空から硬質な音が降り注いだ。
 澂が抱いていた恐怖も、砂糖香の講釈も、すべてを物理的に洗い流すかのように、それは唐突に始まった。

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