第01章児童公園
肌を焼くような、酷暑の夏の気配の中で僕は目を覚ました。
視界は完全な闇に閉ざされていた。
理由など考えるまでもない。
ただ単に、深い夜の底だったからだ。
無意識に手首へと視線を落とし、時間を確かめようとしたが、そこにあるはずの腕時計はなかった。
それでも、なぜか確信めいたものが胸の奥に宿っていた。
深夜零時、ちょうど。
その奇妙な数字だけが、確かな事実として頭に刻まれている。しかし、それ以外の記憶や情報は一切抜け落ちていた。
なぜ自分は見知らぬ暗闇の中に取り残されているのか、何一つ理解できない。
開いたままの瞼の奥で、瞳が徐々に闇へと順応していくのを待った。
何も見えないことへの底知れない恐怖と、何かが姿を現すのではないかという微かな高揚感が、胸の中でせめぎ合っている。
やがて、輪郭を失っていた世界がゆっくりと像を結び始めた。
覚悟を決めて顔を上げ、周囲を見渡す。
そこは、人気のない児童公園だった。
錆びついた遊具が、夜の帳の中にぽつりぽつりと浮かび上がっている。
違和感を覚え、おそるおそる両手を目の前にかざしてみた。
微光に照らされた自分の手は、驚くほど小さい。
指先も、手のひらも、まるで幼い子どものそれだった。
僕は子どもだったのか。そんな自明なことすら、今この手を見るまで知らなかった。
完全にあらゆる記憶を喪失していることに気づき、慌てて意識の奥底へと手を伸ばす。
しかし、どれほど必死に記憶の糸を手繰り寄せようとしても、頭の芯には虚無が広がるばかりで、触れられる確かなものは何一つ残されていなかった。
乳飲み子が母を求めて泣くように、僕は思わず声を零していた。
「記憶……僕の、記憶……」
呪文のようにその言葉を繰り返せば、失われた過去がふっと手元に戻ってくるのではないか。
そんな淡い期待に縋りたかったのだ。しかし、頭の奥に広がる虚無はびくともしない。僕はあっさりと足掻くのをやめた。
手放した瞬間、不思議な安らぎが胸を満たし、全身から余計な強張りが抜けていく。
恐怖が退いたことで、夜の輪郭はさらに鮮明になった。
見上げた夜空には、狂い咲いたような満天の星が広がっている。
周囲を取り囲むビル群は廃墟のように静まり返り、街灯の光すら絶えていたが、暴力的なまでに降り注ぐ星明かりが公園を白々と照らし出していた。
視線を巡らせると、公園の片隅——ブランコに腰掛けている人影が目に留まった。
その人物は、何かにすがりつくように両手で両脇の鎖を固く握りしめている。僕は瞳を凝らし、カメラのレンズが焦点を絞るかのように、その輪郭をじっと見つめた。
座っていたのは、一人の老婆だった。
深く刻まれた皺の奥にある瞳が、まっすぐに僕を捉えている。
「……怖い」
ぽつりと、自分の口から言葉が零れ落ちた。
しかし、その声は機械のように平坦で、何の抑揚も宿っていない。
言葉の内容とは裏腹に、氷のように無機質な自分の発声に、僕は老婆以上の底知れなさを覚えた。
それでも、冷え切った身体の奥で、心が確かに恐怖という感覚を捉えていることだけが唯一の救いだった。
老婆は呼び止めるでもなく、ただ哀切に満ちた眼差しで僕を見つめ続けている。
その姿はどこまでも寂しげで、立ち去ることなど許されないような強い胸騒ぎを覚えた。
僕は歩き出した。
身体に痛みはなく、小さな足は思いのほか軽快に夜の砂利を踏みしめる。
怪我や異変を案じていた不安を置き去りにするようにして、僕は十秒と経たぬうちに、ブランコを揺らさずじっと座る老婆の目の前へと辿り着いていた。
僕は思わず固唾を呑み、老婆の顔を真正面から見つめ返した。彼女はずっと僕を捉えていたから、二人の視線は静かに交錯した。
至近距離で見るその顔には、無数の深い皺が刻まれていた。
長年、重力と風霜に耐え続けてきた皮膚は、水分を完全に失い、幾重にも折りたたまれた古紙のようだ。
今にも細かな砂となって零れ落ち、夜風のひと吹きで虚空へと吹き飛ばされてしまいそうなほど脆く、儚い。
枯れ果てた肉体から、生命の最後の火が静かに立ち消えようとしている。
胸が締めつけられるというよりは、心の芯を冷たい指先でそっと撫でられるような、奇妙な静寂が僕の内側を支配していく。
だが——だからこそ、彼女の瞳は異様なまでの存在感を放っていた。
それは息を呑むほどに透き通った、深い青だった。まるで、百年間ゴミ捨て場に打ち捨てられて色あせた古人形に、つい先ほど新品のガラス玉を嵌め込んだかのような、生々しいまでの輝き。
しかし、年老いた重い瞼がその瞳の八割を覆い隠し、青い光は細い三日月のようにかすかに覗くばかりだった。
そして今、その三日月すらも完全に闇の奥へと沈み、彼女は世界を閉ざそうとしている。
僕を見ることすら、諦めてしまうかのように。
消えゆく光を前にして、僕は思わず声を張り上げていた。
「——僕を、知っているの?」
僕の問いかけに引かれるように、閉じかけていた老婆の重いまぶたが、再びゆっくりと持ち上がった。
半分ほど開かれたその瞳が、まっすぐに僕を射抜く。
「もちろん、知っているよ」
掠れた声が夜の空気を震わせた。知られているという安堵が胸をかすめたのも束の間、すぐに冷たい恐怖がぶり返す。記憶を完全に失っている僕を、なぜこの見知らぬ老婆は知っているのだろうか。
嘘を吐かれている可能性も頭をよぎりながら、僕は矢継ぎ早に問いを重ねた。
「どうして知っているの?僕は誰なの?」
問いかけを受けた瞬間、老婆の青い瞳に微かな変化が走った。
まるで新品のビー玉のようなガラス質の眼球が、じわりと湿気を帯びて潤んでいく。しかし、涙の滴となって頬を伝い落ちることはなく、表面張力ギリギリのところで留まっていた。充血一つせず、湿り気を帯びたままでも、その目は不気味なほどの透明感を保ち続けている。
その底知れぬ美しさに呑まれそうになった刹那、彼女はぽつりと告げた。
「……遊ぼう」
口を開いて放たれたのは、その一言だけだった。
僕の問いの何一つとして答えになっていない。
それなのに、その言葉には逆らうことのできない奇妙な強制力が宿っていた。
解決されない無数の疑問も、胸のざわめきも、すべてがその言葉の重みに押し流され、頭の中の雑念が綺麗に拭い去られていく。
僕は引き込まれるように、自然と言葉を返していた。
「……何をして遊ぶの?」
老婆は難解な書物を読み解くかのように、僕の顔をじっと見つめ続けた。今にも吹き消されそうな細い生命力の中で、頭を限界まで回転させているようなその真剣さに、僕は気圧されながらも、微かな心地よい恐怖を味わっていた。
やがて、老婆は静かに口を開いた。
「まずは、私の背中を押しておくれ」
第02章ブランコ
視線を落とすと、二本の太い鉄柱に吊るされた古びたブランコが、星明かりの下で静かに佇んでいた。
赤錆が浮いた鎖と、風雨に晒されて木肌の剥げた一枚の座板。そこに腰掛ける老婆の輪郭だけが、世界から切り離されたように静止している。
僕はこくりと頷き、彼女の背後に回るため足を一歩踏み出した。
ブランコが設置された砂場に足を踏み入れた瞬間、ざらりとした冷たい感触が皮膚を直接撫でた。今になって触覚が戻ってきたのだろうか。驚いて足元を見下ろすと、僕は靴も履かず、裸足のままだった。
僕のことを知っているというなら、尋ねても不自然ではないはずだ。
「……僕の靴はどこ?」
僕の問いに、老婆は口元を歪め、気味の悪い笑みを浮かべた。
「私が食べちゃったよ」
突拍子もない返答に、思わず口元から力のない笑いが漏れた。
けれど、笑った自分の顔が引きつり、酷く強張っているのが手にとるようにわかる。
「僕の靴下も?」
重ねて尋ねると、老婆の声からふっと温度が消え、冷ややかな調子へと変わった。
「靴下なんて、最初から履いていなかったよ。お前さんは」
背筋に冷たい刃を当てられたような悪寒が走った。反論の言葉は見つからず、僕は冷えた足先で砂を踏みしめながら、黙って老婆の背後へと回り込んだ。
深い沈黙が二人の間に落ちる。
老婆は僕を振り返ろうともせず、声をかけることもない。ただ太古の昔からそこに座り続けていたかのように、じっと動かなかった。だが僕には、彼女が全身で僕の手を待ち望んでいることがはっきりと感じ取れた。もし僕が今ここで逃げ出し、二度と戻らなかったとしても、彼女は背中を押されるその瞬間を永遠に待ち続けるだろう。押されない限り、これ以上老いることも、死ぬことすら許されないかのように——丸まった哀切な背中から、途方もない執念が立ち上っていた。
僕は息を呑み、小さく頼りない両手をゆっくりと持ち上げた。
老婆の背中に向けて構え、静けさを破るように声をかける。
「それじゃあ……押すね」
その言葉を受けると、老婆は巨大な質量を持つ天体がゆっくりと軌道を変えるかのように、重々しい緩慢さで深く頷いた。そして、泣き出しそうな掠れ声がぽつりと零れ落ちた。
「うん……お願いします」
僕は老婆の背中に小さな両手をあてがい、力を込めて押し出した。
頼りない子どもの力だったが、軋んだ音を立ててブランコは前へと進み、老婆の身体を乗せて夜の闇へと滑り出していった。
ゆっくりと弧を描き、やがて反動をつけて僕の元へと戻ってくる。僕は再びその背中に掌を当て、さっきよりも少しだけ強く突き出した。
揺れは次第に大きくなり、戻ってくる距離も速度も増していく。僕は位置を合わせるように砂を踏んで後ずさりし、近づいてきた背中をさらに強く押し返した。
次第に、胸の奥で得体の知れない衝動が火を噴いた。
彼女をこのブランコごと、公園の外へ吹き飛ばしてしまいたいような衝動。僕は両腕にありったけの力を込め、殴りつけるように、投げ飛ばすようにしてその背中を突いた。
しかし、子どもの腕力などたかが知れている。
ブランコは少しだけ爽快そうに高く跳ね上がっただけで、何食わぬ顔で僕の頭上から戻ってきた。
後ずさりするのが急に億劫になり、僕は足を止めたまま立ち尽くした。
当然の結果として、戻ってきた老婆の背中が僕の上半身を真正面から捉える。
いくら枯れ果てた老婆とはいえ、幼い僕よりもずっと重い。
衝撃をまともに喰らい、僕は後ろへ吹き飛ばされて、湿り気を帯びた砂場の上へと派手に尻もちをついた。
宙を揺れ続けるブランコの上から、くぐもった笑い声が聞こえてきた。
老婆が、楽しげにゲラゲラと笑っている。
その声を聞いた刹那、わずか零点一秒ほどの間、生まれて初めて味わうような凄まじい激痛めいた怒りが胸を焼いた。だが、その怒りは一瞬で霧散し、空白となった心へ代わりに猛烈な可笑しさが込み上げてくる。
僕もまた、彼女の笑い声に呼応するようにして声を上げて笑い返していた。
ぶつかった痛みなど最初からなかったかのように消え去っていた。
僕は砂まみれの尻を叩いて立ち上がり、二度、三度と揺れて勢いを失いかけていたブランコの背中へ、再び力いっぱいの両手を伸ばした。
背中を押し続けながら、僕はじっくりと思考を巡らせる。
どうすれば、この小さな体で、自分より遥かに重いはずの老婆をもっと高く、もっと遠くへ飛ばせるだろうか。
なぜ彼女を遠くへ追いやろうとしているのか、離れたいからなのか、それともブランコという遊具の固定観念に衝動を突き動かされているだけなのかはわからない。けれど、記憶を失った少年として目覚めた僕にとって、これは初めて湧き上がった強烈な目的意識だった。
拳ほどしかない未成熟な脳をフル回転させる。大人びた常識に染まっていない子どもの脳だからこそ、型破りな発想ができるはずだ。
力任せに押したところで、あの不気味な笑い声を増幅させるだけに終わる。
ならば、頭を使うしかない。
——文字通り、頭蓋骨を。
脳を働かせたつもりが、辿り着いたのは一ミリも知性を感じさせない短絡的な結論だった。
振り子のようにこちらへ突進してくる老婆の背中。曲がりくねった脊椎の真ん中を狙い、僕は額を突き出して頭突きを喰らわせた。
鈍い衝撃とともに顔面が背中に激突し、僕は再び派手に吹き飛んだ。
まともに鼻を強打したせいで、生温かい鉄の匂いが鼻孔を満たしていく。
「……っつ、痛ぇ……!」
頭を使った結果がこれだったが、効果は劇的だった。
老婆の笑い声がピタッと止まったのだ。
「坊や、大丈夫かい……!?」
揺れる座板の上で、老婆は身を危険に晒しながら必死に首をひねり、僕を振り返った。枯れ木のような顔は激しい狼狽と心配に染まっている。しかし、慣性のついたブランコは急には止まらない。僕の上を掠めるように行き来するたび、制御できない自らの無力さを悔いるように、老婆の声は涙混じりの悲鳴へと変わっていった。
「止めて、早くこのブランコを止めておくれ……!坊や、大丈夫かい、怪我はないかい……!」
僕は痛みを堪えて跳ね起きた。効いている。
永遠に続きそうだった不気味なブランコ遊びの円環を、自らの血を流すことで断ち切る兆しが見えたのだ。
この変化を逃すわけにはいかない。
僕は再び顔面を突き出し、戻り来る背中へと突っ込んだ。
狙いがわずかに逸れ、今度は唇の端が老婆の尖った背骨にまともに激突する。
肉が裂け、鼻血に混じって新たな鮮血が口の中に広がった。
「痛い……っ、うわぁぁん!」
二度目の激突で砂場に転がった僕は、あまりの激痛と溢れ出る血の生々しさに耐えきれず、子どもの本能のままに大声を上げて泣きじゃくっていた。
僕の泣き声を聞いた老婆は、さらに切迫した、絶望的な悲鳴をあげた。
しかし、どれほど取り乱そうとも、彼女がブランコから降りる気配は一切なかった。必死に座板から抜け出そうと身悶えしているように見えながら、その両手とお尻は、まるで強力な接着剤か強烈な磁石で吸い付いているかのように、鉄の鎖と座板に固着している。見えない戒めに縛り付けられた囚人のように藻掻くその姿を見て、僕は奇妙な安堵を覚えていた。
立ち上がり、三度目の頭突きを喰らわせようと足を固めかける。
だが、あまりの激痛に身体が強張って動かなかった。固定観念を打破しようとした代償は大きく、僕の小さな身体はすでに限界を超えていた。
このやり方はもう通用しない——そう悟った瞬間、老婆の様子が一変した。
彼女はブランコから逃れようとするのを諦め、両脇に垂れる二匹の鉄の蛇のような鎖を、骨張った指でぎりぎりと握り直した。
「ン……グッ……!」
重い苦痛を押し殺すような呻き声を絞り出しながら、彼女は自らの身体を前後に揺すぶり始めた。
僕の手を借りず、一人でブランコを漕ぎ始めたのだ。
振り子の軌道を描き、老婆の乗る座板は徐々に高度を上げていく。僕が最も破壊したかった「ただ普通にブランコに乗る」という、陳腐で退屈な光景への回帰。そのあまりにありふれた光景は、僕の心を酷く苛んだ。
鼻や唇から滴る生温かい血の激痛すら、この耐え難い光景を見せつけられる苦痛に比べれば、ただのくすぐったい刺激に思えるほどだった。
「やめて……!」
僕は叫んでいた。
「お願いだから、ばあさん、やめてくれ!」
しかし、僕が叫べば叫ぶほど、老婆の枯れた顔には再びあの歪な笑顔が戻っていった。
一人でブランコを漕ぐ行為に愉悦を覚えているかのように、あの不気味な笑い声を漏らし始める。
「やめろ!やめてくれぇ!」
砂場に倒れ伏したまま、僕は悲鳴を上げ続けた。だが、ただの音の波が、猛烈な運動エネルギーを帯びた彼女を止められるはずもない。
ブランコの振幅は際限なく跳ね上がり、垂直だった鎖の角度はついに九十度——地面と平行になるほどの危険な領域に達していた。
——ブォンッ、ゴォンッ。
巨大な風力発電のブレードが重々しく夜気を切り裂くような、禍々しい風切り音が耳元を打つ。頂点から急降下するたび、彼女の身体が巻き起こす冷たい突風が、砂まみれの僕の顔面へ容赦なく叩きつけられた。
その風は、老婆の背骨にぶつかった瞬間よりも遥かに痛烈で、まるで無数の見えない刃となって僕の皮膚を切り裂いていくようだった。
僕は尻餅をついたまま、必死に後ずさりして逃げようとした。
しかし、掻いた砂が蟻地獄のように僕の体を足元から引き戻し、暴走するブランコのスイングの直下へと滑り込ませていく。
ブランコの振幅はついに限界を超えていた。
地面と平行の九十度をあっさりと突破し、百二十度、百五十度と高度を上げていく。そして頂点である百八十度——支柱の真上、夜空の天頂へと達した瞬間、振り子は逆方向へ戻るのをやめた。
重力をあざ笑うかのように、慣性のまま一回転したのだ。
鉄の鎖が上部の支柱に巻き付き、旋回半径を縮めながら、彼女は正面から僕めがけて急降下してきた。
今度は背中ではない。
老婆の正面が、猛烈な勢いで僕の頭上へ迫る。
立ち上がりかけた僕は、ボクサーがガードを固めるようにとっさに両腕を顔の前に掲げた。
——ドォンッ!
正面衝突の衝撃で、僕は前方へと無様に弾き飛ばされた。
激突を経てもなお、ブランコは物理法則を完全に無視して回転速度を加速させていった。くるり、くるりと、モーターのように支柱の周りを連続で旋回する。一周するごとに鎖は支柱へきつく巻き取られ、振り子の長さは急速に短くなっていった。
限界まで巻き取られた瞬間、回転運動は唐突に終わりを告げた。
鎖に幾重にも縛り上げられた座板と老婆は、支柱の横棒と完全に一体化し、空中でぴたりと静止した。
僕はズキズキと痛む両腕を抱え、十秒以上その場から動けずにいた。一切の動きが止まったのを見届けてから、慎重に砂場から体を起こし、頭上を見上げる。
そこにぶら下がっていたのは、異様な肉の塊だった。
蜘蛛の巣に絡め取られて暴れ尽くした虫のように、手足は不自然な角度に折り曲げられ、鉄の鎖に無残に締め上げられている。指一本動かないその姿は、まるで壊れて廃棄された等身大の人形のようだった。
「死んだの……?ばあさん、死んだの?」
震える声を絞り出したが、返答はない。恐る恐る真下へ歩み寄り、至近距離からその顔を覗き込んだ。
僕は思わず息を呑んだ。
老婆は苦悶ではなく、甘美な恍惚に身を委ねるような表情を浮かべ、虚空を見つめていたのだ。
しかし、僕が「ばあさん」と再び呟いた瞬間、焦点の定まらなかった青い瞳にすっと正気が戻った。新品のガラス玉のような双眸が、ぐるりと回転して僕の顔を真正面から射抜く。
「……当ててごらん」
そう言わんばかりの、挑発的で悪戯っぽい眼差し。
僕は息を詰めてその顔を凝視した。
何かが決定的に変わっている。
違和感の正体を探るべく、小さな脳を必死に働かせた。
そして、僕は気づいた。
「ばあさん……じゃ、ない……?」
言葉が零れ落ちる。彼女は確かに同じ人物だったが、先ほどまでの「今にも砂となって崩れ落ちそうな極限の老婆」ではなかった。
深い皺は目に見えて浅くなり、皮膚には瑞々しい張りが戻っている。
そこにいたのは、死の淵を漂う百歳の老女ではなく、まだ足腰の確かな、どこにでもいる初老の女性だった。
初老の女は、僕をじっと見つめたまま、ぽつりと零した。
「ああ、楽しかった」
僕がどんな顔をしていたかは、容易に想像がついた。
婆さんはすぐに、からかうような調子で言葉を継ぐ。
「何をそんなにビビっているんだい?」
鏡を見ずとも、自分の顔面が恐怖で引きつっているのが分かった。
つい先刻までは、心で感じた感情を表情や声として肉体で表現できないことに強いもどかしさを覚えていた。
だが今、この強張った表情筋を自覚したことで、僕は奇妙な安堵を覚えていた。
ようやく自分の身体が、心と正しく連動し始めている。
「何を怯える必要があるんだい。私はこんなにも嬉しいのに、こんなにも楽しいのに」
心底愉快そうに告げる彼女に対し、僕は不服そうに声を荒らげた。
「僕はちっとも楽しくない!早くここから抜け出したいんだ。あんたからも、全部からも!」
言い捨てるなり、僕はきびすを返した。
砂を踏みしめ、この不気味な場所から一刻も早く離れようと足を速める。
だが、背後からねっとりとした声が追いかけてきた。
「こんな可哀想に、鉄の鎖でがんじがらめになっている年寄りを放り出して行くのかい?」
「……」
足がぴたりと止まった。
同情心を煽るそのわざとらしい響きに、奇妙な引力で誘惑されているかのような感覚に囚われる。理性では無視しろと命じているのに、脊髄から湧き上がる抗えない原始的な衝動が、勝手に僕の足を縫い止めてしまったのだ。
「助けておくれ。これを解いてくれないかい?」
声が再び脳髄へと流れ込んでくる。
そう懇願する割に、婆さんの顔には苦痛の色など微塵もなく、むしろこの拘束に身を委ねていたいかのような恍惚が張り付いていた。
心にもない、ただの記号としての台詞だ。
この状況における「定番の台詞」を口にして、僕の良心を揺さぶろうとしているに過ぎない。
「嫌だ!」
僕は叫び、平手打ちを食らわせるかのようにその拒絶を投げつけて、再び歩き出した。
だが、ほんの数歩も進まぬうちに足元が崩れ、僕の身体は前方のめりに傾いた。
「わっ……!」
顔を庇いながら、僕は再び砂場の上へと派手に転倒した。
「くそっ……」
悪態をつきながら起き上がろうとしたが、なぜかうまく身体を支えられない。
「……何これ?」
砂の様子が異常だった。
触れた感触自体は、確かにきめの細かい砂粒のはずだった。しかし、掌で一握りすくい上げ、指の力を緩めてみても、指の間からサラサラと零れ落ちていかない。
砂はまるで粘度のある液体のようだった。
表面張力で皮膚にまとわりつき、粘液か唾液のように糸を引いて、指先からとろりと垂れ下がっている。
「なんなの、これ……」
震える声で呟く。恐怖が色濃くにじんだ僕の反応を耳にして、快感を覚えたのだろう。
頭上から、先ほどよりも一層湿り気を帯びた不気味な笑い声が降ってきた。
「次は、お砂遊びをしましょうか」
支柱に絡め取られたまま、婆さんが楽しげに囁く。
「お砂遊びは、好きかい?」
第03章砂遊び
「……」
僕は沈黙したまま、指先にまとわりつく不可思議な砂を見つめ続けた。
見たこともない、あり得ない挙動を見せる砂。恐怖の奥底で、ふと唐突な衝動が頭をもたげた。——この異様な砂で遊んだら、一体どんなものが作れるのだろうか。
湧き上がった即興の遊び心が、婆さんの甘い誘い声と重なり、夜の底へと静かに溶け込んでいった。
とりあえず、僕はまだ支柱の上にぶら下がったままのばあさんを下ろしてやることにした。いや、もしかしたらすでに一度下ろしたことがあったのかもしれない。そんな記憶はとっくに曖昧になっていたし、そもそも最初から存在しなかった可能性の方がずっと高い。
どうやってあの塊を下ろすべきか、小さな頭を沸騰させながら知恵を絞ってみたものの、気の利いた名案など浮かぶはずもなかった。結局、一番泥臭く原始的な手段を選ぶしかない。
ブランコを支える鉄骨の支柱を、猿のようによじ登るのだ。
支柱は細長い二等辺三角形の形状をしており、地面から斜めに伸びる二本の鉄パイプが頂点で合流して一本の横梁を支えていた。
垂直に切り立つ一本棒を登るなら特殊部隊並みの強靭な肉体が必要だろうが、この緩やかな傾斜を描く三角フレームなら話は別だ。子どもの小さな手足でも両側のパイプを同時に挟み込みやすく、体重を預けながら一段ずつ這い上がるのはそれほど難しくなかった。
そうして僕は、ばあさんが固定されている最上部の高さまであっさりと登り詰めた。
問題はそこからだった。
彼女はまるで洒落たカフェで優雅にブラックコーヒーでも味わっているかのように、のんきな余裕を漂わせながら僕を見上げていた。
僕は少年の短い腕を精一杯に伸ばしたが、複雑に絡み合った鎖の塊まではあと少しのところで指先が届かない。
必死に身を乗り出す僕の姿を眺めながら、ばあさんは薄ら笑いを浮かべて声をかけてきた。
「どうしたんだい?私のところまで手が届かないのかい?」
「……っ、ぼーっと見てないで、ばあさんも手を伸ばしてよ!僕の手を取ってくれれば届くんだから!」
苛立ちを隠さずに怒鳴り返すと、彼女はまるで他人事のような涼しい顔で返してきた。
「そう言われてもねぇ。腕ごと鎖に巻き込まれていて、指一本曲げることすらままならないんだよ。こんな不自由な身体の年寄りに、手を伸ばせなんて無茶を言うもんじゃないよ」
「命令してるわけじゃないだろ!助けようとしてるんだから、助けられる側としても少しは協力してくれないと困るよ!」
文句を叩きつけても、彼女の平然とした表情は崩れなかった。
どうやら一切の協力を期待することはできないらしい。
一人でやり遂げるしかないのだ。
覚悟を決めた僕は、支柱の頂点——ブランコ全体を支える一本の細い横梁の上に、直立することを試みることにした。
鉄パイプの継ぎ目に足をかけ、慎重に体重を移動させながら、おそるおそる上体を起こしていく。
冷たい夜風が吹き抜ける中、僕はブランコの最上部、丸みを帯びた一本の鉄パイプの上に両足で立ち上がった。
足裏に触れる硬質な鉄の感触。
少しでもバランスを崩せば真っ逆さまに砂場へ叩きつけられる。本能的に両腕を左右へまっすぐ広げ、綱渡りのような「T字」のポーズをとって必死に身体の傾きを微調整した。
ぐらりと揺れる視界に適応し、なんとか重心を保つ。
命綱のない極限の状況に、心臓が警鐘を鳴らすように激しく打ち鳴らされる。その恐怖と裏腹に、胸の奥底では不謹慎な昂ぶりが火花を散らしていた。
僕は細い鉄骨を靴底ならぬ裸足で捉え、一歩、また一歩とばあさんの真上へ向けてすり足で進んでいった。
「絶対に落ちる……これ、絶対に落ちるよ……!」
口から弱音が零れ落ちる。距離を半分ほど縮めたところで、僕は耐えきれずに問いかけた。
「ねえ、もし僕が落ちたらどうするの?ばあさん、ちゃんと責任取ってくれるの!?」
すると、彼女は淀みなく答えた。
「もちろん、責任は取りますとも。たとえあなたが死んでしまっても、私は忘却の川の彼方まで追いついて、必ず責任を果たします」
その声は、先刻までの掠れた老人のものとは思えないほど澄み渡っていた。まるで若く凛とした少女のようで、アナウンサーのように滑らかで端正な響きを帯びていた。
その奇妙な声音の力強さに、僕は得体の知れない安心感と確信を抱いてしまった。その一言が目に見えない安全ネットとなって僕を包み込み、転落死への恐怖を、まるで肌にできた些細なニキビを気にする程度のものへと矮小化させていく。
僕はついに、彼女の真上へと辿り着いた。
足元を見下ろすと、そこには無数の鉄の鎖にがんじがらめに縛られ、歪な塊のようになって横梁にぶら下がる彼女の姿があった。まるで毛糸玉に閉じ込められた奇妙な生き物を見下ろすように、僕は冷ややかな視線を投げかける。
無理な体勢で首をぐにゃりと曲げ、僕の瞳を見つめ返してくる青い光。
僕はすべてを悟りきったような、酷く落ち着いた声で告げた。
「——今、解いてあげるからね」
彼女を縛りつける拘束を解く作業は、拍子抜けするほどあっさりと終わった。
まるでタンパク質が固有の立体構造へと一瞬で組み上がる「自己組織化」の現象のようだった。
一見すると複雑怪奇に絡み合っていた鉄の鎖だが、一番大きく突き出していた結び目を軽い気持ちで一箇所だけ引っ張ってみた途端、信じられない連鎖が起きたのだ。
動画サイトで何百万回も再生される「幾何学的に整列したドミノが一斉に倒れる映像」や「ぎっちり詰まった氷がワンタッチで一気に崩壊する映像」のように、異常なまでの心地よさを伴って、すべての鎖が瞬時に、完全にほどけ落ちた。
自由になったばあさんの身体は、ニュートンの目の前で枝を離れたリンゴのように、垂直に地面へと自由落下した。何の受け身も取らず、無造作に、あっけなく。
頭から砂場へと墜落し、鈍い衝撃音とともに骨の軋む嫌な音が夜気に響いた。
「ばあさん、大丈夫!?」
慌てて上から叫んだ僕に対し、彼女は相変わらず余裕を滲ませた微かな笑い声を返してきた。
「大丈夫だよ……」
僕を宥めるようなその優しい声にひとまず胸を撫で下ろす。砂場へハードランディングした彼女の身体は、糸の切れた操り人形のように手足があちこちへ投げ出されていた。ほどけた鎖とブランコの座板は、金属の荒々しい擦過音を立てながら、彼女の頭上をしばらく不規則に跳ね回った後、ようやく静止した。
僕は垂れ下がった鎖をロープ代わりに滑り降り、足元へ駆け寄った。
間近で見たばあさんの首は、あり得ない角度——真横に九十度折れ曲がっていた。
僕は眉間に深い皺を寄せ、見てはならない怪異から思わず視線を逸らそうとした。
その切な、首を曲げたままのばあさんから声が飛ぶ。
「私の首を、元に戻しておくれ」
「元に戻すって……どうやって?」
「簡単だよ。頭を両手で掴んで、元の角度へぐいっと捻ればいいのさ」
「そんなの無理だよ!」僕は首を激しく横に振った。「僕はお医者さんじゃないんだ。下手に触って、もっとこじれたらどうするのさ!」
「もっとこじれたら、もっと良くなるよ」
「……どうして悪化することが良くなることに繋がるのさ!?」
僕が問い詰めた瞬間、ばあさんの表情が一変した。
「四の五の言わずに、早く私の首を直せぇぇぇッ!!!」
深夜の児童公園を劈くような怒声だった。
落ちた雷に直接撃たれたかのような衝撃に、僕は全身を硬直させ、三秒ほど完全に思考を停止させた。
横に振り続けていた首をピタリと止め、今度は恐れ慄いて縦に激しく頷くと、彼女の前に膝をついた。
恐る恐る伸ばした両手で、彼女のこめかみを左右から挟み込む。
固唾を呑み、ありったけの力を込めて頭部を正面の角度へと捻り戻した。
——ポキッ。
長くて硬いスナック菓子を真っ二つにへし折ったような、乾いた音が鳴り響く。
手応えはあっけなく、一秒も経たずに首は元の位置へと収まった。
すると、雷のように激昂していたばあさんの強面は瞬時に霧散し、まるで隣の家に住む人の良さそうな小太りの老婦人のような、慈愛に満ちた柔和な笑顔へと早変わりした。
「ほら、やればできるじゃないか。医者じゃなくたって、これくらい誰でもできる時代になったんだよ」
褒め言葉を投げかけられ、僕は引きつった笑みを浮かべたまま「うん……」とぎこちなく頷いた。あまりに激しく首を縦に振りすぎたせいで、今度は自分の首が折れるのではないかと怯えたが、ばあさんがすっと上半身を起こしたため、僕の首振りも自然と止まった。
首を直された彼女の顔立ちは、鎖に縛られていた時よりもさらに数歳ほど若返り、初老の落ち着きを帯びた女性のそれに近づいたように見えた。だが、今の僕にとってそんな変化はどうでもよかった。
起き上がった彼女は、いよいよ本題だとばかりに、僕へ向けて晴れやかに宣言した。
「さあ、お砂遊びをしましょう」
こうして、僕とばあさんの奇妙な砂遊びが始まった。
記憶を失っている僕には、過去に砂遊びをした経験があるのかすら定かではなかった。
けれど、母親と砂山を作ったような温かい記憶だけは、頭のどこを探しても見当たらない。
雑念に囚われかけた僕の顔面へ、ばあさんが容赦なく砂を一握り投げつけてきた。
「……っ!」
いきなりの先制攻撃に苛立ちが跳ね上がる。やり返さなければ気が済まない。
僕も両手いっぱいに砂をすくい、ばあさんめがけて思い切り投げ返した。彼女は楽しげに身をかわし、さらに砂を浴びせてくる。
水鉄砲で掛け合うような無邪気な応酬だったが、相手は水ではなく砂だ。
まともに浴びれば皮膚は擦れて痛み、目や鼻に入れば堪らない。
さらに、致命的な問題があった。少年の小さな掌では、一度に握れる砂の量が圧倒的に足りないのだ。時間が経つにつれ、体格で勝るばあさんの猛攻にじわじわと押し込まれ、完全な劣勢へと追い詰められていった。
その時、僕の指先が砂場の底に埋もれていた異物に触れた。
掘り出してみると、それは未開封の水中メガネだった。
僕の窮地を見計らったかのように、わざとらしくパッケージに包まれたままの新品だ。
容赦なく飛来する砂の弾幕を顔面で受け止めながら、僕は必死でビニールを引きちぎった。
現れた真新しいゴーグルを、ばあさんに背を向けた一瞬の隙に装着する。
「これで防いで——」
勝ち誇って振り返り、口を開いた瞬間だった。
放り投げられた乾いた砂の塊が、僕の無防備な口腔内へ吸い込まれるように直撃した。
「ゴホッ、ゲホッ……ケホッ!」
喉の奥まで砂が詰まり、激しい咳き込みとともに吐き出すことしかできなくなる。
「あはは!いくら水中メガネをつけたって、口までは防げないじゃないか!」
ばあさんは天真爛漫な子どものように甲高い笑い声を上げ、僕をあざ笑った。
悔しさに震えながら、僕は口内のざらつきを吐き捨て、再び砂場を漁った。強く願えば、宇宙の法則が働いて次はマスクでも落ちてくるのではないか——そんな淡い期待を抱いたが、奇跡は二度も起きなかった。
それなら、潜るしかない。
僕は物理法則をねじ伏せるように、砂場の表面を「水面」だと強く思い込んだ。
そして、迷うことなく砂中へと頭からダイブした。
突飛な思い込みはあっさりと現実になった。身体は砂の抵抗を受け流し、まるで冷たいプールに飛び込んだかのように、僕は砂の深層へと沈み込んでいった。
水中メガネのおかげで視界の砂は防げたものの、周囲は完全な暗黒だった。
鼻孔と口からは容赦なく砂が流れ込み、肺腑も胃袋も瞬く間に砂粒で満たされていく。
本来なら即座に窒息死する状況だ。
しかし、苦しさは一切なかった。
この砂粒の表面は、ナノスケールの多孔質シリカ構造で覆われており、粒子間の隙間に高濃度の酸素分子を吸着・保持する特殊な界面活性作用を持っていたのだ。肺を満たした砂は気道に張り付きながらも、毛細血管へ直接酸素を融通する人工液体肺のような役割を果たし、僕の血中酸素濃度を完璧に維持し続けていた。
呼吸が確保できると分かれば、やるべきことは一つだ。
僕が砂中に潜ったのは、ばあさんの猛攻から逃れるため。そしてその目的はすでに達成された。
向こうからは僕の姿は見えない。
暗闇と圧倒的な閉塞感に包まれながら、僕は砂の中で静かに身体を反転させた。
防戦の時間は終わった。次は、僕が攻撃を仕掛ける番だった。
僕が立てた作戦は、単に砂を投げ返すことではなかった。
ばあさんの足元にある砂を根こそぎ奪い去り、彼女自身をこの蟻地獄の底へと引きずり込んで沈没させることだ。
満杯になった胃と肺を意識し、僕は即座に砂の循環呼吸を体得した。体内に取り込んだ砂を鼻腔と口腔から勢いよく排出し、常に一定量を体内へ通し続ける。僕の小さな身体そのものを巨大なバキューム掃除機のフィルターに見立て、砂場の砂を片っ端から吸引し始めた。
口腔を通過する砂は、豊かで無機質な味覚の濁流となって舌を刺激した。
ナトリウムの尖った塩辛さ、カリウムの微かな苦味、カルシウムの石灰を思わせる乾いた渋み、そして酸化鉄の生々しい錆びた血の匂い。花崗岩や石英、長石の微小な破片が複雑にブレンドされ、舌の上でざらざらと硬質な砂利のスープのように軋む。
それらが怒涛の勢いで気管と食道を駆け下りていく。
本来、肺には痛覚神経が存在しないはずだった。だが、数千億粒もの研磨剤が気管支樹を猛スピードで通り抜けるたび、胸郭全体を押し広げる異常な内圧が周辺の肋間筋や横隔膜を容赦なく軋ませ、肋骨の内側を直接ヤスリで削られるような鈍く重い圧迫痛が全身を苛んだ。胃壁は異物の激流に痙攣し、内臓の輪郭そのものが悲鳴を上げている。
血の味はしなかった。
耐え難い苦痛の中、僕は吸引を止めなかった。
一般的な児童公園の砂場に敷き詰められた砂の総量は、およそ十億から数十億粒に達する。僕は体内の全細胞を一つずつ確かめるような精緻な感覚で、その無数の粒をひとつ、またひとつと数え上げながら己の肉体というフィルターに通し続けた。
やがて、舌先に新しい鉱物の味が届かなくなった。
砂場のすべての粒が、僕の身体を通過し終えたのだ。
「降参!降参だよ!もうやめておくれぇ!」
砂のカーテンが晴れると、そこには激しく白旗を振り回すばあさんの姿があった。
傷だらけになった水中メガネを外し、呆然と周囲を見渡す。目の前に広がっていたのは、砂が一粒も残っていない巨大な窪地だった。
かつて砂場だった場所は、無機質で冷たいコンクリートの基礎が剥き出しになっている。
「ばあさん……僕が吸い込んだ砂は、全部どこへ消えたの?」
僕は平坦な自分の腹部を掌で叩いてみせた。
「僕の身体の中には残っていないよ。もしあの砂が全部入っていたら、僕の身体は破裂して原型を保てないはずだ。どうして僕は少年の姿のままで、砂は全部消えちゃったのさ?」
白旗を振るのを諦め、それを放り捨てたばあさんは、何も言わずにただゆっくりと頭上を見上げた。
その仕草に引かれるように、僕もまた夜空へと視線を持ち上げる。
深夜の天頂に広がっていたのは、いつもの星空ではなかった。
無数の砂粒が、漆黒の宇宙を白金色に染め上げながら、壮大に渦を巻いていた。
僕の体内を通過し、夜空へと解き放たれた数十億の砂の粒子が、星々の光を反射して輝く——息を呑むほどに美しく、暴力的なまでに巨大な、砂の銀河が頭上を覆い尽くしていた。
第04章かくれんぼ
息を呑むほどに美しいその光景を見上げながら、僕は立ち尽くしていた。あれが僕の腹から吐き出されたものだなどと信じられるはずもなく、ただただ白金色の渦に視線を奪われ続けていた。
いつの間にか、両目からぽろぽろと雫が零れ落ちていた。
頬を伝うその雫は、自らの体温から生じたものとは思えないほど異常に冷たく、まるで氷水を垂らされたかのようだった。
驚いて指先で拭おうとした瞬間、僕は別の異変に息を呑んだ。
頬に触れた指先の感触が、決定的に違っていた。
不審に思い、涙を拭うのも忘れて両手を目の前にかざす。
「……なんだ、これ」
僕の手は、ただ膨張したのではなく、明確に成長していた。
先刻までの幼く頼りない子どもの手ではない。骨組みは太く角ばり、節くれ立ち、確かな筋肉の筋が浮き出ている。少なくとも思春期を通り過ぎ、青年期へと足を踏み入れた大人の手だった。
握りしめると、かつてない強固な力が掌に宿る。
だが、記憶は依然として虚無のままだった。肉体だけが突如として歳月を飛び越えてしまった恐怖に耐えかね、僕はその事実から逃げるように、再び夜空の砂の銀河へと視界を投げ出した。
ふと視線を落とすと、周囲を取り囲む無機質な高層マンションの窓々に、無数の人影が蠢いていた。何千人もの住人が窓から身を乗り出し、花火を見物するかのように、僕の腹から解き放たれた光景を見上げている。
己の最も恥ずかしい内臓の奥底を白日の下に晒されたような、耐え難い羞恥が込み上げた。
顔が一気にカッと熱くなり、頬を伝っていた氷の涙が、ようやく人並みの温度を取り戻して肌を濡らしていく。
「大丈夫?気分でも悪いの?」
不意に、背後から落ち着いた声が届いた。
老婆の掠れ声ではない。
完全に別人の声音だったため、僕は思わず声とは違う方角へ首を捻った。誰もいない。
慌てて周囲をぐるりと見渡しても、そこには静まり返ったコンクリートの広場があるだけだった。
「どうしたの?どこか痛むのかい?」
再び響いたその声は、冷徹な静けさの底に確かな温もりを湛えていた。
老婆の面影は完全に消え去り、かつて僕が幼かった頃に母であってもおかしくないような、四十代前後の成熟した女性の声。
「……一体、どこにいるの?」
虚空へ向けて問いかけると、彼女は悪戯っぽく微笑むように言葉を返してきた。
「探してみて」
その響きに込められた意図を僕が察した瞬間、夜の闇を裂くように、軽やかな声が続いた。
「——かくれんぼを、しましょう」
高層ビルの窓々から、千五百人もの住人たちがこの異様な光景を見物していた。砂の銀河の下で突如始まったかくれんぼ。僕はたまらず、窓の向こうの人影に向かって大声で叫んだ。
「ねえ、あの女がどこにいるか知らないか!?」
すると、ビルの一室から渋い大人の声が飛んできた。
「自分で探しなさい。人から教わったら、かくれんぼにならないだろう」
ごもっともだった。
野次馬の力を借りてしまうのなら、この不気味な遊戯の意味などなくなってしまう。
僕は納得して口を噤み、誰もいない静まり返った児童公園の中を改めて見回した。
どこにも人影はない。
ただ、夜気のどこかからクスクスと楽しげな笑い声だけが耳を掠める。
すぐ近くで響いているように感じるのに、姿は見えない。
まるで透明人間でも相手にしているかのようだった。
ふと、僕は自分の足元に目をやった。
正面から街灯の光を受けているはずなのに、足元に影はなく、背後へ伸びる影は異様なまでに長かった。しかも、光の源泉とは全く異なる方向へ、まるで時計の針のように不自然な角度でねじ曲がっている。
物理法則を完全に無視したその軌道を見て、僕はハッと息を呑んだ。
——これは影じゃない。矢印だ。
その仮説を信じることにした。自分の足の動きに合わせて角度を変えるその黒い影の導きに従い、僕は歩き出した。
街灯の光など意に介さないかのように方向を変え続ける矢印は、先ほどまで私たちが遊んでいたブランコの横をかすめ、公園の一角にある水道の蛇口へと僕を案内した。
暗がりの中、水飲み場のコンクリートの縁にその影はピタリと停止する。
「……ここにいるのかよ?」
返事はない。周囲を探してみても、やはり誰もいなかった。いら立ちと不安が胸をもたげる。
「いないじゃないか!一体どこにいるんだよ……まさか、幽霊にでもなったつもりか?」
吐き捨てるように呟いた瞬間、脳裏に稲妻が走った。
そうか、これは——。
僕は今、猛烈に喉が渇いていたのだ。
当然だった。数十億粒もの砂を肺と胃袋で吸い込み、あの頭上の砂銀河へとすべて解き放ったのだから。
体内の水分は極限まで奪い尽くされ、致死レベルの超脱水状態に陥っていた。千五百人もの視線による恥ずかしさで麻痺していた感覚が、目の前の水飲み場を認識した瞬間、一気に決壊した。
喉が、内臓が、皮膚のすべてが水を求めて悲鳴を上げている。
僕は理性をかなぐり捨て、飢えた野獣のように水飲み場へと飛びついた。小動物の首をへし折るかのような苛烈な手つきで、蛇口のハンドルを限界までひねり込む。
——ドバァッ!
動脈を切断したかのような狂暴な水圧で、冷水が夜空へ向けて爆噴した。
水流は周囲の高層マンションの百階にすら届くほどの勢いで立ち昇り、もはや水鉄砲というよりは鋼鉄をも穿つウォータージェットカッターの凶器と化している。
顔を近づければ頭蓋ごと穴が開いてドーナツになりかねない威力だった。
しかし、蛇口を緩めるという発想すら湧かない。
水への渇望に脳を焼き切られた僕は、吹き荒れる水柱の中へそのまま口腔を突っ込んだ。
激痛が走る。だが、僕の肉体は思いのほか頑強で、吹き飛ばされることも貫かれることもなかった。
その代わり、並んだ歯が激しい水圧の連打をまともに受けた。
一本一本の歯がピアノの白鍵と黒鍵のようにリズミカルに押し込まれ、弾き戻される。水流が僕の歯列を鍵盤代わりにかき鳴らすたび、声帯が共鳴し、喉の奥から強制的に旋律が響き出した。
奏でられたのは、ベートーヴェンの『月光ソナタ』だった。
第一楽章の重苦しくも流麗な三連音符が、咽び泣くような僕の声となって夜気へ放たれる。激流を飲み込みながら、僕の身体は一台の生体ピアノとなって暗闇に響き続けた。
全身の細胞が水を吸い上げ、渇きが癒えていくまでの永遠のような時間、第三楽章の怒涛のアルペジオに至るまで演奏は止まらなかった。
最後の和音が喉の奥で鳴り響き、曲が結びを迎える。
体内の水分が完全に満たされた合図を受け取り、僕は力任せに蛇口を締め切った。
水流が途絶え、歯の打鍵も止まり、児童公園へ唐突な静寂が戻る。
演奏を終えたピアニストのように、前かがみだった腰をゆっくりと伸ばして直立した瞬間——。
高層マンションの窓々から、演奏を見届けていた千五百人もの住人たちによる、割れんばかりの拍手喝采が一斉に夜空へと降り注いだ。
夜空に広がる砂の銀河を巨大な五線譜に見立て、歯列という鍵盤に高圧の水流を叩きつける——水を飲むというただの生命維持活動を極上の演奏へと昇華させた僕は、まるで神童と呼ばれた若きマエストロそのものだった。
観客席と化した千五百の窓から降り注ぐ拍手を受け止めながら、僕は新たな種類の羞恥に頬を染めていた。腰を深く折り、窓の向こうの住人一人ひとりと律儀に視線を交わしながら、千五百回もの一礼を捧げる。
その間、耳を劈く喝采が途切れることはなかった。
すべての礼を終えて振り返ったとき、僕はついに探していた相手の姿を捉えた。
十数歩ほど離れた闇の中に、彼女は立っていた。
溢れ出る涙で頬を濡らしながら、満面の笑みで僕へ拍手を送っている。
「素晴らしい演奏だったわ……本当に見事だった」
その言葉を聞いた瞬間、僕は悟った。隠れた相手を探すには、闇雲に歩き回るのではなく、相手が自ら姿を現さざるを得ない状況を作り出すこと——すなわち、音楽による圧倒的な感動で誘い出すことこそが、このかくれんぼの正攻法だったのだ。
「ベートーヴェンのおかげだよ」
僕が告げると、彼女は少しはにかみながら首を傾げた。
「ベートーヴェンのおかげ?」
「そうさ。彼の音楽が、僕たちを巡り合わせてくれたんだ」
彼女は小さく頷いた。その姿はもはや老婆でも初老の女でもなく、二十代から三十代の輝くような若さを湛えた一人の美しい女性へと変貌していた。
ふと違和感を覚える。
いつの間にか、彼女を見下ろす位置に自分の視線があった。彼女が縮んだのではない。
僕自身の背が伸びていたのだ。
「今の僕の姿……どう見える?」
「昔のまんまに見えるわよ」
「昔のまんま?小さな男の子に見えるってこと?」
「そうよ。身体が少し大きくなっただけで、あなたは今でもあの頃の少年のまま」彼女は優しく微笑んだ。「私も同じ。姿形が変わっても、心はあの頃のまま決して変わらないの」
そのあまりにも陳腐で使い古された決まり文句を聞いた瞬間、胸の奥からどす黒い倦怠感が湧き上がった。吐き気を催すほどのクリシェ。
彼女が一歩こちらへ歩み寄ってきた途端、僕の内なる防衛プログラムが作動したかのように、全身の毛穴が警戒の警報を鳴らした。僕は本能的にきびすを返し、脱兎のごとく夜の闇へ駆け出した。
振り返ると、彼女は追ってきていたが、大人の脚力を持つ僕との距離はみるみるうちに広がっていく。
完全に姿をくらませられる距離まで逃げ切ったところで、僕は大声を張り上げた。
「次は僕が隠れる番だ!僕を探してみてよ!」
「ええ、わかったわ!絶対に探し出してみせるから!」
快活な返信が夜気に溶けていく。
九龍城砦のように過密な高層マンション群に千五百人もの視線が潜むこの空間で、どこに身を隠すべきか。
ビルの内部へ逃げ込むのは反則だ。かといって、公園内のジャングルジムやシーソーには、青年の体を覆い隠せるほどの死角はない。
視線を彷徨わせていると、児童公園の片隅、草むらの奥に一台の黒い影が沈んでいた。
近づいてみると、それは百年前のクラシックなキャデラックだった。
重厚な流線型のボディは黒漆喰のようにくすんで錆びつき、巨大なディーゼルエンジンはとうの昔に沈黙して、タイヤは完全に土へと還りかけている。
時間の墓標のように佇むそのレトロな廃車を見つめ、僕は低く呟いた。
「——隠れる場所、見つけた」
廃車を見つけた僕は、なぜか乗り込む前にこの車を完全に整備しなければならないという奇妙な強迫観念に囚われていた。
整備に必要な工具を探すため、僕は再びあの砂場へと向かった。児童公園の砂場といえば、通常は子どもの膝下にも満たない浅い底を持つものだが、この場所は文字通りあらゆる事象を内包する「サンドボックス」だった。水中メガネが現れたのだから、工具の一つや二つが埋まっていても何ら不思議ではない。
僕は粘度を増したスライム状の砂の中へ、両腕を勢いよく突き入れた。
手首、肘、そして肩までがあっさりと沈んでいく。
砂場全体をミルクに浸したオートミールのようにかき混ぜ、底知れぬ深淵を探り回ると、やがて指先に冷たく硬質な手応えが触れた。
引き抜いた右手に握られていたのは、重厚な鍛造スチール製のモンキーレンチだった。
僕はその工具を手にキャデラックへと戻り、入念な点検を始めた。かつて一時代を風靡したであろう威厳あるクラシックカーに対し、整備もせず無作法に乗り込んで隠れることへの罪悪感が、僕を突き動かしていた。
車体の下へ潜り込み、緩んでいたホイールナットやサスペンションのボルトを一本ずつ締め直していく。素人の僕にとって本来なら不可能な作業だったが、高層マンションの窓から見守る千五百人の観客の中には熟練のメカニックが混ざっていたらしい。彼らの叫ぶ指示や助言が僕の頭脳へリアルタイムに流れ込み、迷いのない手際でオーバーホールを進めることができた。
しかし、夜の公園に響き渡るカンカン、コンコンという金属の打撃音は、かくれんぼにおいて致命的だった。
最後のボルトを締め終え、車内へ滑り込もうと身を起こした瞬間、すでに僕の居場所は完全に割れていた。
彼女が、すぐそこまで歩み寄ってきていた。
その姿を目にした刹那、僕の口から呆然とした声が漏れた。
「……綺麗だ」
そこにいたのは、二十代前半の息を呑むような美女だった。
彼女は千五百人もの熱狂的な視線をスポットライトのように一身に浴び、児童公園の暗がりを華やかなランウェイへと変貌させながら、優雅なキャットウォークで僕の元へとまっすぐに迫っていた。
ランウェイを歩くようにして、彼女は僕の目の前までやってきた。
あまりの美しさに目を奪われながらも、僕はふと我に返り、間抜けな声で尋ねた。
「……かくれんぼ、もう始まってるの?」
「そうよ、とっくに始まってるわ。隠れる時間はたっぷりあったはずなのに」
「でも、どうしてもこの車の整備をしたかったんだよ」
言い訳がましくこぼす僕に、彼女は冷ややかに告げた。
「気持ちはわかるわ。これほど立派なクラシックカーだもの、隠れる前に手を入れたくなる衝動はね。でも……その衝動を抑えきれなかった、君が悪い」
直後、彼女の顔が急激に歪んだ。息を呑むほどの美貌が、一瞬にして凄惨で凶悪な形相へと変貌する。
美しさと恐怖が同居するその異様な表情に、僕は背筋に氷をねじ込まれたようにぞっとし、完全に金縛りに遭ってしまった。
僕が麻痺して一歩も動けないまま見守る中、彼女はキャデラックの助手席側へ回り込み、ドアを開けて悠然と乗り込んだ。
バタン、とドアが閉まる。
窓ガラスはとうに割れ落ち、真夏の夜のまとわりつくような熱気が吹き込んでいるはずの車内。
それなのに、彼女が座った途端、空間の温度が急激に下がり始めた。
強力なクーラーなどという生易しいものではない。まるで液体窒素でも流し込まれたかのような急速冷凍。
秒速で絶対零度へと向かっていく異常な冷気が、僕の皮膚を刺す。
「さむっ……寒い、寒いっ!!」
このままここにいたら凍死する。直感した僕は、凍りつき始めたドアを必死で蹴り開け、外へと転がり出た。
後ろを振り向く余裕なんてなかった。ただひたすらに、キャデラックの反対側へと僕は駆け出した。
「逃げないと……逃げないと……っ!」
第05章鬼ごっこ
こうして、かくれんぼは唐突に鬼ごっこへと姿を変えた。
走り出したものの、最初はそれほど必死になる必要はなかった。
背後を振り返ると、彼女は走ってすらいなかったからだ。鬼ごっこではなく「モデルごっこ」でもしているかのように、彼女は依然としてランウェイを歩くような優雅なキャットウォークで僕を追跡していた。
僕と同じくらいの年代の美しい女性に追われているだけ。
その状況に、恐怖心は少しずつ薄れていった。
しかし、彼女の歩き方は次第に本物の猫——あるいは獲物を狙う肉食獣のように、滑らかで妖艶なものへと変わっていった。歩幅はそのままに、ぬるりとした異常なスピードで距離を詰めてくる。
「そろそろ、本気で走らないと追いつかれる……!」
僕は速度を上げようと、足にぐっと力を込めた。
——その瞬間、膝がガクガクと情けなく震えた。
自分の足ではないような、酷く重く鈍い感覚。
「何これ……体が、どうなってるんだ?」
走りながら自分の両手を見下ろし、僕は息を呑んだ。
つい先ほどまであった青年の瑞々しさが、完全に消え失せている。
肌は弾力を失ってカサカサに乾き、節くれ立ち、深い皺と染みが浮き出ている。
「まさか僕……年を取ったのか?」
鏡を見ずとも、自分の肉体が「青年」から一気に「初老の男」へと老け込んでいるのが理解できた。
だから、体のあちこちが悲鳴を上げ、言うことを聞かなくなっているのだ。
背後から、「大丈夫?」と声が飛んできた。
振り返ると、彼女は僕の異変に気づき、わざとらしくスピードを緩めてくれていた。
しかも、追う側であるはずの彼女の顔には、なぜか怯えの色が浮かんでいる。
そして、彼女の姿は先ほどの二十代の美女から、女子高生くらいにまで一気に若返っていた。
彼女の若さが、僕の老いを残酷なまでに映し出す鏡になっている。
「今の僕……どう見える?」
足を止めずに尋ねる。ここで捕まれば取り返しのつかないことになるという漠然とした恐怖が、まだ胸の奥底で警鐘を鳴らしていたからだ。その恐怖心を一種の命綱にし、奇妙な安心感と共に健康ドリンクでも煽るように飲み下しながら、僕は答えを待った。
「……普通のおじさんのように、見えるよ」
気まずそうに答える彼女の声に、僕は「うん、そうだよね」と分かりきっていた事実を反芻した。
僕は無理をしてでも足を速めた。
この「鬼ごっこ」という遊戯の形を、なんとしても成立させなければならない気がしたのだ。
ふと見上げると、高層マンションの窓際に鈴なりになった千五百人の観客たちが、僕たちのこのスリルの欠片もない、地味で生ぬるいチェイスに対して不満を爆発させていた。
「真面目にやれ!」
「つまんねえぞ!」
空から激しい野次とブーイングの嵐が降り注ぐ。観客の中には、飲んでいたカップやポップコーンを投げ下ろしてくる者までいた。
もちろん距離が遠すぎて児童公園までは届かず、途中の空中で虚しく散っていくのだが。
老いて捻くれた精神が肉体に引っ張られたのか、僕は彼らを見上げ、走りながら両手の中指を高く突き立てた。
「クソくらえっ!!」
まるで口汚く悪態をつく老人のように叫び散らしながら、僕は老体を鞭打って走り続けた。
膝を動かすたびに、枯れ木がへし折れるような、あるいは錆びた歯車が直接削れ合うような、ガクン、ゴリッという不気味な音が鳴る。関節に走る強烈な激痛。
しかし僕は、その痛みをむしろ楽しむかのように嗤いながら疾走し続けた。
背後から彼女が何かを叫んでいる。
立ち止まって、彼女の言葉に耳を傾けたい衝動に駆られる。
しかし、降り注ぐ千五百人のブーイングが大きすぎて、声はまったく聞き取れなかった。
「絶対に、止まっちゃ駄目だ……」
もしここで追うのをやめさせたり、捕まったりしてゲームを台無しにすれば、観客たちのあの怒号は、ただの「音波という物理現象」を超え、真の物理的・致命的な攻撃となって僕を殺しに来るかもしれない。
生存本能が告げるその危機感に急き立てられ、僕は軋む足を引きずりながら、ただひたすらに夜の公園を逃げ回り続けた。
軋む足を引きずりながら、僕は逃げ続けた。
生存本能が僕を急き立てる。全身から発せられる絶望的な苦痛を、無理やりに「逃げ切るための燃料」へと変換し、すり減った老体を強制駆動させる。もはや僕の膝からは、骨と骨が擦れる音ではなく、赤錆びた鉄同士が直接削れ合うような「ギィィィッ、ガァァァッ」という恐ろしい金属音が鳴り始めていた。
その不快な音が千五百人の観客の不評を買うのを恐れ、僕はあえて声を張り上げ、悲鳴を上げることでその異音をかき消そうとした。
「あぁぁぁッ!痛ぇっ、くそっ、痛ぇよぉぉぉッ!!」
自分の身体の奥底へ苦痛を押し込めるようにして、哀れな喘ぎ声と悲鳴を夜気へばら撒きながら走る。
しかし、どこまで走ろうと、この児童公園から逃げ出すことは決して許されなかった。
——ガンッ!!
!
公園と「外の世界」を隔てる境界線。
そこにあるはずのない、透明で強固な不可視の壁に、僕は額を思い切り激突させた。
あまりの衝撃に、頭蓋骨が砕け散る幻覚を見た。
割れた骨の隙間から、老いた肉体の中で唯一「少年」のまま保たれていた小さな脳髄が、まるで生卵の黄身のようにぬるりと滑り落ちていく。もろい黄身の膜が、砕けた頭蓋骨の鋭利な破片に引っかかって弾け飛び、脳の栄養分——すなわち僕の「記憶」が、ドクドクと、ビチャビチャと、滝のように脳内へ溢れ出した。
記憶の奔流が全身を駆け巡り、逆説的に、僕はすべてを取り戻した。
「——思い、出した」
僕は立ち上がり、枯れ果てた声で叫んだ。
「思い出した!!僕、思い出したよ!!」
振り向くと、そこには誰もいなかった。鬼ごっこのルールに従えば、すぐ背後まで僕を追ってきているはずの女子高生の姿が、どこにも見当たらない。
僕は狂ったように目を血走らせ、周囲を見渡した。彼女に伝えなければならない。
「思い出した」のだと。
しかし、記憶を取り戻したというのに、僕の姿は徘徊する重度の認知症患者のように異様で、狂気を孕んでいた。
血走った目で公園中を探索すると、滑り台の後ろの暗がりに、小さくうずくまる影を見つけた。
それは彼女だった。いや、もはや女子高生ですらない。彼女は、ほんの小さな少女へと若返り、そこに隠れていたのだ。
その姿を見た瞬間、僕の中でくすぶっていたすべての事象の辻褄が合い、抑えきれない怒りが火山のように噴出した。
「——貴様だったのか……!!」
夜空を震わせるほどの怒号を放ち、僕は滑り台へと突進した。
「お前だったのか!!僕の時間を奪ったのは、お前だったのか!!!!!」
老朽化した膝からは、ディーゼルエンジンのポンコツ機械が無理やり稼働しているような、暴力的でけたたましい軋轢音が鳴り響いていた。全身の細胞が老化による激痛を訴えていたが、もはやそんなものは気にも留めなかった。
苦痛と怒りが臨界点を突破した瞬間、それは奇妙なことに「快楽」へと反転した。
僕は怒り狂いながらも、その未知の快感に酔いしれ、うずくまる少女のそばへと静かに歩み寄った。そして、先ほどの狂乱が嘘のように、別人のような落ち着き払った態度で、底知れぬ感謝を口にした。
「……ありがとう」
滑り台の影で怯える小さな少女を見下ろし、僕はうっとりと囁く。
「君のおかげで、『苦痛と怒りを混ぜ合わせると快楽になる』っていう素晴らしい公式を見つけることができたよ。その公式を理解して、自分の身体にハックできたんだ。本当にありがとう」
少女は僕の存在そのものに恐怖し、顔を上げたままガタガタと激しく震えていた。雨に打たれた子犬のように、あるいは絶対的な捕食者を前にした獲物のように、見る者の心を締め付けるほど哀れに震えている。
その姿を見て僕の心も微かに痛んだが、その「良心の痛み」すらも怒りと混ざり合い、極上のスパイスとなって僕の快楽を増幅させた。
僕は歓喜に打ち震えながら、再び怒りを爆発させ、哀れな少女へ向けて怒鳴りつけた。
「この泥棒猫め!!僕の時間を盗んだ泥棒猫野郎が!!!」
僕の凄まじい剣幕に耐えきれず、少女はついに両膝の間に顔を埋め、声高に泣き叫び始めた。
わあわあとうずくまって泣く少女を見下ろしながら、僕の心境は凪のように静まり返り、完全な平穏と静寂に包まれていた。
ああ、これが「当たり前」の光景なのだ。
僕はようやく、この不条理な空間におけるひとつの巨大な真実を悟った。
僕は顔を上げ、千五百人の住人たちが見下ろす高層マンション——九龍城砦のような巨大な観客席へ向けて、ゆっくりと口を開いた。
怒鳴るでもなく、叫ぶでもなく。ただ、確かな声量だけを伴った、極めて静かなアナウンス。
「——鬼は、僕でした」