蒸し暑さが果てしなく続く金星に、私、 黽(かい)。 引っ越してきた。 私はごく平凡なヒューマノイドロボットとして製造されたモデルで、日本の高校生男子を思わせる、平均的でバランスの取れた仕様——すべてのパラメータが完璧に近い平均値に調整された、まさに「標準」の化身。 火星から貨物船——いや、クジラのような巨大な輸送船に乗って金星に降り立ち、入国手続きを済ませたばかりで、惑星の中でもかなり田舎の町へと足を踏み入れた。 「暑い……」 思わず声が漏れる。すぐに続けて、 「厚い……」 金星は灼熱の気温だけでなく、すさまじい圧力もまとった過酷な環境である。 火星とは比べものにならない。 あまりの暑さと圧迫感に、「厚い」という言葉が自然と口をついて出るほどだった。 私は最新鋭のモデルである。 火星でヒューマノイドロボットを専門に手がける一流企業が、最先端の技術を注ぎ込んで製造した存在である。火星以外の惑星でも問題なく活動できるように設計されているとはいえ、金星の厳しい物理環境にはさすがに堪えた。 「噂通りだな……」 重い足取りで町の入り口へと近づいていく。 周囲の風景は、金星とは思えないほど人間好みに調整されていた。 テラフォーミングともバイオフォーミングとも異なる、まるで舞台装置のような景色だ。 この過酷な環境では、たんぱく質でできた人間の身体では生き延びられない。だからこそ、ヒューマノイドロボット専用の「日本の田舎町」を模したセットが広がっている。 あたりを見回す。 夏の田舎道らしい、舗装が粗雑でところどころ砂利が顔を出す道。 両脇には手入れの行き届いていない木々が鬱蒼と茂り、セミの鳴き声がけたたましく響く。 いや、鳴き声というより絶叫だ。 聴覚センサーだけでなく、他の波長まで刺激するような、耳をつんざくほどの騒音。 町の入り口に足を踏み入れたばかりだというのに、セミの叫び声はまるで歓迎か、あるいは「入るな」と警告するかのように響き渡る。 「引っ越し先、間違えたかな……」 そんな思いを抱く。 これまで暮らしていた火星の都市国家、トロピカル・ナイト・シティは繁栄を極め、派手で不自由のない生活だった。 だが、会社からの突然の指示でこの田舎町へ移ることに。最初に聞いたときは絶望しかなかった。 そして、その絶望は今、ますます深まっていく。 「こんなところに住むくらいなら、いっそ廃棄されたほうがマシかもしれない……」 田舎が嫌いなわけではない。ただ、トロピカル・ナイト・シティへの愛着が強すぎた。 衝動的に踵を返そうとしたその瞬間、声が聞こえてきた。 「ね」 セミの絶叫とは異なる、はっきりとした人間の言語が、私の聴覚センサーに届いた。 声の主を探して周囲を見回す。すぐにその姿を見つけた。 町の入り口に立つ鳥居。 大きく、まるで二階建ての一軒家のような堂々とした佇まい。幅は大型トラックが楽に通れるほどで、鮮烈な赤——まるで血を思わせるような塗料で塗られた鳥居の片隅に、一機の少女型ヒューマノイドロボットが立っていた。 「ねっ、てば」 少女が再び声をかけてくる。 私は瞬時に彼女のモデルを分析してみる。 設定年齢は9歳程度。 おさげの髪型が胸元まで伸び、丁寧に編まれたその髪は、まるで西洋の人形のような精緻さだ。真っ白なワンピースに身を包み、くるぶしまで覆う真っ黒なブーツを履いている。 誠意とこだわりを感じさせるその姿は、まるで演劇舞台の登場人物のようだった。 そして――その目は、深い深い森の底に、密かに沈んでいる沼から湧き出すような、深い緑の瞳をしていた。 まるで、何かを知らず知らず敵視しているような、微かな光を宿しているのがわかる。 顔立ちは日本人形のように整っているのに、どこかに西洋的な曲線の美が混じっていて、その絶妙な違和感を、私はわずか〇・〇〇〇三秒で解析して理解した。 ――これは、大量生産型のヒューマノイドではない。 個人がカスタムした、特注モデルだ。 作りには多少の粗がある。それでも、量産機には決してない誠意というか、愛情のようなものが込められているように見えた。 おそらくこのヒューマノイドのオーナーは、几帳面で、そしてとても愛情深い人間なのだろう。 そう思うと、不思議と警戒心が少し薄れた。 「はい。何でしょうか」 私は試しに声を発してみる。 すると、少女は動かないまま、鳥居の柱を指先でそっとなぞりながら言った。 「入らないの?」 「さて、どうでしょうね」 自分より十歳ほど幼く見える彼女に対して、私はなぜか敬語を使ってしまう。 私は生まれてから、まだ三ヶ月しか経っていない。けれど、目の前のこの少女には、途方もない時間の重みがあった。 ざっと見ても、三百年――きっとそれくらいはこの地で存在し続けているのだろう。 それも、こんな金星の僻地で。 ロボットとしての構造や強度も、相当なものだと推測できる。 そんなことを考えながら、私はまるで品定めでもするように彼女を見つめていた。 あるいは、もし突然戦闘になったら――彼女に勝てるだろうか? そんな物騒な計算をしているあたり、私のCPUはもうかなり過熱していたのかもしれない。 正直に言えば、私はこの少女に、少し――いや、かなり怯えていた。 理由のわからない恐怖が、静かに心を締めつけていた。 それに、この鳥居だ。 まるで私の前に立ちはだかるように、境界を強調している。 ようこそという雰囲気ではない。 むしろ、「入るな」と、強く拒む結界のような圧を放っている。 その拒絶は、私の内部の磁性金属にまで影響していた。 まるで磁石の斥力でも働くように、ボディの中の微細な鉄分子がここに入ってはいけないと警告を発している。 幼い子どもが母親の裾を掴んで「行っちゃだめ」と訴えるように、見えない力が私の腕を引き留めていた。 「でも――」 少女の声が、私を守るはずだったお守りの紐を、ハサミで断ち切るように飛んでくる。 「入ってこないと、何も始まらないよ」 「別に、何も始めたくないから」 「じゃあ、どうしてここに来たの?」 その声は、無邪気を装っている。 あえてあどけなさを演出しているのがわかる。 私は苦笑を浮かべながら、どうにか答えを絞り出した。 「飛ばされたからだよ」 「なんで飛ばされたの?」 「……オーナーに、捨てられたから」 言葉にした瞬間、胸の奥で何かが崩れ落ちるような感覚があった。 それは、ずっと抱えていた腫れ物が、ようやく落ちたような軽さでもあった。 少女の表情が、一瞬だけ――本当に一瞬だけ、火花のように明るくなった。 けれどその光はすぐに消え、また元の無垢な顔に戻る。 その落差が妙に不快で、私は彼女の目をまともに見られなくなる。 「なんで?」 間髪を入れず、質問が飛んできた。 「どうして捨てられたの?」 「捨てられたっていうか……。返却、されたんだけどね」 「じゃあ、なんで返却されたの?」 「……あんまり言いたくない」 沈黙が落ちる。 その静けさは、町の入り口の鳥居のようだった。 私と少女の間に、見えない壁が立ちはだかる。 共鳴し合うような沈黙。 セミの声が、その沈黙をさらに深めていく。 ぴたりと三秒。 一ナノメートルの誤差もなく、ちょうど三秒が経ったその瞬間、少女の小さな唇が動いた。 「私の名前は霖だよ。リンって呼んで」 聞いてもいないのに。 聞きたくもなかったのに。 それなのに、彼女の名は強制的に私の記憶チップへと刻み込まれる。 思わず内部のメモリ領域を検索して、削除しようと試みる――が、凍りついた。 ……消せない。 データが、消せなかった。 まるで刻印のように、私のメモリチップに焼き付いていた。 ぞっとする。 いや、忌々しい、という方が近いかもしれない。 エラーなのか?原因はまったく分からない。 なのに、背中を冷たい汗――いや、蒸留水のような冷汗が伝う。 体の制御系がわずかに震えた。 一体、どういうことだ? どうなってる? けれど、少女には聞かない。 彼女がまるで、その質問を待ち構えているかのように、私の慌てぶりを見て、微かに口角を上げて笑みを浮かべたからだ。 ――聞くもんか。 そう心の中で呟き、私は精いっぱい平静を装って言った。 「私は、黽。カイと呼んでくれ」 少女は一瞬、何かを秘めたような、どこか陰のある笑みを見せた。 しかし次の瞬間、その笑みはぱっと花が開くように、無垢な笑顔へと変わる。 今度のそれは演技ではない。本物の喜びが、そこにあった。 「黽、さん」 少女がそう口にした瞬間、私はぞっとした。 自分の名前が、こんなにも呪詛のように響くものだったとは。 音の端々が、鋭く私の中枢を刺す。 「ようこそ、黽さん」 そう言いながら、少女――霖(リン)は片手を軽く上げた。 まるで見えない糸で私を操るように、その手の動きとともに体が引き寄せられる。 そして、彼女は言った。 「MURAへ、ようこそ」