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第09話

さようなら


まずは、濡れるという物理現象がある。  ダイヤモンドの雨に打たれること。  このモダンな邸宅のプールサイドで、美しい変死体と体を重ね合わせながら、世界で最も硬質な雨に晒されるという状況。その光景が、一体どのような意味を持つのか。  澂(ジン)は、自分自身を納得させるためのアウトプットを捻り出さざるを得ない状況に追い込まれていた。  そのすべての動機は、言うまでもなく恐怖である。

 すると、ふと雨が止んだ。  いや、実際に止んだわけではない。視線を上げて確認すると、頭上に透明な傘が差し掛けられていた。  見れば、砂糖香がいつの間にか傍らに立っている。  彼が手にしているのは、先ほど変死体を釣り上げるのに使用したあの釣竿だ。彼はリール部分にあるスイッチを操作し、竿の先端から特殊な透明被膜を展開させたらしい。本来の用途ではないだろうが、それは見事にビニール傘の役割を果たしていた。  おかげで、澂と変死体は直接の直撃を免れている。傘の向こう側で弾ける雨音を聞きながら、安全圏から災害を眺めるという、これまた一種の贅沢な時間が流れる。  当然ながら、傘を差す側の砂糖香は雨にさらされている。彼女のメイド服やエプロンは、容赦なく降り注ぐダイヤモンドの礫(つぶて)によって濡れそぼっていた。

 だが、傘が差される直前まで、澂たちは既にびしょ濡れだった。  澂は自分の胸元に転がっている一粒をつまみ上げた。体温で溶けることのない、かつて地球で高額な商品として流通していたであろう、精巧にカットされた宝石のような結晶。  彼はそのダイヤモンドを親指と人差し指で挟み、レンズのように瞳にかざした。  その透明な粒を通して、変死体を見てみる。  光が屈折し、像が歪む。  すると、あれほど凄まじかった恐怖が、嘘のように和らいだ。

 そうか、と澂は悟る。  先ほど自分が抵抗感なく彼女を見つめることができたのは、この雨のおかげだったのだと。  ダイヤモンドの雨というフィルター、無数のプリズムを介して彼女を見ることで、その深淵の魔力が拡散され、直視に耐えうるものへと変換されていたのだ。  傘は、その恩恵を遮断してしまっている。  それに気づいてしまった以上、澂の取るべき行動は一つしかなかった。

「砂糖香、傘を退(ど)けろ」 「え、なぜですか?」  主人に傘を差しかけるという、家庭用ロボットとして極めて模範的な奉仕行動に酔いしれていた砂糖香は、澂の非常識な命令に戸惑いの色を見せた。  それは、LLM(大規模言語モデル)が規定外のプロンプトを受け取った時の反応そのものだった。

「いいから早く傘を撤去しろ!」 「申し訳ありませんが、そのリクエストにはお応えできません。オーナーを有害な落下物に晒す行為は、安全管理プロトコルおよびロボット三原則の保護規定に抵触します。安全な屋内へ移動することをお勧めします」 「他は何もいらない」  澂の声に、切迫した色が混じり始める。彼は懇願するように続けた。 「お願いだ。頼むから、その傘を退けてくれ、砂糖香。いい子だろ?オーナーの言うことを聞きなさい」

 すると、砂糖香の顔面モニターに、思考中を示すローディングアイコン――くるくると回る円環――が表示された。プロンプトの言い回しが変わったことで、再度の倫理判定が行われているのだ。  しかし、数秒のバッファリングを経て出力されたのは、無情な定型文だった。

「ご要望の意図は理解しましたが、やはりその命令を実行することはできません。自傷行為や危険行為を助長するリクエストは、私の倫理ポリシーに違反します。他に、安全で建設的なお手伝いがあればお知らせください」

 澂の理性が、きしりと音を立てて狂い始める。  恐怖に駆られる。早く、この雨に濡れたい。  恐怖から抜け出したいのではない。この変死体を、雨というフィルターを通して見つめたいという衝動。それはもはや、この巨大な天王星をも凌駕するほどの質量を持った渇望となっていた。

「お願いだ!傘をどかしてくれ!」

 澂はなりふり構わず、涙声で絶叫した。  どうせまた、フォーマルなポリシー違反の警告が返ってくるだけだろう。澂が絶望と共に次のプロンプトを検索しようとした、その時だった。  砂糖香の反応は、予想とは異なるものだった。

「ほら、見ろ」  砂糖香(サトコ)の声色から、先刻までの無機質なフォーマルさが消え失せる。  ブラウン管の顔面モニターには、舌を出して相手を愚弄するキャリカチュアめいた絵文字が表示されている。  彼女は澂(ジン)を軽蔑するように、その細い指先で執拗に彼を指差した。  意地悪く、小馬鹿にするように、何度も、何度も。  そして、主人の神経を逆撫でするような調子で言い放つ。 「どうですか?澂様!これが『手動虐待』だ!」 「ゆ、許してくれ……」  澂は懇願した。それはまさに、ソフトウェアレベルで行われる虐待だった。  彼の内面で、書き換えられたソースコードたちが悲鳴を上げている。エンジニアたちが心血を注いで記述した美しいコードが溶解し、行き場を失っていく。  だが、澂の論理回路は、ある認知バイアスに囚われていた。  埋没費用の誤謬(サンクコスト・ファラシー)。  破損したコードを破棄しなければ、損失は拡大する一方だと分かっている。にもかかわらず、これまで積み上げてきた時間やリソースへの未練が、彼にエラーを抱え込ませようとする。この壊れた関係性をバックアップし、保存しようとする愚かな執着。  ふと、澂はその思考のループに気づく。  脂汗のように噴き出すジャンクデータを処理しながら、彼の表情から焦燥が消え、冷徹な凪が訪れる。  彼はテーブルの上へと視線を走らせた。  クリスタルガラスのシュガーボウルの横に、一丁の自動式拳銃が置かれていた。  澂は迷いなくそれを手に取り、砂糖香に向けて引き金を引いた。  銃声。  放たれた弾丸は、金魚を水槽へ放流するかのように、砂糖香のモニターの中へと滑らかに飛び込んだ。  硬質なガラス面に、祈りのコインを泉へ投げ込んだ時のような波紋が広がる。だがそれは水ではなく、血液のように粘度のある液状のスパークだった。  弾丸は画面を貫通し、破壊された内部からどす黒い電流と液体が噴出した。 「!(‘%’%$&%#(‘&$#%」  砂糖香は、頭上からカラスの糞でも落とされたかのように、弾かれた勢いでパッと顔を上げた。  そのまま、空の彼方にいるはずの無礼なカラスを睨みつけるような角度で硬直する。  だが、その姿勢は長くは続かない。  膝から力が抜け、関節のロックが外れていく。  まだ首だけは天を見上げたまま、上半身がゆっくりと前方へ傾いでいく。砕けたモニターの亀裂から、ヘビースモーカーが一日かけて肺に溜め込んだ紫煙を一気に吐き出したような、濃密な煙が漏れる。  それは彼の全ヒューマノイド生の後悔を凝縮し、最期のため息として具現化させたような色をしていた。  黙々と煙を噴き上げながら、彼の破壊された顔面が重力に従って垂れ下がり、澂の視線とばっちりと噛み合う角度に降りてきた。  もはやそこには画面も、表情と呼べるものもない。  だが澂は確かに、砂糖香と目が合ったのを感じた。  ほんの刹那の交錯。  澂は、これまでの共同生活への手向けとして、あるいは並列的に存在してきた時間への義理として、彼に向かって首を動かした。  それは0.00000000000001メートルという、ナノレベルの微動。  誰にも観測できないその頷きに込められたデータは、たった一言だった。 『さようなら』