-完-

21


「現(げん)」

 自分を呼ぶ声に、現は目を覚ました。
 ゆっくりと瞼を持ち上げ、横を向く。
 そこには、ハンドルから手を離し、サイドブレーキを引き上げる紬の姿があった。
「着いたわよ」紬が言った。「そろそろ起きて。もうすぐ打ち上げが始まるから」
「……」
 現は倒していたシートを戻し、窓の外を眺めた。
 そこには、種子島の静かで穏やかな風景が広がっていた。

 緑豊かな夏の日の午後。
 今日は種子島宇宙センターで月探査有人ロケットが打ち上げられる日であり、現の十七歳の誕生日でもある。
「……俺、どれくらい寝てた?」
 現が尋ねると、紬は首を少し傾けて答えた。
「そうね、二十分くらい? ……こら、うるさい! 喧嘩しないの!」
 後部座席が急に騒がしくなり、紬の注意はそちらへと向けられた。現もルームミラー越しに後ろを覗き込む。
 そこでは、幼稚園に入ったばかりの双子の妹たちが、着せ替え人形の所有権を巡って激しい言い争いを繰り広げていた。
 現は二人の喧騒を聞き流しながら、ぼんやりと呟いた。
「夢を見た。……すごく、長い夢」
 すると、紬が再び現の方を向いた。
「どんな夢だったの?」
「ええと……」
 現はしばらく記憶を辿ろうとしてみた。
 だが、どれほど思い出そうとしても、その内容はすでに熱に溶けた氷のように、跡形もなく消え去ってしまっていた。
「分からない。もう忘れちゃった」
「……そう。残念ね」
 その時、紬のスマホに着信があった。
 画面には「奏汰」の名が表示されている。
「あ、お父さんからだわ」
 紬はそう言うと、後部座席の妹たちを諭した。
「ほら、お父さんと電話するから、静かにしてて」
 奏汰は種子島宇宙センターの職員であり、今日の打ち上げを管制棟から直接見守っている。
 電話の内容は、間もなくカウントダウンが始まるという知らせだった。紬がそれを伝えると、妹たちは目を輝かせ、「外で見る!」と元気よく車を飛び出していった。
「あんまり遠くへ行っちゃダメよ!」
 紬が二人の背中に声をかけてから、現に尋ねた。
「現は? 外で見ないの?」
 現は一瞬迷ったが、まだ微かな眠気が残っており、車内の冷房の心地よさも捨てがたかったため、首を横に振った。
「いいよ。ここからでもよく見えるし」
「そう。じゃあ、母さんもここで見ようかな」
 こうして、車内には二人だけが残った。
 奏汰との電話を続ける紬の横顔を、現はじっと見つめた。すると、電話を終えた紬が怪訝そうに聞き返してきた。
「なによ。私の顔に何かついてる?」
「……いや、別に」現は視線を逸らしながら言った。「母さんももうおばさんだよな、って思っただけ」
「はあぁ!?」
 紬はあからさまに機嫌を損ねた様子で、現の片方の頬を指先でつねり上げた。
「おばさんで悪かったわね! 仕方ないでしょ、もう四十歳なんだから!」
「い、痛い! 誰も悪いなんて言ってないだろ。ただの事実を言っただけじゃないか。……でも母さん、四十歳には全然見えないよ。まだ三十代前半で通用するから! 本当に!」
 必死の弁明が通じたのか、紬はようやく現の頬を離してくれた。
 それから紬はルームミラーで自分の顔を覗き込みながら、どこか名残惜しそうに呟いた。
「……もう四十歳か」
 現は火照った頬をさすりながら、ふと思う。紬本人はそれなりにショックを受けているようだが、現は彼女が年を重ねていくその姿に、得体のしれない安堵感を覚えていた。
 やがて、遠くの発射台から白煙が噴き出し、空気を震わせる重厚な轟音を発する。
 ロケットが産声を上げた。
 周囲の見物客たちの間で、嬉しそうな拍手と歓声が沸き起こる。
 現はしばらくの間、吸い寄せられるようにロケットを目で追い続けた。
 十七歳の誕生日、これ以上のプレゼントはないと思えるほど壮観な光景だった。
 ロケットは白煙で巨大な放物線を描きながら蒼穹へと昇っていき、やがて車内からは見えない高さへと消えていった。
 素敵だなと言おうとして隣を向くと、紬と目が合った。
 彼女はすでに現の方を見ていた。
 ロケットではなく、それを見上げる現の横顔を、ただじっと見つめていたようだった。
「現」
 彼女は静かに言った。

「生まれてきてくれて、ありがとう」

 現は、少し照れくさく感じたけれど、すぐに深く頷き、精一杯の笑顔を返した。
 二人は車を降り、人混みの中にいた妹たちを捜して合流した。
 そして四人で並び、天高く昇っていく輝きをいつまでも、いつまでも見上げた。
 もう一人の夢が、今、月へと向かっていた。

 ―完―

文章をクリックしてください

文章をタッチしてください