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11


帰宅した芽生はリビングの片隅に向かい、悠人と蒼大の仏壇に置かれた遺影を、目を背けるようにしてそっと伏せた。  二階に上がり、荷物をまとめる。三十分ほどかけて、Mサイズのスーツケースに隙間なく荷物を詰め込んだ。悠人の指示通り、最小限に絞った結果だ。  スーツケースを部屋に残し、リビングへと降りる。冷蔵庫から水を取り出し、喉を潤しながら室内を見渡した。当然のように誰もいない家は、いつものように整然とした廃墟のようだった。空腹の胃に冷たい水が入ったせいか、身体が小刻みに震える。このままでは寒さに負けてしまいそうで、芽生は久しぶりに料理をすることにした。  メニューはカレーに決めた。食卓の上に置かれた、母のカードと「夕食は出前を頼んで」というメモを手に取り、買い物へ向かう。帰宅してすぐに野菜を洗い、本格的に調理を始めた。高校生になってから、こうして「家のご飯」を作るのは、これが初めてだった。とにかく身体を動かしている間だけは、わずかに気分が晴れていくような気がした。  カレーが完成し、ご飯が炊き上がった頃、玄関のドアが開いた。父だった。リビングに入ってきた父は、お玉を握った芽生を見て言った。 「カレー、作ったのか」 「うん。久しぶりに」  父の顔に一瞬、困惑の色が過った。芽生はあえて「食べていく?」とは訊かなかった。  父が訊ねる。 「小屋の荷物、整理は終わったか?」 「……まだ、少し残ってる」 「早めにな。明日、業者が来るから」 「……うん」  父はそのまま自室に入り、すぐに出てきた。服も着替えず、鞄も持ったままだ。 「会社に戻らなきゃいけない」父が言った。「悪いが、飯は外で済ませてくる」 「あ、うん。わかった」 「……悪いな。せっかく作ったのに」 「いいよ。大丈夫。気にしないで」  そのまま背を向けて玄関へ向かおうとする父を、芽生はふと呼び止めた。 「お父さん」 「……ん?」  父が立ち止まり、怪訝そうに振り返る。芽生は思わず視線を落とした。つけていたエプロンに小さなカレーの染みがあるのに気づき、それを親指で無心にこすった。そして、小さく首を振った。 「ううん、なんでもない。……いってらっしゃい」 「そうか。うん、行ってくる」  父が出ていった後、芽生はスマホで動画を流しながら、一人でカレーを食べた。食べ終えてからも母を待ってみたが、夜八時を過ぎても帰宅する気配はなかった。電話をかけようかとも思ったが、結局やめた。  芽生は皿を洗い終えると、スーツケースを手に取って庭に出た。一度も振り返ることなく、まっすぐ『兄妹の部屋』へ入った。


 小屋には悠人と蒼大がすでに揃っていた。ほとんど中身のなさそうな軽いバックパックを背負った蒼大が、芽生の重々しいスーツケースを見て鼻で笑った。 「いくらなんでも……」  蒼大が呆れたように言う。 「そんなものを引きずってきたら、随分と図々しく見えるんじゃない?」 「いいじゃないか」  悠人が穏やかな笑みを浮かべてとりなす。 「一旦ここに置いておいて、後で少しずつ運べばいいよ」 「これでもかなり減らしたんだからね」芽生は不満げに呟いた。「部屋を丸ごと移したいくらいだったんだから」  芽生がドアを閉めたのを合図に、悠人と蒼大がゆっくりと席を立った。悠人がドアの前に行き、ノブに手をかける。開ける直前、彼はどこかしんみりとした口調で訊ねた。 「二人とも、いいな?」 「ああ。準備はできてる」  蒼大が先に答え、芽生はわずかに間を置いた。友達の顔、今日まで自分のものだった景色のすべてが、走馬灯のように脳裏を駆け抜けた。母のこと。自分から遠ざかっていった橋本の背中。そして、先ほど見送った父の背中。  芽生は淡々と、深く頷いた。 「うん。大丈夫。……もう、覚悟は決めたから」  悠人がドアを開け、三人はついに、その先へと踏み出した。

 芽生は母に案内され、二階にある「自分の部屋」に入った。本来使っていた部屋と同じ間取りではあったが、自分の痕跡が何一つないその空間は、まるで初めて訪れる場所のように感じられた。  服を着替えて階下へ降りると、キッチンで母が食事の支度をしていた。芽生はすぐに歩み寄り、袖をまくって手伝いを始めた。続いて降りてきた悠人と蒼大も、食器の準備や片付けを手伝う。  テーブルのセッティングが整う頃、父が帰宅した。 「お帰りなさい」  リビングに入ってきた父に、母がエプロンを脱ぎながら問いかけた。 「ご飯作ったけど、今日は食べていくわよね?」 「……食べてきた」  父は昨日と同じく、突き放すように短く断った。そのまま芽生と蒼大の方を向き、事務的に言葉を継いだ。 「君たちのことについては、昨夜、妻から聞いた。話し合った結果、親や学校にすぐ知らせるのも最善の策ではないと判断した。だから、昨日も言ったように、しばらくはこの家にいてもいい。案内されたと思うが、二階の空き部屋を自由に使ってくれ」  あらかじめ準備していたかのような、棒読みの通告だった。誰も返事を出さないのを見ると、父はそれを歓迎すると言わんばかりに頷き、すぐさまリビングを立ち去ろうとした。芽生はその背中を凝視し、やがて口を開いた。 「あの」  その瞬間、父の肩が弾かれたようにびくりと震えた。父はたじろぎながら振り返り、芽生に目を向けた。その緊張した顔を見て、芽生は知らず知らずのうちに拳を握っていた。  芽生は努めて丁寧な口調で訊ねた。 「ご飯、どうしてお一緒に召し上がらないんですか?」  短い沈黙が流れ、蒼大が慌てて割り込んできた。 「……さっき仰ったじゃないか。食べてきたって」  芽生はそれを無視して、父だけを見つめ続けた。 「よほど美味しいお店をご存知なんですね。毎日、家の料理には目もくれないところを見ると」 「おい、芽生」  蒼大が引きつった笑みを浮かべて制止する。 「毎日って、いつ毎日見たんだよ。お会いしてまだ二日目じゃん」 「あ、そっか……」  芽生はすぐに気を取り直し、感情を押し殺した。 「悠人先輩から聞いたんですよ。どうせ毎日外で食べてくるから、今日も食べないだろうって。……余計な口出しをしてすみませんでした。ただ、心を込めて料理を作ったおばさんが、なんだかとても可哀想に思えただけですから。……もう、お腹いっぱいで食べられませんよね?」  芽生は取り繕ったような笑顔で話を切り上げた。正直、彼が食べようが食べまいがどうでもよかった。ただ、誰かが目の前で自分に背を向けるという行為に、もう耐えられなかった。 「じゃあ、食べなくてもいいから、座っているだけならどう?」  母が助け舟を出すように、父に提案した。 「四人で食事をすると、きっと賑やかになるわよ。そんな中でお父さん一人だけ部屋にいたら、なんだか気まずいでしょう?」  父はしばらく真剣な面持ちで悩み、やがて慎重に頷いた。ひとつ咳払いをしてから、こう言った。 「……じゃあ、少しだけいただこうか。実は、夕食を少なめに済ませてしまってね」 「ええ、座って。すぐに用意してあげるから」  そうして、五人全員がひとつの食卓を囲むことになった。  父を除いた四人は、それぞれの定位置に腰を下ろした。父は必然的に、全員を正面から見渡せる位置――いわゆる上座に座ることになった。本人は気乗りしない風ではあったが、他の席がすでに埋まっている以上、選択の余地はなかった。 「食卓がこうして埋まるのは、七年ぶりだね」  母がどこか感慨深げに呟くと、芽生もまた胸に迫るものを感じた。ちらりと見れば、悠人や蒼大も同じような面持ちだった。まだ不安定な立場ではあるが、この状況を作れただけでも、心細さがいくらか和らぐような気がした。  それからは、ごくありふれた家庭の、ありふれた夕食の光景が続いた。会話は途切れることなく、主に母と蒼大がたわいもない話を交わし、悠人が時折相槌を打つ。芽生も最初は加わっていたが、いつしか口数を減らし、じっと父の横顔を見つめるようになった。  父は会話を聞いているようではあったが、自分から加わろうとはしなかった。ただ深く頭を下げ、黙々と箸を動かしている。それにしても、「食べてきた」というわりには、なかなかの食いっぷりだった。父が食事をする姿を見るのは、芽生にとっても随分と久しぶりのことだ。彼女は思わず我を忘れ、父のことをじろじろと観察してしまった。  視線に気づいた父が、顔を上げて芽生を見た。 「……何?」 「あ、いえ」芽生はハッとして視線を逸らしたが、すぐに思い直して戻した。「食べてきたわりには、何日も飢えていた人みたいだなと思って」  それを聞いて、母が笑いながら加わった。 「確かに。なんだかいつも飢えているような印象よね、この人」 「失礼な」父がボソリと返した。「食べる速度が速いだけだ」 「結構口に合ったみたいね。美味しいでしょう?」 「……ああ。特に、この味噌汁が」 「あ、それアキちゃんが作ったのよ。サバの味噌煮もね。この子、料理が上手いのよ」  父は何度か頷くと、また黙ってご飯を食べ続けた。 「あの」  芽生が再び父を呼んだ。父が顔を上げると、芽生は単刀直入に切り出した。 「何をそんなに怖がっているんですか?」 「……」 「私たちが、あの子たちと似ているってことはわかります。……でも、だからって、そんな幽霊でも見たような顔をするのは、やめてくれませんか」  それまで保たれていた平穏な空気に、ぴしりと亀裂が入った。父は突如として喉を詰まらせたのか、激しく咳き込み始めた。顔が張り裂けそうなほど真っ赤になる。父は椅子から立ち上がり、シンクの前まで行くと、胸を叩きながらしばらくの間、苦しげに咳き込んだ。  母が慌てて駆け寄り、「大丈夫?」と水を差し出す。父はそれを受け取るなり、一気に飲み干した。  ようやく落ち着いたのか、顔の赤みが引き、咳も止まった。父はシンクに向かって長く重いため息を吐いた後、食卓へと戻ってきた。 「大丈夫ですか?」  芽生が、心配というよりはどこか冷ややかな、情けないと言いたげな口調で尋ねた。父は幾度も頷いた。 「……ああ、もう大丈夫。ちなみに……」  父はまだ咳の余波が残っているのか、しばらく胸に手を当てて黙っていた。やがて、静かに言葉を継いだ。 「俺が怖がっていたのは、君たちじゃない」 「じゃあ、何なんですか?」  芽生が問い返すと、父はしばらく躊躇った末に手を離し、答えた。 「昨日、君たちを初めて見て……圧倒されてしまったんだ。あの子たちとの思い出が押し寄せてきて……身動きが取れなくなるほどだった。そこで気づいたんだ。自分はまだ、あの子たちとちゃんとお別れができていなかったんだな、と」  父は低いため息を漏らした。その瞬間、彼が十歳ほど老け込んだように見えた。父は独白を続ける。 「それが怖かった。七年という歳月では、まるで足りなかったという事実が。このままずっと、あの子たちを忘れることができないのではないかと思うと……。忘れたくはないが、もう忘れなければならないから。……ああ、もちろんすべてを消し去りたいという意味じゃない。言いたいこと、わかるかな」 「……はい」  蒼大が先に答え、芽生も頷きながら言った。 「よく、わかります」 「だから……」  父は締めくくった。 「君たちが怖かったんじゃない。君たちを通して、芽生と蒼大を見ようとする自分自身が、怖かっただけ。誤解させてすまなかった」 「へえ……」  母が、意外そうな表情で父を見つめた。 「お父さんが、本音を言うこともあるのね」 「まあな。妙に口が軽くなってしまった。まるで……」  父は芽生と蒼大を見やり、冗談混じりの口調で答えた。 「本当に、幽霊にでも取り憑かれたような気分だよ」  食卓に、軽い笑いが浮かんだ。父も微かに微笑み、止まっていた食事の手が再び動き出す。 「じゃあ、こうしたらどうかしら?」  ふと、母が提案した。 「いっそのこと、この子たちに『取り憑かれて』しまいましょう」  他の四人が、同時に母を見つめた。全員の困惑を代弁するように、父が訊ねる。 「……どういう意味だ?」 「蒼大と芽生への思いを、ハルちゃんとアキちゃんにそのまま重ね合わせるの。そうして、あの子たちの不在を塗りつぶしてしまう。……ねえ、どうかしら?」 「お母さん……」父がわずかに眉をひそめた。「また酔ったのか?」 「違うわよ。一口も飲んでない。私は本気で言っているの。ねえ、考えてみて」  母は両手を広げ、食卓に並んだご馳走を誇示するようなジェスチャーをして見せた。 「もし蒼大と芽生が今まで生きていたら、まさにこんな感じだったはずだと思わない?」  一同が沈黙すると、母は声を弾ませた。 「ほら、家族五人が揃っているみたい。何の違和感もないわ」  父は、幻滅か哀れみか判然としない複雑な表情で母を凝視し、ぶっきらぼうに言った。 「ばかげたことを言うな。みんな戸惑ってるだろ」 「いいですね!」芽生が唐突に割って入った。「亡くなった人への思いを、見た目の似た人にかぶせる……。私は、すごくいいアイデアだと思います。そう思わない? お兄ちゃん」 「あ、ああ……。えっ?」  蒼大の曖昧な反応を無視して、芽生は言葉を重ねた。 「そうでなくても、このまま居座ってばかりいるのは申し訳ないと思っていたので、ちょうどよかったです。そうやって利用してもらえるなら、私たちの気持ちもずっと楽になります。ぜひ、思う存分使ってください」 「本当? ありがとう、アキちゃん」母は勢いづいて父に詰め寄った。「お父さんはどう? ほら、お互いの利害も一致したじゃない」 「……」  父が押し黙ると、母は真剣な顔つきになった。 「お父さん、さっき言ったでしょ? あの子たちとはもうお別れしたいって。ならこの機に試してみましょうよ。何もしないまま耐えるのはやめて、少し無理をしてでも変化を取り入れた方がいいと思わない?」 「かぶせるったって……」父が抗うような口調で訊く。「どうしろと言うんだ」  それは方法を問うたのではなく、「ふざけるな」という非難の意味であることは明白だった。にもかかわらず、芽生はあえて空気を読まず、正面突破を試みた。 「まずは『呼び方』から始めるのはどうですか?」  今度は全員の視線が芽生に集まった。彼女は堂々と言い切る。 「例えば……おじさん、おばさんではなく、これからは『お父さん』『お母さん』と呼ぶ、とか」 「それいいわね!」母が目を見開いて相槌を打った。「ええ、そうしましょう」 「しかし……」  父が口を開きかける前に、母が畳みかけた。 「ただの愛称みたいなものよ。実を言うと、私も『おばさん』と呼ばれるのは気に入らなかったの。そう呼ぶようにさせてあげましょうよ。深く考えずに、軽い気持ちで」  それでも父は、依然として承服しかねる様子だった。そこで芽生は、不意を突くように言い放った。 「お父さん」  茶目っ気のない、普段から父を呼ぶときと同じ、あまりに自然な口調。事実上の実父でもあるため、芽生にとっては少しの違和感もなかった。 「お父さん。どうですか? 嫌ですか?」  視線が再び父へと移る。父の顔には、もはや感情を読み取ることすらできない無表情だけが浮かんでいた。彼は母をちらりと見やり、やがて力ない声で答えた。 「……好きにしろ」  許可というよりは、諦めに近い返答だった。一方、母はすっかり浮き足立った顔で芽生にねだった。 「私にも呼んでくれる?」 「お母さん」  芽生が快く応じると、母は蒼大にも同じことを頼んだ。蒼大も「お母さん」と呼ぶ。母はうっとりとした表情で呟いた。 「……あまりにも自然に聞こえる。本来の、五人家族の姿に戻ってきたみたい」  本来の五人家族。  その言葉が、リビングにこだまのように響いた。少なくとも芽生には、そう聞こえた。  彼女は二人の兄と視線を交わした。あえて言葉にしなくてもわかった。悠人も蒼大も、芽生と同じことを考えているに違いなかった。  ――あとは、本物の家族になること。それだけだ。