「……はい」
橋本の部屋。
「はい。一応、わかりました。……はい、失礼します」
橋本は電話を切ると、軽く首を横に振った。
生徒会室で父親から電話があったと告げられて以来、悠人の雰囲気がどこか変わったことには気づいていた。突然塾を辞めた時も驚きはしたが、まあ、あり得ない話ではないと思っていた。だが今回ばかりは、どんなに尊敬する先輩の言うこととはいえ、どうしても理解が追いつかなかった。
「悠人先輩……本当に頭、大丈夫なのか?」
そう独り言を漏らした瞬間、家のチャイムが鳴った。
びくりと肩を揺らしながらも、橋本は椅子から立ち上がった。リビングへ出ると、マンションのエントランスを映すモニターを覗き込む。
「……」
言葉を失った。画面の向こうで、相手がぎこちない口調で言った。
「あの……俺たち、『お前』なんだけど」
橋本は、ゆっくりと、極めてゆっくりと頷き始めた。そこに映っていたのは、どう見ても自分自身の姿が二人分だった。
「……マジかよ」
「本当、本当。だからとりあえずドアを開けてくれないか? エントランスのパスワードが俺の次元と違ってて、開けられないんだ」
橋本はモニターのボタンを押し、エントランスのロックを解除した。二人は間もなく建物内へと入り、画面からはその姿を消した。
両親は共働きで不在のため、家には橋本の他に誰もいない。橋本はリビングをうろうろと歩き回りながら、「自分の方が狂ってしまったのではないか」と必死に自問自答してみたが、やがて玄関のドアロックが解錠される電子音が響くと、もう考えるのをやめた。
二人はドアを開け、家の中に入ってきた。リビングで三人は三角形を描くように立ち尽くし、しばらくの間、無言で互いを見つめ合った。
長い沈黙の後、悠人側の橋本が先に口を開いた。
「……俺だ」
すると、他の二人も深く頷いた。
「ああ。俺だよ」
「言っただろ。俺だって」
モニター越しではない実物を目の当たりにすると、かえって混乱は収まっていった。三人は間もなく自分の部屋に入り、ドアをロックした。両親がすぐに帰宅する予定はないが、念のための処置だった。
芽生側の橋本がベッドに腰掛け、蒼大側の橋本が学習机の椅子に座る。この世界の主である悠人側の橋本は、ドアに背を預けて立ったままだった。それぞれが居場所を決めると、散漫だった空気が次第に落ち着きを取り戻していく。
「……さっき、悠人先輩から電話が来たんだ」
しばらくして、悠人側の橋本が切り出した。
「これから俺とそっくりの奴が二人、家に来るかもしれないって。危ないから絶対に入れるな、いっそ外に出るか、留守のふりをしろって言われたよ」
「そうか」芽生側が言った。「よく、その忠告を聞かずに俺たちを入れてくれたな」
「なんだか、」蒼大側も言葉を添えた。「『ありがとう』と言うべきか、『不用心だ』と言うべきか迷うね」
「だって、似すぎだろ」悠人側が抗弁するように言った。「近くで見たくてたまらなかったんだよ」
「まあ、いい。とにかく、お前も大体の事情は聞いたんだな。あの、悠人って人に」蒼大側が尋ねる。
「ちょっと怖かったな、あの人……」芽生側が噛まれた腕をさすりながら訊いた。「こっちの世界じゃ、どんな関係なんだ?」
「悠人先輩と?」悠人側が答える。「生徒会の先輩後輩。悠人先輩が元会長で、今の会長が俺」
「生徒会長!?」
「お前が……いや、俺が?」
二人が心底驚くのを見て、悠人側は照れくさそうに頭を掻いた。
「まあ、成り行きだよ。それより、お前たちは向こうでどんな感じなんだ?」
「俺は漫研に入ってる」蒼大側が答える。
「俺は帰宅部。……あ、そういえば」芽生側が蒼大側に水を向けた。「さっき芽生の家で聞いたけど、お前、何か賞をもらったって言ってなかったか? 漫画の」
「ああ。蒼大と一緒に描いたんだ。ちょっとした短編賞だけど」
「へえ、本当かよ。すごいじゃん」
悠人側の橋本は、意外そうに目を丸くした。
「そっちの世界では漫画を描き続けてるんだな。俺は辞めちまったけど。……じゃあ、お前は? なんで帰宅部なんだ? 何かやってないのか?」
続いて芽生側に尋ねると、蒼大側がニヤリと笑って代わりに答えた。
「こいつには、彼女がいるんだよ」
「え、マジ!?」
「芽生っていう名前で、末っ子の妹さんなんだけどな。とにかく超絶俺のタイプだった。たぶんお前も、見た瞬間に一目惚れすると思う」
「あー……悪いけど、それはもう経験済みだ。昨日、とあるカフェでな」
「へえ、そうか」
「ああ。同じ学校のはずだけど知らない顔だったから、たぶん一年生だろう。明日、学校で探してみるつもりだったんだ」
黙って聞いていた芽生側の橋本が、やおらスマートフォンを取り出し、ロック画面を表示させて悠人側の眼前に突きつけた。
「もしかして……この子?」
「そう!この子……」
あっさりと認められ、三人は苦笑を漏らした。
「どっちにしろ俺たち全員、それぞれ佐々木家と深い繋がりがあるってことか」
悠人側の橋本はこの奇妙な巡り合わせについて考えを巡らせ、半分面白がるように言ってみた。
「それじゃあ、もしあの二人がこのままこちらの世界に残ることになったら……その芽生って子は、俺と付き合うことになるかもしれないな」
芽生側の橋本は、不意を突かれたように発作的な声を上げた。直後、淡々と頷いたかと思うと、突然起き上がって悠人側の橋本に飛びかかった。避ける間もなく胸ぐらを掴まれ、そのまま激しい揉み合いになる。
「おい、やめろ!」
蒼大側がすぐに割って入り、二人を引き離そうとしたが、怒り心頭に発した芽生側の力は強く、容易には離れない。
「邪魔すんな!」芽生側が怒鳴り声を上げる。「こいつ、殺してやる。考えてみれば、てめえを殺して俺がここに住めばいいだけのことだよな!」
「やめろって! 俺が俺を殺すなんて、自殺する気かよ!」
蒼大側がようやく二人を分かち、三人は再びそれぞれの位置に戻った。荒い呼吸を整えながら、しばらく頭を冷やす時間を置く。
悠人側は、乱れた服を直し、落ち着きを取り戻して言った。
「三人もいると、やっぱりこの部屋も狭く感じるな」
「そうだな」芽生側も皮肉を込めて頷く。「誰か一人死んでくれたら、ちょうどいい広さになるのにな」
「……いい加減にしろって」
蒼大側が呆れたようにため息をついた。
「それで? 俺のところには何をしに来たんだ?」
悠人側が本題を切り出すと、蒼大側の橋本がこれまでの経緯を一目瞭然に説明し始めた。
「……というわけで。お前にも協力してほしくて、ここに来たわけ」
蒼大側の蓮が語り終えると、悠人側の蓮はゆっくりと腕を組み、口を開いた。
「あらすじは、ひとまず把握したけど……。協力って、具体的に何をすればいいの?」
「俺たち二人が、蒼大と芽生を無事に連れ帰れるように助けてほしい」
「どうやって?」
「それはこれから考える。お前はこの次元がベースなんだから、俺たちよりはずっと自由に動けるはずだろ?」
「うーん……」
悠人側の蓮はしばらく考え込んだ後、そっけなく答えた。
「……正直、あんまり気が乗らないね。俺はパスさせてもらうよ」
「なんでだよ!」
「だって、お前ら二人だけでも十分だろ。わざわざ俺まで加わる必要あるか?」
「お前……」
芽生側の蓮が、軽蔑を隠そうともしない口調で言った。
「妹や弟が残ろうが帰ろうが自分には関係ない、どっちみち自分は損をしないからってことか?」
「……まあ、そういうこと」
悠人側の蓮は潔く認めた。
「俺には、これといった動機がないんだよな。でも、お前たちの気持ちがわからないわけでもないから、邪魔もしない。だから俺抜きで、後は二人で勝手にやってくれ」
「そうか。じゃあ、仕方ない」
芽生側の蓮は短く頷くと、そのままベッドから立ち上がった。悠人側の蓮は、また彼が殴りかかってくるのかと身構えたが、芽生側の蓮は飛びついたりはしなかった。ただ、蒼大側の蓮に向かって、一言だけ投げた。
「出ようぜ」
「えっ?」蒼大側が慌てて聞き返す。「こんなに早く?」
「もともと一時的に避難しに来ただけ。こいつに助けてもらおうなんて、最初から間違いだったんだよ」
「じゃ、これからどうするつもりなんだ?」
「俺たち二人でやるしかないだろ」
「……ひとつ訊いてもいいか?」
部屋を出ようとする二人に向けて、悠人側の蓮が問いかけた。
「今の状況は、弟と妹が帰りたがっているのに、悠人先輩だけが頑なに反対している……ってことでいいのか?」
「ああ、そうだけど」
「じゃあ、もし。もしその二人も、帰りたくないって言い出したら?」
「その時は……」芽生側の蓮が答えた。「無理矢理にでも連れて行く。武力を行使してでも」
「……それは、反対だな」
悠人側の蓮は、首を傾げながら言った。
「あいつらが、結局この次元に残ることを選んだのなら、それを尊重すべきなんじゃない? お前たちが、本当の意味であいつらのことを想っているのなら」
「……」
芽生側の蓮は不機嫌そうに顔を背けると、再びベッドに腰を下ろした。
「本当に想っているからこそ、」
彼は噛み締めるように言った。
「今、あいつらを現実に戻してやろうとしてるんだ。いくら一緒に暮らせるようになったって、あいつらにとってここは結局、偽物の世界じゃん。この世界の『佐々木蒼大』と『佐々木芽生』は、間違いなく死んだんだからさ」
「じゃあ、どこからが偽物で、どこまでが本物ってわけ?」
悠人側の蓮が反論する。
「科学的に見れば、あいつらは物理的にも遺伝子的にも、疑いようのない本人だよ。身分証明とか面倒な問題はあるだろうけど、死んだ人間が帰ってきた奇跡に比べれば些細なことだろ? ……すべてが揃ったんだ。事故で取り返しのつかない傷を負った家族が、非現実的な現象によって奇跡的に回復した。それの何が悪いのさ」
「じゃ、記憶はどうする?」
蒼大側の蓮が割って入った。
「事故は、どちらの次元でも起きた既成事実だ。その時の記憶は、三人の中に一生消えずに残る。……非現実的な現象で再会した兄妹を前にして、両親は一体どんな想いで過ごすと思う? ふとした瞬間に思い出してしまうだろう?あの『事実』を。目の前の二人は、本来は死んでいるはずなんだってことをよ。……つまり、『生きている死人』を見守り続けなきゃならない矛盾に、日常的に晒されることになるんだぜ」
「……」
「それは奇跡なんて呼べるものじゃない。――一種の呪いだとは思わないか?」
悠人側の蓮は頷かなかったが、その瞳には微かな揺らぎが生じていた。彼自身、心のどこかで同じことを危惧していたからだ。
「……それでも、」悠人側の蓮は言った。「俺は彼らの選択を支持する。やっぱり、三人で一緒にいられることのほうが、価値が大きいと思う」
「難しいな……」蒼大側の蓮が後頭部を掻いた。「同じ橋本蓮のはずなのに、なかなか意見が合わない」
「同感だよ」
「置かれた環境が違うからな」芽生側の蓮が言った。「お前だって、もし俺や次男の方の立場だったら、俺たちと同じ意見だったかもしれない。逆に俺だって、失うものがない環境だったら、お前のようなスタンスだったかもしれない」
「……かもな」
「だから、俺はこの世界の俺が何を言おうと、意志を曲げるつもりはない」
芽生側の蓮は、語気を強めて言い放った。
「もし、どうしても芽生がここに残るって言うなら――俺もこの世界に残る」
「はあ!?!?」
悠人側と蒼大側の蓮が同時に目を見開くと、芽生側の蓮は決然とした表情で言葉を継いだ。
「……俺は本気だよ。芽生のためなら、命を懸けることだって厭わない。別の次元に移り住むくらいのリスク、いくらでも引き受けてやる」
「参ったな……」
悠人側の蓮は腕を組み、皮肉めいた苦笑を浮かべた。
「これは不味い。こいつは本気だ。絶対本気だよ」
「言っただろ。やる気満々だって」
「こうなったら、まあ、仕方ない」
悠人側はついに、お手上げだと言わんばかりに両手を挙げてみせた。
「わかったよ。俺も協力する」
「……本当か?」
「ああ。俺の世界に『俺』が二人もいるなんて事態は、何としても避けたいからな」
「そうこなくっちゃ」芽生側が得意げに笑う。「やっぱ自分のこととなると態度がガラッと変わるよな。なんて打算的な奴なんだ」
「お前……」蒼大側が呆れたように呟いた。「その言葉、そっくりそのまま自分に返ってるぞ」
こうして奇妙な「独り言」の応酬を終えた橋本たちは、その日はひとまず家で待機することにした。
やがて両親が帰宅したが、幸い息子の部屋に立ち入ることはなく、無事に一晩を過ごすことができた。とはいえ、声を出しすぎて露見するのを恐れ、雑談は最低限に留められた。三者三様の思惑を抱えたまま、夜は静かに更けていった。