ずっと幼馴染だったからこそ、恋愛関係になれば色々と苦労するのではないかと紬は案じていたが、それは杞憂に終わった。
いざデートをしてみれば、緊張することもなくただ楽しかった。手を繋いで歩くことも、「好きだ」と言ってもらえることも、何の抵抗もなく受け入れられた。
互いの目をじっと見つめ合っていても、気まずさなんて微塵も感じない。紬は、幼馴染だった頃よりもずっと、奏汰のことが好きになった。
学校で一日中一緒にいるというのに、放課後に別れるのが名残惜しくて仕方がない。学校のない休日には、早く会いたくて溜息ばかりが出る。これほどまで誰かを好きになるとは思わなかった。自分でも不思議なほどだった。
紬はどうにかして、少しでも長く奏汰と一緒にいたいと願った。それは奏汰も同じだった。
だから二人は、夢の中でも会うことにした。
明晰夢を見られるようになって以来、紬は奏汰と近い距離で眠っているとき、いつでも二人だけの共有夢を見ることができた。もし同じマンションの上下階のように近くに住んでいれば、毎晩夢の中で会うこともできただろう。けれど、家が遠い彼らにはそれが叶わない。
そこで二人は、学校にいる時間を利用することにした。
あまりのめり込みすぎないよう、夢の逢瀬は数学の時間だけに限定した。結果として、二人が共有する夢の時間は、一日わずか十分程度だった。
「ところでさ。ここ、正確には奏汰の夢なんだよね?」
夢の中で、紬は教室の窓の外に広がる景色を眺めながら尋ねた。
「うん。たぶんね」
「それって、つまりどういうこと? 私が奏汰の夢の中にお邪魔してるってことなのかな」
「そうだと思う。ネットに例えるなら、俺の夢がサーバーで、そこに紬がクライアントとしてログインしてきた、みたいな感じじゃないかな」
「ふーん……」
直感的に理解できる説明ではなかったが、言わんとすることは分かった。紬はさらに問いを重ねる。
「じゃあ、ここは全部奏汰が『造った』場所なの?」
「うん。最初はただの何もない空間だったけど、全部俺が構築したんだ。外の景色はただの背景みたいなものだから簡単だったけど、学校は細部まで再現しようとしたから、結構苦労したよ」
「すごいね。現実と区別がつかないくらいよく出来てるじゃない」
「そうでもないよ」
奏汰は窓の外の、遠くの方を指差した。
「よく見るとデタラメも多い。そもそも俺に必要なのはこの教室だけだったから、ここから目が届かない場所は適当に流してる。ほら、あそこ。あの校舎の裏側、テクスチャが剥がれて真っ白だろう?」
紬は奏汰の指す方を凝視してみた。すると確かに、遠く離れた場所は質の低いCGのようにボヤけていたり、果てのないグリッド模様のような無機質な質感で処理されていたりした。
「あ、本当だ」紬は続けて訊いた。「じゃあ、ここ以外に造った場所はないの?」
「ないよ。ここだけ」
「なんで? せっかくだし、有名な観光地とか遊園地とか……現実にはないファンタジーな世界とか造ったら面白そうなのに」
「夢だからって何でも無限にできるわけじゃないんだ。明晰夢って、普通の睡眠と違って脳がかなり疲れるんだよ。だから規模を大きくしすぎるのは、維持するだけでも相当難しい」
「そうなんだ……」
紬が考え込んでいると、奏汰が提案するように言った。
「何なら、ここを書き換えて新しい場所を造ってみるか? 紬の言う通り、遊園地みたいなやつをさ」
「書き換える?」
紬はあたりを見回して首を振った。
「いや、それはやめよう。せっかく奏汰が一生懸命造ったんだから、もったいないじゃん。それより、ここをもっと『豊か』にしようよ」
「……豊かに?」
「うん。これだけだとちょっと退屈というか、動くものが何もないから殺風景でしょう?」
「まあ、そうだけど……。でも俺、動くものを作るのは苦手なんだよな」
「そう? じゃあ、私がやってみようか?」
「お、やってみる?」奏汰は頷いた。「まあ、紬も今は一人のユーザーとしてこの夢に参加してるわけだし、可能かもしれないな。よし、とりあえず作り方を教えるよ。そんなに難しくない。頭の中で想像したものを――」
しかし、奏汰の説明は途中で遮られた。彼が教えるよりも早く、紬がすでに『何か』を顕現させたからだ。
「そこの二人!」
二人はビクッとして声の方を振り返った。黒板の前に、数学の教師が立っていた。
教師は二人を鋭く睨みつけながら言い放つ。
「そこで突っ立って何をしている。さっさと席に着きなさい」
「…………」
紬が周囲を見回すと、現れたのは教師だけではなかった。空っぽだったはずの教室はいつの間にかクラスメイトたちで埋め尽くされ、そこには日常の、ありふれた授業風景が広がっていた。
「奏汰」紬は念のため、耳打ちするように尋ねた。「私たち、もしかして夢から覚めちゃった?」
「……いや」
奏汰は困惑した様子で教室を見渡し、ゆっくりと首を横に振った。
「まだ夢の中だ。……驚いたな。これ、紬がやったのか?」
「うん……。たぶん、そうみたい」
紬自身も驚いていた。こんなに簡単にできるとは思わなかったからだ。
「どうやったんだ?」
「別に、ただいつもの教室の光景を思い浮かべただけなんだけど……。そしたら急に現れた」
「おい、君たち二人!」
数学の教師が再び声を張り上げた。
「俺の声が聞こえないのか。授業中だぞ!正気かお前ら」
「……相互作用まで、かなりリアルだ」
奏汰は感嘆の声を漏らした。
「ただの案山子じゃなくて、ちゃんと状況を把握して対応してる。これほどのクオリティで具現化できるなんて……。すごいよ紬、もしかして明晰夢の才能があるんじゃないか?」
紬は照れくさそうに笑った。「才能って呼べるの?これ」
「他には?」奏汰が興奮気味に続けた。「他にも作れるんじゃないか? 例えば、変身したりとか、空を飛んだりとか」
「空を飛ぶ? ……ちょっとやってみようかな」
紬は窓の外をちらりと見て、そのまま窓枠にひょいと片足をかけた。
「ちょ、ちょっと待て!」
奏汰が慌てて止める。
「練習なしでいきなりはまずいだろ。落ちたらどうするんだよ。夢の中とはいえ、物理的な衝撃が加わると普通に痛いんだぞ」
「えっ、そうなの? 痛いのは嫌だなぁ。……でも、何となくできそうな気がするんだけど」
「それでも無理はしないで。せめて安全な場所で練習してから……あっ、紬!」
奏汰の制止も聞かず、紬は三階の窓から迷わず身を投げた。奏汰を含め、教室中の生徒たちから悲鳴が上がる。紬はその声を背に受けながら、ただ「浮く」ことだけに意識を研ぎ澄ませた。
すると、落下していた体がぴたりと空中で静止した。紬は恐る恐る閉じていた目を開ける。
自分の体が、宙に浮いていた。
完全な無重力を手に入れた紬は、空中でくるりと身を翻し、教室の方を振り返った。クラスメイトたちは全員が席を立ち、紬の安否を確認しようと窓辺に鈴なりになっていた。
「紬!」
奏汰が窓から身を乗り出し、必死に手を差し伸べている。
紬は彼に向かって、空気を掻くようにゆっくりと泳いでみた。体は柔らかく上昇を始め、やがて教室の窓際までたどり着いた。
「……できた」
紬はぽつりと呟いた。
いくら夢の中とはいえ、言葉にできないほどの恍惚感が全身を包み込む。この高揚感を自分一人で独占するのはもったいない。
紬は奏汰が差し出していた手を力強く握り、そのまま外へと誘うように引っ張った。
奏汰は一瞬たじろいだが、意を決したように窓枠に足をかけ、空中へとジャンプした。紬は繋いだ手をさらにぎゅっと握りしめる。一時は二人の体重で高度が下がったが、すぐにコツを掴み、奏汰ごと宙に浮かせることに成功した。
クラスメイトたちの驚嘆の声を背に、紬は奏汰を連れて本格的に空高く舞い上がった。学校が小さくなり、やがて町全体が一望できるほどの高度まで上がり続ける。
空から俯瞰すると、ここが夢の世界であることが如実に見て取れた。学校を中心に再現されているのはほんの一区画に過ぎず、その周囲にはただ広大な空白が、どこまでも延々と横たわっていた。
非現実の極致。
痺れるような虚無感に、紬はしばらく圧倒された。
「……まるで、無限に広がるキャンバスみたい」
紬はゆったりと思考を巡らせ、夢の世界を描き込み始めた。
まずは空を鮮やかな青に染め上げ、手近なところに綿雲を散らす。それだけではただの静止画のようだったので、大気に動きを与えてみた。すると、どこからか心地よいそよ風が吹き抜け、紬の髪を優しく撫でていった。
ふいに頭上に強い熱気を感じて見上げると、太陽が中天に掛かっていた。眩しさに目を細め、今度は足元に広がる景色に視線を落とす。
そこには、一つの街どころか、巨大な都市圏が造り上げられていた。
「……すごい」
奏汰が眼下の情景を眺め、我を忘れたように呟いた。
「すごすぎるよ、紬。飛行機から見る景色そのものだ。見て、道路を車が走ってる!」
紬もまた、自分の成し遂げた光景に言葉を失っていた。
「もっと近くで見てみよう」
二人は高度を下げ、街並みをなぞるように飛行し始めた。
あまりにも精緻に描かれた世界に、再び現実と混同しそうになる。空を飛んでいるという事実だけが、辛うじてここが夢であることを繋ぎ止めていた。
横をかすめていく鳥たちのさえずり、道路を走る車の走行音、遠くで響く電車の音。日常的な喧騒が、何の違和感もなく耳に流れ込んでくる。
太陽の光を反射するビル群の窓が宝石のように輝き、オフィスの中で働いている人々が、窓の外の紬たちを呆然と見つめている姿まで見えた。
さらに高度を下げ、道を歩く人々を観察する。
彼らは空を飛ぶ二人を見上げると、次々にスマホを取り出して撮影に夢中になった。紬は彼らに向かって笑顔でピースサインを送ってみせた。
そうして時間の経つのも忘れて空の旅を楽しんでいるうちに、やがて海が見える地の果てに辿り着いた。紬はどこまでも続くエメラルドグリーンの海を見下ろしながら、ゆっくりと地上へ降りていく。
二人は防波堤の端に並んで腰を下ろし、しばらく羽を休めた。
潮風が心地よく、波の音は清々しい。
のんびりとした気分になり、このまま横になれば二重の夢でも見られそうだった。そんなことをぼんやりと考えていると、不意に奏汰が声をかけてきた。
「紬。キス、してもいい?」
紬は顔を向け、彼を見つめた。奏汰は夢の中で告白の練習をしていたときのような、ひどく緊張した表情を浮かべていた。
「まだ、現実でもしてないのに?」
紬が少し意地悪く返すと、奏汰は真っ直ぐに頷いた。
「だからだよ。夢の中でのファーストキス。特別だと思わないか?」
「……」
紬は返事の代わりにくすりと笑い、ゆっくりと目を閉じた。
そして、奏汰の唇が、彼女の唇にそっと重なった。
その後、二人は夢から覚めた。
辺りを見回すと、教室は相変わらず授業の最中だった。けれどすぐにチャイムが鳴り、休み時間がやってきた。
「……なんでだろう」奏汰が時計を見ながら呟いた。「俺たちが眠りについてから、十分くらいしか経ってない」
「十分?」紬は首を傾げた。「嘘でしょ。私たち、少なくとも二時間はあそこにいたよね? 体感的にはそれくらい長く感じたんだけど」
「マジか……」奏汰が舌を巻いた。「紬、もしかして空間だけじゃなくて、時間まで操作したのか?」
「え、そうなの? 分からない。私はただ、もう少し長く一緒にいたいと思っただけで……」
「ざっと計算すると、夢の中の時間は現実より十倍は遅く流れていたみたいだ」
「そうなんだ……」
現実の状況を把握すると、二人の間に自然と沈黙が訪れた。
先ほどまで見ていた夢の余韻が、あまりに鮮烈に残っていたからだ。キスをしながら聞いた穏やかな波の音が、現実までついてきて耳元で微かに響いているような気がした。
紬は天井を見上げながら、囁くように呟いた。
「……最高の十分間だった。一生忘れないと思う」
奏汰も同じ場所を見上げながら答えた。「俺もだよ」
しばらくして、紬は席を立とうとした。
そのまま歩き出そうとした瞬間、不意に足の力が抜けてよろけてしまう。抗う間もなく前へ倒れそうになったが、奏汰が素早く駆け寄り、彼女の腕を掴んだ。
「大丈夫?」
「あ、うん。ありがとう」
紬は奏汰に支えられながら、ゆっくりと立ち直った。奏汰が心配そうに覗き込むと、紬は何事もなかったかのように笑ってみせた。
「大丈夫。ちょっと目眩がしただけ。ずっと同じ姿勢で座っていたからかな」
「それか、さっきの夢のせいかもしれない」
奏汰が言った。
「夢の中でも言ったけど、明晰夢は実質的に半覚醒状態だから、脳に疲労が溜まりやすいんだ。素敵な体験だったけど、次からはあんまり無理しないようにしよう」
紬は苦笑しながら頷いた。
「うん。そうする」