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4


朝、授業が始まる前。  奏汰はまだ空席のままの紬の席を見つめ、小さく溜息をついた。  昨日の出来事が脳裏をよぎる。  夢とはいえ、あの凄絶な出産の光景、特に激痛と戦う紬の姿は、まるで現実の記憶であるかのように生々しく刻まれていた。いや、むしろ現実よりも鮮明にさえ感じられる。  奏汰は得体の知れない不安を紛らわすようにスマホを取り出した。アルテミス計画に関するニュースを検索し、好物の宇宙やロケットの画像を眺めて、意識を無理やり現実に繋ぎ止めようとした。  しかし、登校してきた紬が隣の席に座るなり、彼にこう切り出した。 「早く、あそこに行こう」 「……」 「一時間目は数学でしょ? すぐに寝られるから」  奏汰は黙って彼女の顔を観察した。髪はボサボサで、目はどんよりと濁り、ひどく疲れ切っている。  だが、重そうな瞼の奥に宿る眼光だけは異様なほど鋭く、それが少なからず不気味だった。 「一緒に入るよね?」紬が詰め寄るように尋ねた。「あの夢は、奏汰と一緒じゃなきゃ見られないんだから」  奏汰は迷った末、結局頷いた。「……ああ」  一時間目の授業が始まると、紬は号令を済ませるや否や机に突っ伏した。十秒も経たずに、深い眠りへと落ちていく。  奏汰はやはり止めるべきではないかと葛藤した。  あの赤ん坊ともう一度向き合う自信がなかった。忌まわしい、拭いきれない予感が胸をざわつかせる。  だが、紬を「あの場所」に一人にしておくわけにはいかなかった。奏汰はやがて、彼女を追うように夢の中へと潜り込んだ。


 二人は学校を出ると、一目散に紬の家へ向かった。そして、あの子がいる部屋のドアの前に立つ。奏汰は緊張のあまり、無意識に唾を飲み込んだ。  ドアの向こうから、子供の泣き声が漏れ聞こえてくる。  やがて紬が意を決してドアを開けた瞬間、奏汰はびっくりして後ずさりした。  開かれたドアの向こうから、大量の水が濁流となって溢れ出してきたのだ。  奏汰はなす術もなく、下半身まで一気に飲み込まれた。立っているのがやっとの勢いで、流されないよう必死に壁にしがみつく。  紬も転倒しそうになるのを、奏汰が支えてどうにか食い止めた。そのまま、荒れ狂う部屋の奥を凝視する。  部屋の中は、完全に水没していた。  水が廊下へと流れ出たことで水位は膝あたりまで下がったが、ドアが閉まっていた時はおそらく腰の高さまで満ちていたのだろう。室内は無残に荒れ果て、家具や小物が水面にぷかぷかと漂っていた。  そして、その洪水の中心に、あの子がいた。  部屋から水が引くと、二人はすぐに中へ踏み込んだ。  紬は袖で顔の飛沫を乱暴に拭い、ベビーベッドへと駆け寄る。奏汰は無残に荒れ果てた室内を見渡し、呆然と呟いた。 「一体……どうなってんだ、これ」 「……涙だよ」紬が答えた。「この子が流した涙」  紬は赤ん坊をそっと抱き上げた。今にも泣き出しそうな、それでいて深い慈しみを湛えた顔で言葉を継ぐ。 「私たちが出ていってから、ずっと一人でここに閉じ込められて泣いていたんだよ。私たちが戻ってくるまで、ずっと……」 「え、じゃあ……」奏汰が聞き返した。「赤ちゃんが一晩中流した涙が、部屋を埋め尽くしたっていうのか?」 「一晩じゃない。夢の中は時間の流れが遅いから、何日も絶え間なく泣き続けていたんだと思う」  紬の表情が苦悶に歪む。あまりに凄絶な現実に、彼女の心は完全に叩き折られていた。 「ごめんね……」  紬は腕の中の赤ん坊をあやし、宥めるように囁いた。 「怖かったよね。寂しかったよね。ごめんね、本当にごめんね……」  奏汰は赤ん坊を見つめる紬の瞳を見て、直感した。昨日まであった戸惑いや迷いは消え去り、そこにはもう確固たる、盲目的なまでの愛情が宿っている。 「……夢じゃなければ、よかったのに」  紬は絶望を孕んだ声で呟くと、奏汰を真っ直ぐに見つめ、宣言した。 「奏汰。私、この子を育てる」  奏汰は湧き上がる苛立ちを抑え、確認するように尋ねた。 「……うん、わかった。それってつまり、夢と現実を行き来して、面倒を見るってことだろ?」 「違う」  紬は短く首を振った。それ以上の言葉を拒む彼女に、奏汰はついに声を荒らげた。 「それじゃ、どうするつもりなんだよ! まさかずっとここに残る気か?」 「……」  紬の沈黙が、肯定を意味していた。  奏汰は力なく項垂れ、再び顔を上げると絞り出すように言った。 「紬、昨日も言ったけど、ここは……」 「分かってるよ!」  紬も声を張り上げた。 「ここが夢だってことくらい、私が一番分かってる。自分で作った世界なんだから。でも……」 「でも、何だよ」 「この子は、作られたんじゃない。生まれたの!」  奏汰は額に手を当て、深い溜息を吐いた。 「紬」  奏汰は諭すように言った。 「君の夢を操る才能は異常だよ。他の明晰夢を見る人はどんなレベルか知らないけど、とにかく紬は群を抜いてる。それほど自在に世界を扱えれば、退屈な現実より夢に没頭したくなるのも当然さ。……けど、まさかこんな風に呑み込まれるなんて思わなかった」 「は?」紬の瞳に、明確な敵意が宿った。「何が言いたいわけ?」 「もう、明晰夢を見るのはやめよう」 「嫌だ」 「お願いだから、もうやめよう。俺たち最初に約束しただろ?現実に支障が出たらすぐにやめるって」 「そんな約束、した覚えはない」 「紬、目を覚ませ! この子は偽物なんだ!」 「偽物じゃない‼」  奏汰の叫びを、紬のさらなる絶叫がねじ伏せた。 「この子は、本物だよ。実体がないと本物にはなれないっていうの? 誰が決めたのよ、そんなこと。現実に存在しなくたって、『重さ』を持つことはできる」 「……」 「私は決めたの。この子は私の子。私は、この子を育てる」  二人の間に、重苦しい沈黙が流れた。  その間も赤ん坊は泣き止み、腫らした目でひたすら紬のことだけを見上げていた。 「……わかった」奏汰は吐き捨てた。「勝手にしてくれ。俺はもう、二度とここには入らないからな」  一応は虚勢を張ってみたが、紬は眉一つ動かさず、ただ赤ん坊を見つめ続けていた。もはや奏汰の存在など、彼女の視界には入っていないようだった。  不安に駆られた奏汰は、追い縋るように言った。 「でも、授業が終わるまでには戻ってこいよ。いいか? まさか本気でずっとここに残れるなんて思ってないよな?」  しかし、紬は透明人間を相手にしているかのように口を閉ざしたままだった。  憤りに耐えかねた奏汰は、そのまま背を向けて部屋を飛び出した。紬は彼を引き留めるどころか、見向きもしなかった。  外へ出た奏汰は、紬の家を一度だけ一瞥し、独り学校へと引き返した。


 夢から覚めて隣の席を見ると、紬は変わらず机に突っ伏していた。  最初は無理矢理にでも揺り起こそうかと思ったが、思い直した。いくら夢に憑りつかれているとはいえ、時間が経てば自ずと目が覚める程度の理性はあるはずだ。そう信じるしかなかった。  だが、三十分が経過しても、紬は起きるどころか微動だにしなかった。  ついには痺れを切らした教師が、二人を指差して言った。 「おい、そこ。さすがに寝すぎだぞ。さっさと起こせ」  奏汰はすぐに紬の肩を掴んで揺さぶり始めた。  それでも、紬は起きない。  どれほど強く揺さぶっても、耳元で名前を繰り返し呼んでも、頬を叩いてみても、無駄だった。  彼女はまるで死体のように、ただ揺さぶられるがままに揺れるだけだった。 「……気を失ってるの?」  誰かのその言葉を聞いた瞬間、奏汰の背筋に冷たいものが走った。  紬の親しい友人が真っ先に立ち上がって駆け寄り、教室中が一気に騒然となる。  教師が慌ててスマホを取り出し、指示を飛ばした。 「今、救急車を呼ぶ! とりあえず保健室へ……」  その言葉が終わるよりも早く、奏汰は紬を背負って保健室へと走り出していた。  運び込むなり、授業中に眠ったまま意識を失ったと養護教諭に説明する。  教諭が紬の容態を確認したが、呼吸が極めて弱く、自力で目を覚ませる状態ではないという診断だった。  ほどなくして救急車が到着し、紬は担架で運び出された。奏汰も強引に乗り込んだ。教師たちは止めようとしたが、土下座せんばかりの勢いで懇願する彼を、最後には黙認するしかなかった。


 紬は救急外来へと運ばれ、すぐに医師や看護師たちに囲まれた。  幸い外傷はなく、呼吸が弱まっている以外に目立った異常は見られなかったため、酸素マスクと点滴の処置が取られたところで一旦の落ち着きを見せた。  後に医師が、奏汰に当時の状況を詳しく尋ねてきた。奏汰はどうしても「夢」のことは言い出せず、居眠りしている最中に突然昏睡状態に陥った、という説明を繰り返すしかなかった。  やがて紬の両親が病院に駆けつけ、彼女は個室へと移された。  奏汰は両親と共に検査結果を待った。医師の所見では、命に別状はないものの、依然として昏睡状態にあり、いつ意識が戻るか見当がつかないため、時間をかけて経過を追う必要があるとのことだった。  状況が落ち着くと、紬の父は仕事に戻り、母が付き添うことになった。彼女は、娘のそばを離れようとしない奏汰を追い返そうとはしなかった。彼が娘の恋人であるという事実は、周知のことだったらしい。  奏汰は学校へ早退の連絡を入れると、静まり返った病室でしばらく紬の傍らにいた。そして紬の母が中座した隙に、ベッドの端にうつ伏せになり、意識を「明晰夢」へと向けた。  長く滞在するつもりはなかった。紬が作った夢の中では時間の流れが緩やかだ。一、二分もあれば、彼女を連れ出せるはず。奏汰は間もなく、深い眠りに落ちた。


 夢の世界に降り立った奏汰は、迷わず紬の家へと向かった。  庭付きの一軒家。門扉は閉ざされている。  奏汰は塀を乗り越えて裏庭から玄関へと回り込んだ。施錠されていれば窓を割ってでも入るつもりだったが、ドアは無防備に開いていた。  奏汰は周囲を警戒しながら、家の中へと踏み入った。  リビングは静まり返っていた。  床に置かれた大きなスーツケースが目に付いたが、人の気配はない。奏汰はそのまま階段を駆け上がり、紬の部屋の前に立った。  一度ノックをしたが、返事はない。  奏汰は汗ばんだ手でドアノブを握り、ゆっくりと扉を開けた。  そこには、床に座って優しく手招きをする紬の姿があった。そして、彼女に向かってよちよちと歩み寄る赤ん坊の後ろ姿。  綱渡りのように危なっかしい足取りだったが、赤ん坊は誰の助けも借りず、独りで歩いていた。  体格も、朝に見かけたときより遥かに成長している。紬が現実で病院に運ばれている間に、この夢の中ではすでに、赤ん坊が歩き出すほどの月日が流れてしまったようだった。  奏汰は眩暈にも似た感覚を覚えながら、慎重に声をかけた。 「……これ、紬がやったの?」  紬は視線さえ向けずに答えた。「何を?」 「赤ちゃんが、もう歩いてる。どういうことだよ」 「赤ちゃんって……。離婚したからって、自分の子供の名前まで忘れちゃったの?」 「……離婚?」 「あなたの荷物は全部まとめてリビングに置いてあるわ。今すぐ持って行って。今日から裁判所の接近禁止命令が出ているんだから、二度と『私たち』に近づかないで」 「……」  奏汰は開いた口が塞がらなかった。  絶句して立ち尽くしていると、ようやく紬が違和感を覚えたのか、冷ややかな視線を彼に投げた。 「何ぼーっとしてるのよ」紬は吐き捨てるように言った。「聞こえなかった? 早く出て行ってって言ってるの」 「紬、まさか……」  奏汰は、自分の疑念が間違いであることを願いながら尋ねた。 「自分の記憶まで、書き換えたのか?」 「……はあ?」  今度は紬が呆気に取られたような顔をした。本当に何を言われているのか分からない、という反応だった。  奏汰は地団駄を踏みたい衝動を抑え、声を張り上げた。 「ここは夢の中なんだよ! 紬、思い出せ!」  紬の顔から困惑が消え、たちまち恐怖に近い表情へと変わる。  彼女は赤ん坊を自分の方へ引き寄せながら、怯えたように言った。 「奏汰……大丈夫? 今のあなた、ちょっと怖い。もしかしてお酒でも飲んでるの?」  もはや言葉が通じる相手ではない。それでも、奏汰は必死に説明を続けた。 「紬、聞け。ここは夢なんだ。現実の俺たちはまだ高校生で、付き合ってはいるけど結婚なんてしてない。それに紬、君は今、現実で昏睡状態になってるんだよ。病院で酸素マスクまでつけて……。だから、俺と一緒に今すぐここを出よう。な?お願いだから……」  奏汰が近づこうとすると、紬は怯えたように身を縮めた。そして、震える手でポケットからスマホを取り出す。 「来ないで……」紬の声は掠れていた。「それ以上近づいたら、警察を呼ぶから」 「だから……」奏汰は縋るように訴えた。「ここは夢なんだって!」  紬の腕に抱かれた赤ん坊が、ぐずり始めた。紬は赤ん坊をあやすふりをしながら、密かに画面に番号を入力している。  奏汰は一瞬躊躇したが、以前、電話をかけた直後に救急車がやってきたことを思い出し、強引に距離を詰めた。  スマホを奪い取ろうと手を伸ばすと、紬が鋭い悲鳴を上げる。その声に呼応するように、赤ん坊が火がついたような声を上げて泣き出した。  奏汰は結局、それ以上踏み込むことができなかった。彼は壁に背を預け、互いを抱き合って震える二人をじっと見下ろした。  何度も、何度も首を横に振る。もはや言葉を尽くしても無駄だった。  ――無理やりにでも、引き剥がすしかない。  奏汰は一度部屋を出て、一階のキッチンへと向かった。そこで包丁を手に取り、再び二階の紬の部屋へと戻った。 「……っ」  奏汰が握る刃物を見た瞬間、紬の顔から血の気が引いた。  彼女が赤ん坊を強く抱きしめすぎたせいか、一度止みかけていた泣き声が再び激しさを増す。 「……言い忘れていたことがあるんだ」  奏汰は自分に言い聞かせるように言った。 「夢から覚める方法が、もう一つある。夢の中で『死ねば』いい」 「奏汰、お願い……」紬が掠れた声で懇願する。「やめて、お願いだから……」 「ごめん。俺だってこんなことしたくない。でも、紬を救うためなんだ」  奏汰は紬のそばに膝をついた。逃げ出すかと思ったが、紬はただ震えながら座り込んでいる。恐怖で体が動かなくなっているようだった。それでも、赤ん坊を庇うように背中を丸め、必死に守ろうとしている。  奏汰は包丁を両手で握り締め、丸まった彼女の背中を見つめた。 「……」  どうしても、振り下ろす勇気が出ない。  たとえ夢だと分かっていても、その感触は記憶に残るだろう。  彼女を傷つけるという事実、そしてこれから先の関係が修復不可能になるかもしれないという恐怖が、彼の身体を凍りつかせた。  だが、彼は必死に理性を繋ぎ止めた。何よりも優先すべきは、現実の紬の命だ。  奏汰は目を固く閉じ、奥歯を噛み締めて腕を動かした。しかし、刃先が彼女に届く直前、背後から何者かに襟首を掴まれ、強引に引き倒された。同時にもう一人の誰かが、奏汰の手から包丁をもぎ取った。  通報を受けた警官たちが、すでに部屋へ踏み込んできたのだ。  床に組み伏せられながら、奏汰は横目で状況を確認した。自分を抑え込む警官の腰元に、拳銃が差さっているのが見える。  奏汰は一瞬の隙を突き、馬乗りになっていた警官を跳ね除けると、その拳銃を奪い取った。そして、飛びかかろうとする別の警官へ素早く銃口を向けた。 「……銃を下ろせ!」  警官たちは一斉に銃を抜き、奏汰を包囲した。相手は三人。勝ち目など万に一つもない。だが、彼の目的は最初から一つだけだった。  奏汰は紬を狙い、引き金を引いた。 「……っ!」  弾が出ない。引き金が異様に重い。  奏汰は一拍遅れて、安全装置がかかっていることに気づいた。焦燥に駆られながら装置を解除し、再び銃口を向けようとしたその瞬間、正面から複数の銃声が響き渡った。


 奏汰は断末魔のような叫びとともに、目を見開いた。  飛び起きて周囲を見回し、ようやくここが現実の病室であることを知る。夢の中で射殺された衝撃が、まだ身体に残っていた。震える手で額の冷や汗を拭い、彼はハッとして隣に視線を移した。  紬のバイタルを示すモニターから、けたたましい警告音が鳴り響いていた。  酸素マスクをつけた紬の呼吸が、目に見えて荒くなっている。奏汰が医者を呼びに行こうとした矢先、医療スタッフたちがなだれ込んできた。奏汰は弾き出されるように病室の外へ出された。  廊下で、ちょうど戻ってきた紬の母親と鉢合わせる。紬の容態が急変したことを告げると、彼女はその場にへたり込んでしまった。  奏汰は彼女を支えて椅子に座らせ、自分も隣で祈るように結果を待った。  しばらくして、病室から医師が出てきた。幸い、紬は一命を取り留めた。  呼吸は安定したが、脳の状態は依然として芳しくない――医師の説明をぼんやりと聞き流しながら、奏汰は夢の中の二人を思い出していた。  よちよちと歩く赤ん坊と、それを見守っていた紬の姿を。  大人びて見えるほど慈愛に満ち、どこまでも幸せそうだったあの顔。奏汰には一度も見せたことのない表情だった。  赤ん坊を産んで、たった一日。彼女は奏汰の知っている少女とは全く別の「誰か」に変貌していた。  紬は、本当の意味で、あの赤ん坊の母親になってしまったのだ。