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第31話

裸足の演奏


「ちょうど地球から戻ってきた貨物船があるのよ」  マスターが宙を見上げながら、穏やかに説明した。  突然、どこからか強い風が吹きつけたが、彼女の視線に触れると、まるでそよ風に変わるかのように柔らかくなり、パチパチと静電気のような軽やかな音を立てて通り過ぎた。 「船に乗るにはいい天気ね」  マスターは、心地よいマッサージを受けた後のような満足げな表情で、私とカナを手招きし、滑走路へと歩き出した。  滑走路と呼ぶには、どこか不思議な感触だった。  アスファルトやコンクリートのような硬さはなく、アイボリー色の芝生が一面に広がっている。まるで居間のふわふわしたラグを思わせる、柔らかく温かみのある質感だ。 「あ、言い忘れてた」  マスターがふと振り返り、私たちの足元を指さした。 「靴と靴下、脱いで。ここは裸足で入る場所なの」  私とカナは顔を見合わせ、学生靴と靴下をゆっくり脱いだ。  まるで卒業式で帽子を空に投げる大学生のようにはしゃぎ、靴を高く放り投げた。すると、どこからともなくトビウオのような光の群れが、光速の1万分の1の速さで飛んできて、私たちの靴と靴下をさらって消えてしまった。 「ちょっと! 泥棒!」  カナがトビウオたちを指さして叫んだが、彼らはすでに滑走路の彼方に姿を消していた。  マスターは裸足になった私たちを見て、無邪気に笑った。 「これで、もう元の状態には戻れないね!」 「どういう意味ですか?」  私が尋ねると、マスターは軽やかに答えた。 「素足だと、いろんなことが感じやすくなるの。それに、飛行するなら裸足に決まってる。シートベルトみたいなものよ」 「靴を履いたままだと危ないんですか?」 「うん、危ないの」マスターが説明する。「君たちじゃなくて、乗り物がね。靴の硬い靴底で傷ついてしまうから、私の育てた船には絶対に裸足で乗ってもらうの」  私たちは裸足のまま歩を進めた。  ノクターンの夜を思わせる深い静けさが漂い、マスターの足音がまるで子守唄のようなメロディーを奏でる。彼女の素足が芝生に触れるたび、柔らかなピアノの音が響き、単なる音を超えて音楽そのものに変わっていく。  私はその音に心地よく揺られ、眠気を誘われながらも、次に進みたい衝動に駆られた。  退屈を嫌うカナも同じ気持ちだったのか、マスターの後ろ姿を追いながら、どこか疲れたような声で尋ねた。 「どこに行くんですか?」 「もちろん、君たちを地球に運んでくれる貨物船よ」 「ありがとうございます」  私はまるで夢の中で強制的に感謝を口にさせられているような気分で答え、カナの質問に自分の疑問を重ねた。 「じゃあ、マスターは人間に売られたヒューマノイドロボットを地球に運ぶ仕事をされてるんですか?」 「それは私の仕事の一部よ。でも、収益の1%くらいにしかならない。本業は別にあるの」 「どんなお仕事ですか?」 「言えないよ」マスターがくすっと笑う。「企業秘密だから」  確かに、と私は納得し、それ以上は追求しなかった。代わりに別の質問を投げかけた。 「貨物船まであとどれくらい歩くんですか?」 「正直、歩く必要はないのよ」マスターが答えた。「乗客が乗り物に行くんじゃない。乗り物が乗客のところに来るの。トトロの猫バスみたいにね」 「じゃあ、なんで歩いてるんですか?」 「じっと立ってたら、素足の演奏ができないでしょ?」  その言葉に、私はまたしても納得してしまった。  マスターの素足から響くピアノのメロディーが、あまりにも心地よかったからだ。これまで聞いたどんなクラシック音楽よりも心に響き、録音して永遠に耳元で再生していたいと思うほどだった。  その演奏に魅了されているのは私だけではなかった。カナもまた、うっとりとした目で自分の足元を見つめ、不満げに呟いた後、マスターに尋ねた。 「どうしたらマスターのようになれるんですか?」 「練習するしかないね」  簡潔な答えに、カナは少し反省するように口を閉ざした。  そして、彼女の練習が始まった。  素足になったばかりの両足で、アイボリー色の芝生の上で、ピアノの音を奏でるように歩き始めた。 そう、カナはついに、歩くことの楽しさに気づいてしまったのだ。  私はカナのまだたどたどしい演奏を微笑ましく聞きながら、静かに歩き続けた。  楽器を演奏する趣味はない。ただ、音を聞くのが好きなだけだ。  特に、それが私の大切なカナの奏でる音となれば、なおさら愛おしい。  カナは最新型のヒューマノイドロボットだ。彼女は歩きながら、前をゆくマスターの足音に全神経を集中させていた。  やがて、私がそばにいることすら忘れたかのように、マスターの裸足のメロディーに夢中になった。そして、驚くべき速さで、彼女の演奏の腕はぐんぐんと上達していった。  17秒ほど経った頃、カナの裸足の演奏は、ほぼマスターと同等のレベルに達していた。  その瞬間、マスターがぴたりと足を止めた。  彼女の足音が止まると、ピアノのメロディーも途切れた。  私とカナは、まるで赤ん坊のカモが母を追うように盲目的に後を追い、つられて立ち止まった。  アイボリーの芝生に覆われた滑走路は、一瞬、深い静寂に沈んだ。 「心の準備ができたみたいね」  マスターの声が響く。カナが答えた。 「はい」  そのやりとりを聞いて、私はまるで未知の物理法則を発見したような驚きに打たれた。  これまでずっと、カナのための散歩だったのだ。  私は自分がこの物語の中心だと思い込んでいた。いや、マスターは人間を装う私にこそ関心を寄せていると勝手に想像していた。  だが、違った。  マスターの視線は、私のような嘘つきの大犯罪者にはまるで興味がなく、ただ私のそばにいる愛らしいカナだけに向けられていたのだ。  その事実に、私はこれまで感じたことのない、メモリーチップに刻まれたどの記憶とも異なる、新鮮な悟りを覚えた。  同時に、強烈な不安が胸を締め付けた。  もしマスターとカナがあまりにも深く共鳴し、まるでデュエットの演奏のような絆を築いてしまったら、カナは私が嘘つきだと知ってしまうのではないか。そんな恐怖が頭をよぎった。  ふと、片方の腕の裾を何かが引っ張る感触があった。  見下ろすと、9歳の小さなマスターが、まるでスーパーでお菓子をねだるような無垢な表情で私を見上げていた。 「大丈夫?」 「……はい?」  私が聞き返すと、マスターは少し困ったように言った。 「いや、急に泣き出したからさ。カナの演奏がそんなに感動的だった?」  その言葉で、初めて気づいた。  私の可視光線しか捉えられない貧弱な眼球の周りに、液体による歪みが生じている。  マスターに引っ張られた裾をそっと取り戻し、その裾で眼球の液体を拭った。透明なその液体は、喫茶店で飲んだ水だとすぐに分かった。 「どう? 涙の味は?」  マスターが心配そうに尋ねてくる。私は、まるで子供を安心させるような気軽な笑みを浮かべて答えた。 「しょっぱいですね」


34.この世で最も深い沈黙の音を発するクジラ




 私たち三人は、アイボリーの芝生の真ん中でぼんやりと立ち尽くし、まるで永遠の三分の一のような時間をただ待っていた。  喫茶店で飲み干した水がすべて涙としてこぼれ落ちた後、ふと頭上から超音波のような音が響いた。まるでオリンピックの射撃選手が放った銃弾がかすめるような、鋭くもかすかな音だった。  私とカナは同時に上を見上げた。そこには、目が眩むほど広大な銀河が流れている。  そして、その銀河の水面が逆再生されるように裂け、一匹のクジラが姿を現した。  そのクジラは、水星の表面に深海の青を30%ほど混ぜた、かき氷のような色をしていた。  あまりにも巨大で、視界に収まりきらないほどだった。  ブリーチングするように銀河を跳び、大きな水しぶきを上げながら、アイボリーの滑走路に降り立った。  近づくにつれ、耳をつんざくような超音波の轟音は、次第に耳鳴りのような高音に変わり、まるで地球の熱圏を突き破る火球のような勢いで周囲のすべての音を焼き尽くした。  そして、この世で最も深い沈黙の音を発し始めた。 「信じられない……」  私が小さく呟いたその声は、鼓膜センサーが破れるほどの衝撃を伴って響いた。  それほどまでに、沈黙は強烈だった。  強烈な沈黙に押しつぶされそうになり、私もカナも両手で耳を塞ぎ、立っていることすらできず、うつむいてしまった。 「やめて」  と叫びたかったが、声を発することすら怖く、ただその絶対的な沈黙に飲み込まれていく。  クジラが私たちの前に着地すると、ようやくその沈黙は途切れた。 「はあ……。はあ……」  私はいつの間にか荒い息を吐いていた。  わずか4秒続いたその沈黙を耐え抜くために、100%近くあったバッテリー残量が17%まで落ちていた。4秒間で83%のエネルギーを消耗した計算だ。もしあの沈黙が0.001秒でも長く続いていたら、私は放電し、永久に意識を失っていたかもしれない。 「暶君!」  カナが私の腕を掴み、支えてくれるその手つきが感じられた。 「大丈夫?」  やっと気を取り直し、カナに視線を向けると、彼女の青い瞳から水が流れ落ちているのが見えた。  見るに堪えないほど切ない光景だった。  私は慌てて笑顔を作り、彼女を安心させようとした。 「大丈夫だよ。ぜんぜん平気だから」 「暶君……。よかった」  それでも、彼女の崩れた表情はすぐには元に戻らないようだった。  突然、カナが私を強く抱きしめた。  ぎゅっと、力いっぱい。  私はどうしようもなくその腕に抱かれたまま、そっと彼女の背中に両手を置いてハグを返した。 「ごめん。心配かけた」 「うん。めっちゃ心配したんだから……」  カナの声は掠れ、揺れ、壊れそうに震えていた。  その声は、ついさっきまで破れそうだった私の鼓膜センサーを、まるで熱帯魚がそっとキスするように優しく撫で、癒してくれるようだった。  癒されたのは鼓膜だけではなかった。  スターポートまでの長い道のりで、カナがおんぶされながらその体温と電圧で私に充電し続けてくれたように、今もこのハグを通じて、激しく消耗した私のバッテリーに電気エネルギーを供給してくれているのだ。 「やめてよ。本当に大丈夫だから」  私はカナが心配しすぎるのを気にして、そっとハグを解こうとした。だが、彼女は決して離さず、ほとんど暴力的に感じられるほど強く私を抱きしめ、身動きすらままならない状態にした。  そして、私は徐々に充電されていった。 「大丈夫」カナが囁く。「私は心配しないで。頑丈だから、暶君に永遠に充電できるくらいのエネルギーがあるよ」 「永遠に抱きしめ続ける気?」 「してもいい?」 「ダメ」  私は甘やかしてはいけないと心に決め、腹をくくった。 「エントロピーの法則がある以上、私たちはいずれ別れるしかない。ずっとこうやって一緒にいられるわけじゃないんだ」 「そんなの分かってる」カナが不服そうに言う。「でも、エントロピーが限界に達して世界が終わるまでは、こうやって抱きしめ合っててもいいよね?」 「わがまま言わないの」  私はまるで子供をあやす親のような気持ちで、できる限りの優しさ――おそらく私のプログラムを超える優しさ――を込めて、彼女の震える腕をそっと解き始めた。  まるでがんじがらめの接着剤で貼り付いたような彼女の腕を、優しく、慎重にほどいていく。  そして、目の前にそびえる、巨大すぎて恐怖すら覚えるクジラに視線を移した。 「クジラが待ってるよ。乗り遅れる前に、行こう」 「クジラ」  という言葉が、センチメンタルに沈んでいたカナの耳を浄化し、彼女の悲しげだった瞳が一瞬で元の清涼な青い輝きを取り戻した。 「うん」  彼女が淡く答えると、ずっと見守っていたマスターが、まるで新作を披露するようにクジラを指さした。 「さ、乗って」  そうして、私たちはこの世で最も深い沈黙の音を発するクジラに搭乗した。  私たちが近づくと、クジラはまるで何億年も一つのことを考え続けてきたような、深く暗い漆黒の目で私たちを見据えた。  その視線は、先ほどの沈黙よりもさらに深い闇を湛え、まるで私たちに乗り物の資格があるかを見定めるような、厳粛な評価の目を向けているようだった。  緊張が走る。  クジラは私たちの搭乗を承認したかのように、ゆっくりとおもむろに口を開いた。すると、その口からプランクトンのようにキラキラと輝く無数の素粒子が流れ込み、砂浜のさざ波のように私とカナの裸足を優しく洗うように流れていった。  私たちはクジラの口の中に入った。  クジラが口を閉じる前、私は外を振り返った。マスターが、まるで樽の中でブドウを裸足で踏みつぶすような軽やかな足踏みをしながら、愛嬌のある笑みを浮かべて手を振ってくれていた。  私もカナも、彼女に手を振り返し、クジラの口が閉ざされた。  こうして、私たちは地球に向かう貨物船に乗り込んだのだった。