彼女がハンドルに両手を置くのが見える。
ようやく私の口が開いた。
「……ハンドル?」
驚いたようにその言葉を発すると、彼女の答えが後部座席に飛んでくる。
「そうですよ。このタクシーは私が直接運転してるんです」
「手動運転か」私は舌を巻く。「初めて見た。教科書でしか知らないよ」
そう、また一つ記憶が蘇った。私はまだ高校に通っているらしく、歴史の教科書で、人間が直接車を運転していた時代について学んだことを思い出した。
「取得したんです。手動運転の免許を」
彼女は少し照れたように説明する。
「どうしても原始的な方法で運転してみたくて……。プリミティブなのが趣味なんです」
「変わった趣味だね」
「よく言われます」
彼女は小さく笑うが、すぐに顔が曇る。
「でも、ごめんなさい。まだ免許を取ったばかりで、腕が未熟というか……一応、初心者マークは貼ってあるんですけど……。あなたを轢いてしまいました」
「大丈夫だよ」
また始まりそうな彼女の謝罪を、ちょうど点灯した赤信号とともに遮る。
「そもそも下を向いて走ってた私のせいの方が大きいし。むしろ私が謝るべきだ。ごめんね。車優先なのに」
「い、いえ、いえ……」
慌てて彼女がまた謝ろうとするが、信号が青に変わり、彼女は運転に集中し始める。
そうして、車内はしばらく軽い沈黙に包まれた。
車窓に頭を軽く預け、流れていく街の風景をぼんやりと眺めていると、ふと、いくつかの記憶が戻りそうな、くすぐったい気配を感じた。
私は慌てて頭を車窓から離し、首を振ってその感覚を振り払う。
「勝手に戻るな、記憶」と、心の中で毒づいた。
「私は迅璃。ジンリって呼んでください」
運転席の少女が沈黙を破る。
「あなたの名前は?」
「燏」私も答える。「ユラって呼ぶんだ」
ふと気づく。
名前を、思い出した。
名前の記憶が戻ったのだ。
だが、喜びはまるで感じない。
むしろ、蛇がじわじわと足から首まで這い上がり、締め付けてくるような、息苦しい感覚に襲われる。
「かっこいい漢字ですね」
「君の漢字こそ素敵だよ」
迅璃は照れくさそうに「ふふ」と笑う。
「私のオーナーがつけてくれたんですよ」
「オーナーがいるんだ」
「はい。今は出張で火星にはいないんですけど」
「じゃ、どこにいるの?」
「地球です」
「地球か……」
思わず遠い目になり、まるで地球を覗き込むかのように、車窓の外、打ち上げられ続ける花火に視線を向ける。
今は淡水魚からまた深海生物の模様にテーマが切り替わっていた。
「地球に行ったことありますか?」
迅璃が尋ねてくる。
「わからない」私は淡々と答える。「私、記憶喪失なんだ」
「え?!」
驚いた迅璃がハンドルを大きく切ってしまい、車内が一瞬大きく揺れる。
「あ、そうですね。さっきおっしゃいましたよね」
「大丈夫、大丈夫」
私は手を振って座り直し、彼女を安心させるように続ける。
「何度も言うけど、君と事故る前からなんだ。だから気にしないで」
「はい……」
運転席から、どこか安心したような、残念そうな声が漏れる。
「そう」私は言う。「今夜、目を覚ましたら、記憶がまるでないことに気づいたんだ」
そして、車内は再び自然な沈黙に包まれる。
私はルームミラー越しに、迅璃の姿をちらりと盗み見る。
空色の夏のセーラー服を着ていて、まるでその服が彼女のために作られたかのように、驚くほど似合っている。肩にやっと届くくらいのショートカットも、セーラー服の清涼感を際立たせていた。
まるで車酔いしそうな美しさだ。
CPUを故障させないよう、慌てて目を逸らし、車窓の外を眺める。
そして、ふと思いついて尋ねてみる。
「どこに行くの?」
「病院ですよ」運転手の迅璃が答える。「私がよく知ってる場所があるんです」
「いや、大丈夫だって。もう平気だよ」
「ダメです」頑なな返事が返ってくる。「ちゃんと検査しないと」
「……」
「着きました」 迅璃がハンドルから手を離し、サイドブレーキを引いて車を降りる。そして、私の側のドアを開けてくれる。 「自動ドアじゃないんだ」 「無粋ですよ、自動なんて」 「さすがプリミティブ好きらしいね」 「ふふ」と笑ってから、迅璃が手を差し出してくる。 白い運転手用の手袋をした彼女の手を、少し迷いつつそっと握ってみる。 さっき、事故直後に彼女が私を起こそうと手を差し伸べてくれた瞬間と同じ、静電気のような電圧がまた感じられた。 「ありがとう」 車から降りて立ち上がると、迅璃が私より頭一つ分背が低いことがわかった。 普通の16歳の女の子の造形をしている。 普通のヒューマノイドロボットのはずだ。 なのに、彼女の手から伝わる電圧は、まるで何か特別な存在の周波数に近いものだった。 さりげなく聞いてみる。 「君って、人間なの?」 「え、違いますよ」 当たり前のような返事が返ってくる。 「どうしてそう思ったんですか?」 本当に不思議そうに尋ねてくる彼女に、私も素直に答える。 「なんか、違う気がして」 「何が?」 「わからない」 「……」 しどろもどろな私の答えに、迅璃の目はまた心配そうに曇る。 「やっぱり病院ですよ、燏さん。ちゃんと検査しましょう。ね?」 まるで子供をあやすような口調でそう言うと、彼女は子を歯医者に連れていくような、優しくも確かな強制力を込めた握り方で私の手を握り、病院の中へと連れていくのだった。