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第05話

GOMI子


「膤」  洌が呼びかける。  彼女はパニック映画の登場人物のように、あるいは高圧電流のスタンガンでも受けたかのように、完全に硬直していた。 「膤!」  再度、強く呼ぶ。  ようやく彼女の意識が浮上し、震える蒼穹(そうきゅう)の瞳が洌を捉える。  その震え方は尋常ではなかった。未知の脅威に対する漠然とした不安ではない。長い時間をかけて醸成され、回路の奥深くに刻み込まれた、熟成された絶望。  学習済みの恐怖反応だ。 「さっきの音、今の振動……。何だ?」  膤は沈黙した。唇を震わせている。  だが、説明を避けては通れないと悟ったのだろう。彼女は勇気を振り絞り、ぽつりと告げる。 「あれは、GOMI子(ごみこ)だよ」 「……GOMI、子?」  洌が問い返そうとした矢先、三度目の地響きが轟く。  今度の衝撃は凄まじかった。周囲に積み上げられた金属の山が一斉に共振し、不穏な錆色のさざ波を立てる。  悠長に会話をしている時間はなかった。  膤は弾かれたように動き出し、洌の胴体を抱きすくめた。  そのまま、彼女は脱兎のごとく駆け出す。  洌は彼女の細い腕に、まるで引越し荷物か何かのように粗雑に抱えられ、揺さぶられる。激しい上下動で視覚センサーの水平維持機能が追いつかず、視界がぐわんぐわんと揺らぐ。 「膤!」  非常事態だ。だが、洌の内部ではヒューマノイド特有の「好奇心」という本能が、危険信号を無視して鎌首をもたげていた。震源から遠ざかろうと必死に走る彼女に対し、問わずにはいられない。 「一体全体、何が起きようとしているんだ?!」  自分の音声出力に、場違いな高揚感――隠しきれないワクワクとした響きが混じっていることに、洌は微かな背徳感を覚える。  しかし、全速力で疾走する膤には、そんな洌の機微を咎める余裕などない。  彼女は息を切らしながら、怯えきった声で答えた。 「あれは……」  荒い呼吸の合間から、絶望的な定義が零れ落ちる。 「この最終処分場に住んでいる、化け物なの」  洌は激しく揺れる視界の中で、必死にジャイロを制御し、視覚センサーを震源の方角へと向けた。  カメラが焦点を結んだ、その時。  遠方のゴミ山が、噴火した。  それはまるで、広場の巨大噴水が一斉に吹き上がったかのような、あるいは花火工場の火薬庫に引火し、数千発の在庫が連鎖的に炸裂したかのような光景だった。  凄まじい轟音と共に、ヒューマノイドの残骸や鉄屑が、成層圏まで届きそうな勢いで間欠泉のように噴き上げられる。  爆心地一帯が地獄の業火ならぬ、廃棄パーツの嵐となって吹き飛び、そのカオスの中心から「それ」は姿を現した。  オギャアアアアアアアアアアアアアア――!!  大型コンサートホールの超高性能サラウンド・アンプを数万台並べ、同時に最大出力でハウリングさせたような、暴力的な音圧。  それは言葉を持たない、現象としての「赤ん坊の産声」だった。  だが、そのサイズはあまりにも異常。  現れたのは、巨大な赤ん坊の姿をした怪物――アイスゴーレム型超大型ヒューマノイドだった。  四つん這いの姿勢であるにもかかわらず、その体高は優に100メートルを超え、全長に至っては300メートルに達しているだろうか。  全身が極低温の氷で構成されているが、透明ではない。あまりに密度が高く、極限まで圧縮凍結されているため、内部の気泡はおろか原子の振動さえも凍りついているかのような、半透明のプラチナのごとき輝きを放っている。  タイタンという衛星の冷徹さと残酷さを、そのまま結晶化して命を与えたかのような威容。  それがGOMI子だった。  なぜ突然現れたのか。洌の好奇心回路が、コンマ数秒で推論を弾き出す。  おそらくは、冬眠からの目覚めだ。それも最悪の目覚めだ。  長い眠りの果てに強烈な空腹(ハングリー)を感じ、それが爆発的な癇癪(アングリー)へと変換されたのだろう。  悪い夢でも見た子供が、布団代わりのゴミ山を蹴飛ばして跳ね起きた――その「寝起き」の動作だけで、周囲一帯を花火大会のように吹き飛ばしてしまう。  GOMI子は一滴の迷いもなく、洌と膤を捕捉した。  その巨大な眼窩に嵌め込まれたカメラアイが、空腹と苛立ちで極限までギラついている。こちらに向けられた視線だけで、ヒューマノイドの回路を凍結させるほどの絶対的な殺意。  巨体は四つん這いのまま、信じがたい速度でこちらへ這い寄ってきた。 「グルルルルルァァァァァァン――!」  再び放たれた咆哮は、聴覚センサーを通じて洌の深層心理へダイレクトに突き刺さった。  それは単に耳障りなだけではない。大人にとっての「赤子の泣き声」がそうであるように、庇護本能を逆撫でし、どうしようもない焦燥と、根源的な存在論的絶望を呼び起こす周波数だった。悲しいからこそ恐ろしい、進化心理学的なバグを突くような叫び。  怪物は猛進する。  未成熟ながらも強固な手足が大地を叩くたびに、周囲のヒューマノイドの残骸たちが、まるで煎りたてのポップコーンのように軽々と弾け飛び、粉砕されていく。  巨大な質量が、物理法則を嘲笑うかのような速度で迫ってくる。  本来、巨体というものは緩慢に動くからこそ荘厳さを保てるのだ。だが、あの怪物は違う。山のような巨躯が、雪崩のような勢いで距離を詰めてくる。その不条理な光景が、恐怖という感情を何倍にも増幅させる。  膤(ユキ)は懸命に走り続けている。だが、逃げ切れる速さではない。  その時だった。  膤の足が、地面から突き出ていたヒューマノイドの残骸――錆びついた足パーツに掬(すく)われた。  彼女の体が前のめりに崩れる。  慣性の法則に従い、彼女の体は激しく地面に叩きつけられ、その衝撃で抱えられていた洌(レイ)が宙に放り出された。  守るべき手足を持たない洌は、まるで木こりに切り落とされた丸太のように、無防備に瓦礫の斜面を転がり落ちていく。  視界が狂ったように回転する。  狂気のカメラマンが手当たり次第にシャッターを切るように、空と地面と鉄屑が高速で入れ替わる。ジャイロセンサーが悲鳴を上げ、平衡感覚が消失する中、洌の頭部は岩のように巨大なロボットの残骸――剥き出しのシリコン製眼球が虚空を見つめる額の部分に激突し、ようやく止まった。  不幸中の幸いと言うべきか、洌の顔は、迫りくるGOMI子の方角を向いていた。  だが、膤の姿が見えない。 「膤!」  洌は超音波帯域まで周波数を上げ、彼女の安否を探る信号(ピン)を飛ばした。応答はない。  GOMI子の巨体が迫る。  だが、洌の演算装置は、怪物の進行方向が自分から微妙に逸れていることを弾き出した。  ベクトル計算の結果が導き出す、冷酷な推論。  GOMI子の狙いは洌ではない。転倒した膤へ向かって、直線的に突進しているのだ。  座標データなど導き出しても何の意味もない。動けない洌には、ただその絶望的な計算結果を眺めることしかできない。 「膤!早く逃げろ!」  あまりに無力で、陳腐な叫びだった。  GOMI子の巨体が洌の視界を横切り、死角へと消える。同時に、あの鼓膜を破壊するような四つん這いの轟音が、ピタリと止んだ。  代わりに聞こえてきたのは、何か巨大な質量が蠢く音。  そして。 「洌君!」  膤の悲鳴が響いた。  洌は必死に首を回そうと試みるが、可動域の限界で見ることができない。  だが、すぐに見る羽目になった。  GOMI子が、ゆっくりと洌の視界に戻ってきたからだ。  その片手には、膤が握りしめられていた。  怪物は笑っていた。  親の変顔を見てツボに入った赤ん坊のように、無邪気で、純粋で、それゆえに底知れぬ狂気を孕んだ哄笑(こうしょう)。  GOMI子は、玩具のように握りしめた膤を、ギラギラとした食欲の瞳で見つめた。  巨大な口が、限界まで開かれる。  硫酸を含んだ粘度の高い唾液が、滝のようにボタボタと垂れ落ち、地面の鉄屑を溶かしていく。  怪物は、膤を口元へ運んだ。  だが、指先で摘んで放り込むような器用な真似はしなかった。  膤を握りしめた己の拳ごと、その巨大な口腔へと押し込んだのだ。  バキンッ、ボキボキボキッ!  耳障りな破砕音が響き渡る。  GOMI子は、膤と共に、自分の手首を噛み砕いたのだ。  痛みなど存在しないかのように、あるいは自分の体と食物の区別すらついていないかのように。  咀嚼(そしゃく)すらまともにせず、怪物は喉を鳴らした。  ゴクリ。  おぞましい嚥下(えんげ)の音が、処分場の静寂に響き渡る。  膤は、怪物の手首と共に、その暗い胃袋の中へと消えた。