院長室。
窓の外では、とうとう本格的な雨が降り始めていた。
激しい雨脚が窓を叩く音を聞きながら、リリスはさっき廊下で告げられた言葉を反芻する。
今日の夜、ここを出て行きなさい。
意味は理解できた。
だが、納得は到底できない。
あまりに唐突な宣告に、思考が追いつかなかった。
院長は執務机の椅子に座っていた。
リリスは向かいの椅子に、力なく座っている。
まるでありふれた面談でも始めるかのような、淡々とした雰囲気だった。
「……なぜですか?」
リリスは絞り出すように口を開いた。
「私、まだ十七歳です。孤児院を出る決まりは、十八歳になってからのはずでは……」
「年齢は関係ないわ」
「では、今日の皇宮での失敗が原因ですか?」
「それも関係ない」
「じゃ、一体……」
院長は、声を低め、静かに告げた。
「『魔女狩り』のせいよ」
リリスの背中に、冷たいものが走る。
院生たちがリリスをいじめる際に使う、その意味ではない。
院長が言っているのは、世間を騒がせている本物の方を意味していた。
「最近、帝都で魔女狩りが激化しているのは知っているでしょう? あちこちで火刑が行われているから」
「……はい」
リリスは、今日の帰路に目にした光景を思い出した。
立ち上る黒煙と、鼻を突く嫌な臭い。
あのむごたらしい刑場の空気を。
「なら、私がなぜこんな話を切り出したか、分かるわね?」
「でも……」
リリスは食い下がろうとした。
ずっと、こんな場所から一刻も早く抜け出したいと思っていた。
いつか逃げ出すのだと、そう決めていたはずだった。
なのに、いざ突き放されると、足がすくんで動けない。
身寄りのない自分が、一体どこへ行けるというのか。
ここを追い出されたら、リリスにもう先はなかった。
「私、誰の前でも力は見せていません。今日、皇宮でトラブルはありましたけど、電気を出したりなんて……」
「分かっているわ。あなたがその力を隠す術を身につけたことは、私も知っている」
「だったら……」
「けれど」
院長がリリスの言葉を遮った。
「その力が、消えてなくなったわけではないでしょう?」
「……」
言葉に詰まる。
否定できなかった。
それどころか、最近彼女の力は増す一方だった。
抑え込む技術は向上したが、内側に渦巻く魔力は、今にも器から溢れ出そうとしている。
いつまで自分を騙し通せるか、リリス自身にも分からなかった。
「せめて……」
リリスは、すがるように言った。
「せめて、十八歳になるまで待ってください。十七歳では、帝都でまともな職に就くことができません……」
「リリス」
院長が諭すように言う。
「仕事の話をしている場合じゃないのよ。まだ自分の立場が理解できていないようね……」
院長の瞳に、わずかな憐憫の情が浮かんだ。
十七年間、リリスには一度も見せたことのない微かな温もりがこもっている。
彼女は、やがて死刑宣告にも等しい事実を突きつけた。
「あなたは今、命を狙われているの。いつ捕らえられて、火あぶりにされるか分からない状況なのよ」
「……」
リリスは視線を落とした。
気づかない振りをしていた。
ずっと、懸命に無視し続けてきた現実。
それをはっきりと突きつけられ、思考が白く塗り潰される。
あまりの衝撃に、指先一つ動かせなくなる。
院長が机の引き出しから、ずっしりと重みのある革の袋を取り出した。
それは、硬貨の擦れる音を立ててデスクに置かれた。
「お金よ。これを持って、今夜、ここから逃げなさい」
「でも、どこへ行けば……。私には、行く場所なんてありません」
「……私が言っているのは、帝都から出ろという意味よ」
「帝都から……?」
リリスの瞳が段々と揺れていく。
「そんな……私、外の世界なんて一度も……」
「仕方がないのよ」
院長の冷徹な声が、リリスの胸に深く突き刺さる。
「それはもう、仕方のないことなの。これからは、あなた自身で何とかするしかないわ」
リリスは結局、言葉を完全に失ってしまった。
重苦しい沈黙が、院長室を支配する。
しばしの後、院長がデスクの上の巾着を、促すようにリリスの方へ押しやった。
「受け取りなさい。中に地図も入っている。関所を通らずに帝都を抜け出せる『裏道』を記しておいた。一度外へ出れば、近隣の村や街はそう遠くないはずよ。半日休まずに歩けば、どこかしらには辿り着けるわ」
リリスはすぐには手を出せなかった。
これを受け取れば、もう二度と後戻りはできない、そんな気がしたからだった。
だが、わかっている。
(……後戻りなんて、生まれた時からできっこないって決まっていたのにね)
何を今さら。
リリスは諦念とともに、巾着を手に取った。
紐を解き、中を確認する。
三つ折りにされた羊皮紙の地図と、数枚の硬貨。
その中には銀貨も二枚混じっていた。
これほどの大金を手にするのは初めてだったが、高揚感は微塵も湧かない。
ただ、底知れぬ暗闇へと突き落とされるような感覚だけがあった。
リリスは再び紐を結び、巾着を懐にしまった。
椅子から立ち上がり、座ったままの院長を静かに見下ろす。
院長もまた、リリスをじっと見返していた。
リリスは短く会釈をすると、振り返ることなく院長室を後にした。
扉が閉まる間際、「ごめんなさい」という声が漏れ聞こえた気がした。
だが、激しい雨音がすべてをかき消していく。
空耳だろう。
そう自分に言い聞かせ、彼女は院長室を後にした。
深夜。
リリスは目を覚ました。
物音を立てぬよう、慎重にベッドを抜け出す。
外は猛烈な雨だった。
この豪雨なら、多少の衣擦れの音はすべて隠してくれるだろう。
リリスは共同寝室を見渡した。
ベッドが二列に並ぶこの部屋では、いつもなら数人が酷い鼾(いびき)をかいている。
だが、今夜は奇妙なほど静かだった。
ただ雨の音だけが、窓ガラスを叩き割らんばかりに鳴り響いている。
彼女はベッド下の収納箱を引き出し、外出着と赤茶色の古びたフード、そして昼間に受け取った巾着を取り出した。
服を着替え、安物の革靴を履く。
フードを深く被り、巾着を懐の奥に押し込んだ。
他に、持ち物はない。
旅の支度は、あっけなく終わった。
リリスは最後にもう一度、院生たちが眠る広い寝室を眺めた。
誰も動かない。
皆、雨の音に溺れてたかのように、毛布の底へ深く潜っている。
「さようなら」
あえて届くような声で告げてみたが、返事はない。
リリスは、習慣通りに自分の寝床を整えると、一人、静かに孤児院を後にした。