リリスは意識を取り戻した。
意識の浮上と共に、真っ先に呼び覚まされた感覚は聴覚だった。
深い洞窟の底にいるかのような、重苦しい反響がリリスの耳を静かに揺さぶっている。
次いで、触覚が戻ってきた。
肌に不快な何かがじわじわと染み込んでくるような感覚とともに、全身の感覚が呼び覚まされていく。
感覚が完全に戻るのと同時に、今度は猛烈な冷気が襲いかかる。
リリスの体はガタガタと震え始めた。
「寒い……」
まるで発作に突き動かされるように、リリスは激しく自分の体を抱きしめた。
このまま死んでしまうのではないか。
そう本気で予感させるほどの極寒に、彼女はしばらくの間、身をすくめて硬直した。
幸い、すぐさま命を落とすようなことだけはなさそうだった。
時間が経つにつれ、感覚はわずかずつ寒さに適応し始める。
震えが止まったわけではないが、どうにか耐えられる程度には、意識を保てるようになる。
続いて、リリスは目を開いた。
意識が戻ってからも頑なに閉じていた瞼を、意を決して持ち上げる。
開きたくはなかったけれど、現実から目を逸らしているわけにもいかない。
そうして開いた瞳の先にあったのは――
深い闇だった。
暗闇がすべてを塗りつぶしていた。
まだ夜が明けていないのだとしても、異様なほどの暗さ。
リリスは一瞬、自分が失明してしまったのではないかと不安に駆られる。
だが、感覚が戻った時のように、視覚もまた少しずつこの闇に適応していった。
朧げながらも、段々と周囲の輪郭が浮かび上がる。
そしてリリスは、自分がどこにいるのかをかろうじて認識できるようになった。
冷たく閉ざされた牢獄だった。
牢獄など、リリスはこれまで見たことも、ましてや足を踏み入れたこともない。
だが、ここがどこであるかは察することができた。
目の前に、分厚い鉄の棒の列が立ち塞がっていたからだった。
鈍く光るその物々しい鉄格子。
リリスにはこの鉄格子が、これまでの人生で見てきたものの中で最も暴力的な存在であるように思えた。
孤児院で受けてきた数知れない虐待、そして先日目撃した凄惨な火刑の光景。
それらよりも、ただ静かに立ち並ぶこの鉄の棒の列の方が、彼女にははるかにむごいものとして迫ってきた。
(……嫌だ)
まだ口がうまく動かず、リリスは心の内でそう独りごちた。
(嫌だ、嫌だ、嫌だ……)
何度も繰り返しながら――
リリスは横たわっていた上半身をどうにか起こした。
すると、意志とは無関係に口から呻きが漏れ出る。
全身の骨が、まるで錆びついた鉄にでもなったかのように軋んだ悲鳴を上げた。
「死にたくない」
ようやく、言葉が漏れ出した。
だが、その声はひどく掠れ、消え入りそうなほどに細い。
他人はおろか、自分自身の耳にさえ届かないほどの微かな囁きで、リリスはもう一度繰り返した。
「まだ、死にたくない……誰か……」
そう口にしながら、リリスは自分自身に驚いていた。
自分の命に、未練や愛着なんてないと思っていたからだ。
いや、確かに愛着はない。
けれど、未練はあったようだった。
その正体が何なのかは分からないけれど、死にたくないという気持ちだけは、はっきりとそこにあった。
リリスは、やっとの思いで声を絞り出した。
「誰か、助けて」
でもその声は、虚しく牢獄の中に響くだけだった。
助けなど来ないことは分かっているが、それにしても不気味なほどに静まり返っている。
鉄格子の向こうを覗いてみても、見張りの衛兵どころか人の気配すらない。
隣の牢屋にも誰かが捕らえられている様子はない。
この暗くて寒い牢獄に、ただリリス一人だけが取り残されているようだった。
(もう、諦めよう)
そう心の中で呟く。
ふと窓から、いや、窓というよりは壁の亀裂と呼ぶべき狭い隙間から、一筋の朝日が差し込んできた。
その光は、まるで羽が舞い降りるような静かさでリリスの瞳を打った。
まぶしさに思わず目をつむろうとしたが、リリスにはそれができなかった。
(……?)
何かが、目に入ったのだ。
何か、奇妙な現象が起きていた。
空間がわずかにゆがんでいる。
最初は、いきなりの陽光に目がくらんで、視界がチカチカと揺れているだけだと思った。
だが、そうではない。
そのゆがみは、時間が経つごとに、少しずつ、しかし確実に大きくなっていった。
死に瀕していたリリスだったが、その異様な光景を前に、本能的な警戒心が目を覚まさせた。
朦朧としていた瞳はぱっと見開かれ、反射的に立ち上がろうともがく。
しかし、足には全く力が入らず、逃げ出すことなど到底できない。
結局リリスはただ座り込んだまま、目の前で起きている異常な現象を凝視し続けた。
空間のゆがみは、まるで真夏の陽炎(かげろう)を目の前で凝縮させたかのようだった。
ゆがみは見る見るうちに激しさを増し、向こう側の景色をいびつにかき乱していく。
やがて、何一つ判別できなくなるほど空間がねじれると、その中心がどろりと暗い色に染まった。
そして次の瞬間、そこにはぽっかりと「穴」が開いた。
それは単なる裂け目ではなく、その奥に別の空間が広がっているかのような、奇妙な奥行きを持った穴だった。
本能的な恐怖を呼び起こす、歪んだ空洞。
このまま吸い込まれてしまうのではないかという不安に襲われる。
リリスは必死に後ろへ下がろうとしたが、やはり体は動かない。
無力なまま、そこから目を逸らすこともできない。
目を離せば、さらなる恐怖に呑み込まれそうな気がしたからだった。
そうしてうごめく黒い空洞をただただ見つめていると――
ふとその奥から、白い点のようなものが小さく姿を現し始めた。
空洞の奥から近づいてくる影が男だと認識した、その直後だった。
男が弾き飛ばされるようにして空洞から飛び出して――
猛スピードで牢獄の壁へと激突した。
ドゴォォォォン!
凄まじい衝撃音とともに、男が壁に叩きつけられる。
分厚い石壁がクレーターのように大きくへこみ、派手に砕け散る。
そして壁にめり込むほどの勢いで衝突した男は、そのまま力なく床へと崩れ落ちた。
「…………」
一瞬の轟音が過ぎ去ると、牢獄に以前よりもいっそう深い沈黙が返ってくる。
どれほど時間が経っただろうか。
あまりに突拍子もない出来事に、動けなくなる。
一秒なのか、あるいは一時間なのか。
リリスはふと我に返った。
そして、大きくへこんだ壁から、自分のすぐ目の前で倒れている男の方へと、恐る恐る視線を移した。
この人、死んだ。
そう、リリスは確信した。
あんな凄まじい衝突、普通の人間なら骨が砕けて即死するのが当然だったからだ。
男を吐き出したあの空洞は、いつの間にか消え去っていた。
牢の中に死体が一つ増え、壁には大きなクレーターのようなくぼみが一つ。
それでも頑丈な牢獄が壊れることはなかった。
そして、依然として周囲に人の気配はない。
これほどの轟音が響いたというのに、見張りの衛兵が駆けつけてくる様子もなかった。
リリスは、むしろ自分から声を上げて、誰かを呼ぶべきではないかとさえ思い始める。
いきなり現れた、正体不明の存在。
このままじっとしているわけにもいかず、リリスは枯れた声を振り絞って誰かを呼ぼうと、必死に喉を震わせた。
しかし、その時――
リリスは、ふと息を呑んだ。
死体が、ピクリと動いたからだった。