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第14話

応急手当


リリスの意識は、相変わらず辛うじて保たれている。  夢と現実のあわいを彷徨うような、ぼんやりとした感覚が続く。  アダムと何かをやり取りしたような、おぼろげな記憶が頭をかすめる。  ユーザー登録――確か、そんな手続きを済ませたような気がする。  アダムはリリスの手を握ったまま、じっとこちらを見つめていた。  リリスもまた、そんな彼の様子をただぼんやりと見つめ返していた。  なんだか、不思議な気分だった。  こんなに長い間、私の目をじっと見つめてくれる人なんて、  今まで一人もいなかったから。  いきなり壁の隙間からネズミが飛び出してきた。  少しだけ驚く。  ネズミは怖い。 「リリス様、私の声が聞こえていますか?」  アダムの声が、リリスの耳に届く。  声は聞こえていたが、言葉を返すだけの余力はもう残っていない。  リリスは、握られている手にほんの少しだけ力を込めてみた。  それだけで伝わったのか、アダムは優しく微笑んで見せた。 「安心してください。リリス様は、多分大丈夫です」  アダムはそう言った。  けれど、多分なんてあやふやな言葉では、リリスは少しも安心などできなかった。  アダムが言葉を継ぐ。 「リリス様が苦しんでいる理由は、体が壊れているからではありません。体内の電気エネルギーを、無理やり抑え込んでいるからです。ですから、その電気を吐き出せばいいのです。ご自身で、できそうですか?」  リリスは首を横に振る代わりに、黙り込むことを選んだ。  やりたくないのではない。  もう、やり方がわからないのだ。  力を出さないようにと自分を押し殺す日々があまりに長かった。  どうすればその電気を外に出せるのか、リリスはもう自分でも分からなくなっていた。  その沈黙だけで、アダムにはすべてが伝わったようだった。  彼は何度か頷くと、空いている方の手に下げていた何かを、彼女の目の前へと持ち上げた。  それは、袋だった。  けれど、リリスがこれまで見たことのない形をしている。  布のように糸で編まれているわけでも、革のように分厚いわけでもない。  白くて薄い、正体不明の「膜」でできている。  アダムがそれを動かすと、カシャカシャという乾いた、聞いたこともない音が室内に響く。  アダムは、それまでずっと握っていたリリスの手をそっと離した。  そして、空いた手で白い袋の口を広げると、がさごそと音を立てて中から何かを取り出す。  それは、またも奇妙な形をした瓶だった。  リリスが知るガラスの瓶などとは、かなり違っている。  表面は滑らかで透き通っていて、ガラスのような重々しさがない。  そして中には、透き通った琥珀色の液体がたっぷりと満たされていた。 「これは、麦茶という飲み物です」 アダムが説明する。 「大麦を香ばしく焼いて、その風味を水に移したものです。苦味がなくて飲みやすく、体に余計な刺激を与えない優しい飲み物ですよ」 (……麦?)   麦ならリリスも知っている。  けれど、それを使ってお茶を作るなんて話は、彼女にとって初耳だった。  アダムが、ボトルの先端についている小さな蓋に手をかける。  それを軽くひねると、パキパキッと小気味よい音が鳴る。  そのまま封が切れ、蓋が回って外れた。  蓋を開けると、アダムはさらにリリスの側へと寄り添った。  そして、彼女の体を支えるようにそっと上半身を抱き起こすと、自分の胸元へと優しく引き寄せる。  飲み物を飲ませる準備を整えたアダムは、リリスに声をかけた。 「リリス様。今からこれを飲ませますね。口を開けられますか?」  リリスは返事をする代わりに、そっと、小さく口を開いた。  するとアダムが、麦茶のボトルをリリスの口元へとゆっくり近づける。  リリスの鼻にふわりと漂ってきたのは、香ばしく、どこか懐かしい香りだった。 (パンの匂い……? それとも、エール?)  お酒なのかと思って、リリスはほんのわずかに唇をすぼめた。  自分でも気づかないほどの微かな反応だったが、アダムはそれを敏感に察知したようだった。  すぐに言葉を添える。 「大丈夫ですよ、これはエールではありません。同じ麦から作られていますが、発酵してないので、お酒のように酔う成分は入っていません。ただの香ばしい、体に優しいお茶です」  それを聞いて、リリスは再び唇をそっと開いた。  アダムが瓶の飲み口を彼女の唇に当てる。  そして、中の液体を少しずつ、こぼさないよう慎重に流し込んでいった。  琥珀色の液体が、リリスの口の中を満たす。  ひどく渇いていた喉を潤していく。 (美味しい……)  パンのような香ばしさがあるのに、水のようにさらりとしている。  初めて知る、心まで洗われるような澄んだ味だった。  そして、それは驚くほど冷たかった。  リリスは消えかけていた気力が、ほんの少しだけ蘇るのを感じた。  ところで、アダムが麦茶を流し込んでくれるペースが少しもどかしい。  彼の気遣いなのは分かっている。  だけど今のリリスはもっと一気に飲み干したい衝動に駆られていた。  腕に力を込めてみると、すんなりと動いてくれた。  麦茶のおかげなのだろうか。  ただ一口飲んだだけなのに、体が驚くほど軽くなったような気がする。  リリスは震える手を持ち上げ、アダムが傾けている瓶にそっと添えた。  アダムはその意図をすぐに察し、彼女の手を添えるようにして瓶を支えさせた。 「持てますか? 重くはありませんか?」  アダムが心配そうに問いかける。  リリスは片手だけでは心もとなく、もう片方の手も添える。  両手でしっかりとボトルを掴んだ。  そして、自分で飲み始める。  こうしていると、まるで赤ん坊にでもなったかのようだった。  少し恥ずかしくなったが、今はそんなことを気にしている場合ではない。  リリスは指先に力をもっと込めた。  それの意味を察したアダムがそっとボトルから手を離してくれる。  彼の腕に抱かれるような姿勢のまま、  リリスはしばらくの間、夢中で麦茶を飲んだ。  最初は恐る恐るだったが、やがて喉を鳴らしながら、ごくごくと勢いよく飲み干していく。  ボトルの中の液体は、あっという間に空になった。  飲み終えたリリスの口元から、ふぅ……と長い吐息が漏れる。  それは苦しげな喘ぎなどではなく、喉の渇きが癒やされたことへの満足感と、心地よさが混じったような安堵の吐息だった。  ――声が、出るようにまで回復した。  喉の渇きが癒え、元気が戻ってくると、次第に周囲の状況がはっきりと見えてきた。  それと同時に、自分がアダムの腕の中に抱えられているという事実に改めて気づく。  恥ずかしさが急激にこみ上げてくる。  少し間を置いてから、リリスはアダムの体から離れようと、そっと身を動かす。  彼はすぐにその意図を察してくれた。 「もう、お一人で座れますか?」  アダムの問いかけに、リリスはしっかりと声を出して答えた。 「うん。もう、大丈夫」  自分でも驚くほど、一瞬で体が楽になった。  ただ喉が渇いていただけだったのかと、拍子抜けするような気持ちになる。  リリスは姿勢を正してアダムの体から離れると、  そのまま一人でしっかりと座り直した。  リリスは、自分の手の中に残っているその瓶を、まじまじと見つめた。  透き通った表面に、緑色の貼り紙のようなものが巻かれている。  そこにはリリスが全く読んだことのない、文字なのか絵なのかも分からない不思議な図形が縦で並んでいた。 「気分はどうですか?ましになりましたか?」  アダムが問いかけてきた。  改めて彼の方を見つめると、その整った顔立ちが優しい微笑みを湛えた。  その端正な笑顔に、リリスは思わず気恥ずかしくなってしまう。  一体何度恥ずかしくなれば気が済むのかと、自分を叱責する。  彼女はその照れくささを誤魔化すように、けれど素直な感謝を込めて答えた。 「うん。ありがとう」  言葉にしてから、リリスはふと思う。  誰かに向かって「ありがとう」なんて言ったことが、これまでに一度でもあっただろうか。  もしかしたら、これが人生で初めてだったのかもしれない。  そう思うと、またひどく気分が沈みそうになったが、彼女はそれを瞬時に遮断した。  湧き上がる感情は、とにかく一度切り離す。  そうやって、彼女はこれまで生きてきた。  そうやっていつものように、努めて無表情な自分を貫こうとしていた、その時だった。 ――ギュルルルルルルルルッ!!  腹の底から、まるで雷でも落ちたかのような凄まじい音が響き渡る。  その音のせいで、せっかく作り直したリリスの無表情が、またしても台無しになる。  そして、ものすごい空腹感にリリスは襲われた。  指先がガタガタと震え始めるほどだった。  せっかく美味しい飲み物で持ち直した元気が、再び打ちのめされる。 「次は、これです」  間を置かず、アダムがまた別のものを差し出した。  それは、先ほどの妙な白い袋の中に残っていた、もう一つの品だった。  それは、手のひらに乗るほどの小さな容器だった。  さっきの瓶と同じように滑らかで、中が透けて見える素材でできている。  そして容器の中には、柔らかな黄色をした何かがぎゅっと詰まっていた。  リリスが尋ねる。 「それは、何?」 「これは、カスタードプリンです」  アダムが、その品について説明を付け加えた。 「牛乳と卵、それに砂糖を混ぜて固めた、甘くてとても柔らかいお菓子です。口の中でとろけるような食感なので、元気がない時でも食べやすいですよ」  その説明に、リリスの目と口は自然とさらに大きく開いた。  アダムは手際よく、容器の上の銀色の蓋に指をかけた。  ぺりぺりと、小気味よい音を立てて蓋が剥がされる。  すると、中から甘く、とろけるような香りが一気に溢れ出した。  続いてアダムは、例の白い袋から透明な小さなスプーンを取り出した。  それは驚くほど軽く、光沢を放っていた。  アダムはリリスの目の前で容器をしっかりと支え、さじを手に取って、彼女が食べられるように準備を整えた。 「はい、どうぞ。お召し上がりください」  アダムが穏やかに促す。  リリスは最初、警戒するようにその食べ物をじっと睨みつけた。  だが結局は誘惑に負けて、おずおずとそれを受け取った。 「……!」  一口すくって舌に触れた瞬間、リリスの背筋に電気が走った。