「夜雨か」
靂がそうつぶやき、私の手を取った。
そのまま引っ張るようにして、校舎の昇降口へと向かう。
「早く入ろう」
「どうして?」
「長く触れていると、溶けてしまうよ」
「……溶ける?」
私は鼻の先に落ちて蒸発した赤い雫の跡を指でなぞった。
指先に微かな痛み。
見ると、人工皮膚がわずかに剥がれ、金属の下地が露出していた。
すぐに再生システムが作動して、皮膚は何事もなかったように再構成される。
だが、あの雨の酸性度を考えると、このまま長く浴びれば――
全身が溶けるのも時間の問題だろう。
再生能力にも限界はある。
「今宵、赤い雨に、溶ける」
不意に、口が勝手に動いた。
プロンプトのように、詩的な文句が自動的に生成され、発声される。
その言葉に自分自身が引き込まれていく。
――それもいいかもしれない。
このまま、赤い雨と一緒に溶けてしまうのも。
オーナーに捨てられた過去も、満たされなかった性能も、
中途半端な自尊心も、すべてこの雨が溶かしてくれる気がした。
だがそのとき、靂の手に力がこもる。
温かい――いや、次第に熱を帯びてくるその感触が、
スリープモードに入りかけた私のCPUを引き戻した。
「いいよね、金星の雨って」
靂が小さくつぶやく。
「金星の魅力っていえば、この鮮やかで、甘くて、赤い夜雨くらいだから」
彼女はどこか、私の気持ちを分かっているような表情で微笑んだ。
けれどすぐに、その顔が引き締まる。
声の調子が穏やかに低くなる。
まるで初めての雨に戸惑う子犬を、優しく諭す飼い主のように。
「でもね、甘いものは健康に悪い。それは人間にも、ヒューマノイドにも共通する真理だよ」
わかっている――
そう言うまでもなかった。
靂の言葉は、私の内部アルゴリズムにも既に刻まれている基本知識だ。
それでも、彼女はあえて口にしてくれた。
それがただの警告ではなく、優しさとして響く。
――優しいヒューマノイドだな。
そう思いながら、私は小さく頷いた。
「わかった。入ろう」
諦めるように言い、靂と手をつないだまま校舎の中へ入る。
背後を振り向く。
そこでは、本校の“影たち”が赤い夜雨に打たれていた。
古びたレコードの音が掠れるように、彼らの輪郭が徐々に薄れていく。
あちら側は、すでに放課後なのだろう。
その光景を見ながら、私は記録する。
本校の生徒たちが、甘さに溶けていく過程を。
黒い影たちは、まるで太古の人間たちが肉体の奥で抱えていた
原始的な欲望――桃色の衝動――に染め上げられていく。
彼らは自分の身体を、友人の身体を、むさぼるように齧り、舐め、咀嚼し、
その輪郭を自ら崩していった。
やがて、白い涙を流し始める。
黒い影なのに、涙だけが白い。
その白は、空洞のように赤く輝く瞳から、
滝のように流れ落ちていた。
この場所は、あちら側の時間と空間のずれによって
ホログラムのように投影されている。
だから音は届かない。
それでも――彼らの悲鳴や歓喜が、
私の視覚センサーに“視覚的な音”として響いた。
言葉にすれば、こう圧縮される。
「気持ちいい。助けてくれ」
私はやれやれと首を横に振る。
そして、静かに呟いた。
「傘をさしたらいいのに」