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6


翌朝。  幻は登校のためにいつもの電車に揺られていた。  満員電車の中で手すりを掴み、スマホで英単語の暗記に励んでいると、不意に誰かの視線を感じた。無視しようとしたが、耐えきれずそちらへ目を向けた。  一人の男子生徒が、幻をじっと横目で観察していた。  彼と目が合うと、相手はすぐに視線を逸らした。幻は不審に思い、彼を凝視した。  自分と同じ制服を着ており、校章の色から同じ学年であることがわかる。見覚えのない顔だったが、不思議なことに、どこか懐かしいような奇妙な感覚を覚えた。  幻は訝しみながらも再びスマホに目を戻し、英単語の暗記を再開した。


 その彼と、朝のホームルームで再会することになった。  担任が、今日は転校生を紹介すると言って、彼を教室へと招き入れた。そして彼に自己紹介を促した。 「石原、奏汰です」  奏汰は教壇の前に立ち、幻の方を真っ直ぐに見据えて言った。 「よろしくお願いします」  偶然にも幻の隣の席が空いており、奏汰はそこに座ることになった。  彼は席に着くなり、幻に話しかけてきた。 「さっき、電車で見かけたよね」 「……ああ」  幻は得体の知れない居心地の悪さを感じながら答えた。 「転校生だったんだな」 「うん。……まあ、正確には少し違うんだけど」 「……え?」 「あ、いや。何でもない。とにかく、よろしく」 「……」  幻は怪訝そうに眉をひそめた。彼の瞳の奥に、一瞬だけ鋭い光……あるいは敵意のようなものが宿ったように見えたからだ。  だが、あからさまに無視するわけにもいかず、幻は渋々と言葉を返した。 「……よろしく」


 昼休み、昼食を終えた幻は、奏汰を連れて校舎を歩いた。  担任の教師が、隣の席のよしみで転校生の案内役を幻に押しつけたからだ。  二人はしばらく、無言のまま歩き続けた。幻が校内の施設を事務的に説明する時を除けば、会話らしい会話は一つもない。幻はこれ以上関わりたくなくて、自然と歩幅を速めていた。  気まずい沈黙が五分ほど続いた後、不意に奏汰が口を開いた。 「実は俺、全部知ってるんだ」 「何を?」 「この学校のことだよ」  奏汰は校舎を見渡すふりをしながら言った。 「俺も、ここの生徒なんだ」 「……そう、だろうね」幻は頬をかいた。「今日からここの生徒になったからね」 「違うよ」奏汰は首を振った。「一年生の時からずっと通ってる。『現実』ではね」 「……現実?」  冗談かと思ったが、奏汰の表情はあまりに真剣だった。  幻が黙り込むと、奏汰は畳みかけるように言った。 「単刀直入に言う。実は君がいるここは、夢の世界なんだ」 「……」  こいつはやばい奴だ、と幻は確信した。  案内を任せてきた担任を心の中で呪いながら、幻は引きつった笑顔を浮かべた。 「そうか。……じゃあ、それは誰の夢なの?」  皮肉を込めて尋ねると、奏汰は幻をちらりと見やり、逆に問い返してきた。 「今、俺のことをやばい奴だと思っただろ」 「……まあ、うん」  率直に認めると、奏汰はくすっと笑って頷いた。 「無理もないか。君はここで十七年間も暮らしてきたんだからね。この、あまりに精巧で緻密な『夢』の中で」 「じゃあ、もう戻ろう」  これ以上付き合っていられず、幻は踵を返した。こんな変な転校生に構っている暇はない。早々に教室へ戻って、先生に席替えの相談をしようと考えていた時、背後から一言、言葉が飛んできた。 「紬」  幻の足が止まった。彼はゆっくりと振り返った。 「……は? 今、なんて言った?」 「さっき、誰の夢かって聞いただろ?」奏汰は言った。「紬だよ。君の母の夢なんだ、ここは」  その瞬間、幻の中での奏汰に対する印象が「やばい奴」から「危険な奴」へと格上げされた。  幻は再び奏汰の前に歩み寄った。胸ぐらを掴みたい衝動を必死に抑え、低い声で問い詰める。 「お前、何者だよ。どうして母さんの名前を知ってる?」 「俺は紬の彼氏だ」奏汰は言った。「あ、もちろんここじゃなくて、現実での話。説明すると長くなるけど……とりあえず『ここ』では、俺が君の父親ってことになる」  幻はぞくっとした。  これはお母さんのストーカーだ。  それも、かなり重症の部類。懐に凶器でも隠し持っているのではないかと想像し、背筋に冷たいものが走った。  幻は態度を一変させ、努めて落ち着いた口調で言った。 「……分かった。信じるよ。じゃあ、ちょっと母さんに電話して確認してもいいか?」  幻はスマホを取り出し、番号をプッシュした。母にかけるのは嘘だ。そのまま警察に通報するつもりだった。  だが、即座に手を遮られた。 「それはダメだ」奏汰が言った。「頼むから、紬には内緒にしてくれ。今、紬は俺の存在をこの夢から徹底的に排除しようとしている。何度も試行錯誤を繰り返して、ようやくバレずに入り込めたんだ。いつ見つかって追放されるか分からないんだよ」 「……」  幻は少しだけ躊躇した。奏汰の表情があまりに切実に見えたからだ。  もちろん、こいつの頭がおかしいという判断は変わらない。だが、不思議と悪人には見えなかった。それに、どれほど荒唐無稽な話だろうと、ただ聞き流すだけではこの男から逃げられない予感がした。  幻は警戒を解かずに尋ねた。 「つまりあんたが言いたいのは、この世界が、誰かの夢の中で作られた幻だってこと?」 「そうだよ」 「いいよ、仮にそうだとしておこう。じゃあ、それを僕に教える理由は何なんだ?」 「紬を目覚めさせるため」  奏汰は説明した。 「言っただろ、ここは紬が見ている夢の世界だ。夢を見るためには眠っていなきゃいけない。つまり紬は、現実ではずっと眠ったままで、外からはどうしても起こせない状態になってる。……まるで、眠り姫みたいに」 「ずっと眠ったまま? ……意識不明ってことか?」 「ああ。昏睡状態で、今は病室で酸素吸入器をつけてる」  幻は聞いた話を整理した。狂人の話を真剣に検討するなど馬鹿げていると思ったが、昼休みの時間はまだ余っている。少しばかり興味も湧いてきたので、幻は一応付き合ってやることにした。 「つまり」幻は言った。「今のこの世界は母さんが見ている夢で、僕が毎日見ている母さんは本人じゃなくて、幻影だってこと?」 「そう」 「……つまり、今俺の周りにあるものすべてが、母さんの作り出した空想に過ぎないってことか」 「そうだ」 「じゃあ、俺も?」幻は自分の顔を指さした。「俺も母さんが作り出した偽物なのか?」 「……」  奏汰は、重々しく頷いた。  どこか申し訳なさそうな彼の表情を見て、幻は鼻で笑い飛ばしてやりたい衝動に駆られたが、かろうじて踏みとどまって会話を続けた。 「じゃあさ、ここが夢の世界だって納得させる証拠はあるの? あるなら見せてくれよ。それなら信じる準備くらいはしてやるから」 「証拠か……」  奏汰は顔を上げた。そして眩しそうに目を細め、しばらく空を仰いでから、再び幻へと視線を戻した。 「――多すぎる」  奏汰は言った。 「どんなに優れた想像力で精巧に再現したつもりでも、結局はまだ十七歳の未熟な頭が作り出した世界だからね。欠陥だらけなのも無理はない」 「だから、その欠陥ってやつを提示してくれよ。口先だけじゃなくてさ」 「君も毎日目にしているはずだよ。例えば、紬の姿とか」 「……は? 母さんの姿がどうしたっていうんだ」  奏汰は少し間を置いた。言うべきかどうか迷っているようだったが、やがて幻に問いかけた。 「彼女、今年でいくつだ?」  幻は頭の中で計算してから答えた。 「四十一だけど」 「四十一か。それなら、君を二十五歳くらいのときに産んだ設定なんだな……」  奏汰は独り言のように呟くと、続けて訊いてきた。 「君は本当に、紬がその年齢に見えるのか? 四十一歳にしては、あまりにも若すぎないか?」 「ああ、その話か……」幻は肩をすくめた。「まあ、母さんはかなりの童顔だよ。一緒に歩いていると、時々高校生カップルじゃないかって誤解されるくらいだから」 「無理もない。紬は実際に高校生なんだから」 「……」 「紬は童顔なんかじゃない。本当に十七歳の女子高生なんだ。現実の紬の姿が、夢にもそのまま反映されているだけ。なんで外見を夢の設定に合わせなかったのかは俺も分からない。老いた自分の姿を想像するのが難しかったのか……あるいは、単純に具現化したくなかったのか……」  幻は、無意識に眉間に皺を寄せていた自分に気づき、慌てて表情を緩めた。だが、揺らぎ始めた動揺を抑えることはできなかった。  ――確かにおかしい。  改めて考えれば、紬は非現実的なほど若かった。  それをなぜ今まで不自然に思わなかったのか、今さらながら不思議でならなかった。 「でも……」それでも幻は反論を試みた。「だとしたら、なんで周りの人間は疑問を持たないんだ? 俺だけじゃない。今まで母さんの若さを深刻に指摘した人なんて、一人も……」  そこで言葉が詰まった。  その理由を、奏汰が代弁する。 「そりゃあ、夢だからだよ。夢の中では、たいていの不都合はスルーされる。現実ではあり得ない歪んだ状況でも、『夢の中の論理』に沿って、自然に受け入れてしまうだろ?」  幻はゆっくりと、何度も首を横に振った。 「こんな馬鹿げた話に真面目に反論したくはないけど……」  幻は言った。 「分かった。百歩譲って、お前の言うことが本当だとしよう。ここが母さんの夢の世界だとする。じゃあ、母さんはなんでこの世界を自分の思い通りにしないんだ?」 「……どういう意味だ?」 「母さんは、週末も休まずに毎日働いてる。掛け持ちまでしてさ。表には出さないけど、かなり疲れてるんだ。もし本当に思い通りになる夢なら、お金なんてわざわざ稼がずに作ればいいじゃないか。何もかも好き勝手に操って、神様みたいに楽しく暮らせばいいだろうがよ」 「紬はね、」奏汰は静かに答えた。「本人も、ここが夢の中だとは気づいていないんだ。自分の記憶や意識さえも操作してしまったから。この夢を、『現実』として認識するために」 「なんでわざわざそんなことを……」 「俺にも分からない。ただの推測だけど、たぶん君に『普通の』母親として接してあげたかったんじゃないかな。何でもできる創造主みたいな存在じゃ、リアリティがないだろ? 下手したら、君に夢だと見破られてしまうかもしれないし」 「見破られるわけないだろ。創造主なら、俺の意識なんて簡単に操作できるはずじゃん」 「それが……」  奏汰は言葉を切り、少し間を置いた。彼の瞳に、鋭い光が一瞬だけ宿った気がした。 「不思議なことに、君だけには干渉できなかったんだ。たった一人、君だけが例外だった」 「干渉できなかった……? どういう意味だよ」 「紬が夢の中のすべてを意のままに操れても、君にだけはそれが通用しなかった。もしそれができていたら、君はそもそも生まれることさえ――」  奏汰は突然言葉を止め、視線を窓の外へと走らせた。その視線の先、学校の正門に数台のパトカーが滑り込んでくるのが見えた。 「まずいな」奏汰が忌々しげに呟いた。「もう嗅ぎつけられたか」 「……お前を捕まえに来たのか?」 「ああ。そろそろ行かないと」  幻はパトカーから降りてくる警官たちを見て、咄嗟に奏汰の手首を掴んだ。 「やっぱり犯罪者だったんだな! いつから母さんをストーキングしてたんだ!」 「違うって! 全部説明しただろ!」  奏汰は腕を振りほどこうとしたが、幻は力を込めて離さなかった。それでも、本気を出せば振り切れるはずなのに、奏汰はふと腕の力を抜いた。そして、逆に手首を掴んでいる幻の手の甲に、自分のもう片方の手を重ねた。 「頼む」  奏汰は言った。 「この世界で紬の心を変えられる存在がいるとしたら、それは君だけなんだ」 「またその話かよ」幻は露骨に嫌悪感を示した。「もうあんたの妄想は聞き飽きた」 「妄想じゃない! 信じてくれ。今の状況を変えられるのは――」 「じゃあ、あんたがやればいいじゃん!」  幻は思わず怒鳴りつけた。自分でも驚くほどの激昂だったが、抑える気にはなれなかった。  幻は握っていた奏汰の手首を投げ出すように放して言った。 「そんなに母さんのことをよく知ってるなら、職場だって知ってるだろ? 俺に言わないで、あんたが直接会って説得しろよ。邪魔はしないから」 「俺じゃダメなんだって言ってるだろ」  奏汰は校門の方に視線を固定したまま言った。見れば、騒ぎを聞きつけた警官が三人がかりでこちらに近づいてきている。そして幻は絶句した。 三人とも、その手に拳銃を握っていた。 「あの人たちが見えるか?」  奏汰は緊迫した口調で言った。 「俺を捕まえに来たんじゃない。殺しに来たんだ。夢の中で死ねば、強制的に意識を弾き出されるからな。遠く離れていてもこのありさまだ。もし俺が紬に近づいたらどうなると思う? 自衛隊が出動するかもしれない」 「……っ」 「目立った瞬間に俺は消される。でも、君は違う。紬は、君だけは消せないんだ。消せないだけじゃない、消そうともしない。なぜなら、この夢は君一人のために作られ、維持されているから。だから――」  突如、校庭に銃声が轟いた。  幻は反射的に身をかがめた。間髪入れず、数発の銃声が続く。弾丸が幻の髪を掠めて背後の石像を砕き、飛び散った破片が幻の頬を打った。  悲鳴があちこちで上がり、校庭はパニックに陥る。  警官たちは幻の、正確にはその隣にいる奏汰に向かって、無差別に引き金を引き始めた。  逸れた弾丸が教室のガラスを砕き、アスファルトを打って火花を散らす。  幻は両手で頭を抱え、必死に体を丸めた。  極度の恐怖で思考が麻痺する中、奏汰が幻の手を引いて太い木の影に隠してくれた。  彼は何かを伝えようと口を開いたが、銃撃が激しすぎて断念した。  奏汰は幻の側を離れ、警官たちの反対方向へと駆け出した。校舎の角を曲がり、その姿を消す。  すぐに警官たちが、幻が隠れている木の裏へ回り込んできた。彼らは幻を一瞥し、奏汰がいないことを確認すると、すぐに散り散りになって追いかけていった。  その後も断続的に銃声が聞こえてきたが、音は徐々に遠ざかっていった。  そして昼休みが終わる頃には、まるで何事もなかったかのように、学校には元の静寂が戻っていた。