放課後。
幻は、ハッと我に返って周囲を見回した。帰宅する電車の中だった。
奏汰という嵐のような人物が通り過ぎた後、残りの時間をどう過ごしたのか思い出せないほど、意識は朦朧としていた。
幻は震える手でスマホを取り出した。あの事件を調べるためだ。平凡な高校であれほどの銃撃戦があったのだ。ニュースにならないはずがない。
しかし、どれだけ検索しても、該当する情報は一件も見つからなかった。
自分の通う学校で起きた凄惨な事件が、ネットのどこにも存在しない。
幻が訝しげに顔を上げたその時――。
停車した駅のホームに、奏汰の姿があった。
幽霊を見たかのような気分だった。
ドアが開いているうちに逃げ出せと本能が叫んでいたが、結局、幻は動けなかった。恐怖よりも、彼と話をしなければならないという奇妙な義務感が勝ったのだ。
電車のドアが閉まり、奏汰が幻の隣に腰を下ろした。
二人はしばらく無言のまま、流れていく窓の外を眺めた。
やがて、奏汰が先に口を開いた。
「調子はどう? 怪我はないか」
「……それはこっちのセリフだよ」
声が掠れたが、幻は構わず続けた。
「よく、生きて戻ってこれたな」
「ああ」奏汰は少しだけ笑った。「逃げ回るのには慣れてるからな。……そろそろ俺の話を信じる気になってくれた?」
「……いや」
幻は視線を逸らして言った。
「考えてみたけど、母さんはただ、現実味がないほど若く見えるだけなんだ。それだけ。だから、夢だとか現実だとか、そんな話はもう聞きたくない。……もう、終わりにしてくれ」
奏汰は溜息を吐き、苛立ちを隠さずに訊ねた。
「あんなに大勢の警官が、俺に向かって銃を乱射したのを見ただろ。それをかわして、今こうして平然と電車に乗っている俺を見ても、まだ何も感じないのか?」
「うん。感じない。お前が実はどこかの特殊部隊員だとかスパイだとか、まあそんなところだろ」
「その方がかえって現実離れしてる気がするけどな」
「とにかく、お前のデタラメは信じないからな!」
幻が声を荒らげると、乗客たちの視線が一気に集まり、そしてまたゆっくりと散っていった。それでも幻は引かなかった。
「そんなことだけじゃ、ここが夢だという証拠にはならない。確かに非日常的ではあったけど、非現実的ではなかった。母さんの若さも、警官たちの襲撃も、すべて『物理的にあり得る』ことだろ」
奏汰は先ほどよりも深い溜息を吐いた。そして、窓の外を眺めながら言った。
「じゃあ、『物理的にあり得ない』ことを見せたら、その時は信じてくれるか?」
幻は一瞬ためらったが、やがて消極的に頷いた。
「……信じるも何も、認めるしかないだろ。もしそんなことが本当にあるなら」
「分かった。それじゃ、見せてやるよ」
思わず、喉が鳴った。「……何をだよ」
「言葉で説明するのは難しいな。この後、何か用事はあるか?」
「ないけど」
「じゃあ、ちょっと付き合ってくれ」
「どこに」
「どこかに行くわけじゃない。ただ、いつも降りる駅で降りずに、ここに座り続けていればいいんだ」
「何のために?」
「行ってみれば分かる。君にも『見える』かどうかは分からないけどね」
「……」
幻は躊躇したが、返事をする代わりに、いつも降りるはずの駅を座ったまま通り過ぎた。
幻はしばらくの間、奏汰と共に電車に揺られた。
いつもより揺れが激しいような気がしたが、これまで一度も通ったことのない路線を走っているのだから、そんなものだろうと自分を納得させた。
奏汰が特に話しかけてこなかったので、幻はずっとスマホで学校の銃撃事件に関する記事を探し回った。ニュースサイトやウェブ検索だけでなく、SNSの隅々まで調べたが、何も出てこない。挙句の果てには、同じクラスの友人に探りを入れるメッセージを送ってみたが、誰も返信をくれなかった。
幻は隣に座る奏汰をちらりと見た。当事者に訊けばすぐに済む話なのだろうが、どうしてもそうしたくはなかった。
幻はスマホから目を離し、手持ち無沙汰に窓の外を眺めた。案内表示を見れば、電車は終着駅に近づいている。あとどれくらいかかるのか奏汰に尋ねようとしたが、そのまま窓の外の光景に目を奪われた。
「……っ」
自分の目を疑った。
瞬きをしても、目を擦ってみても、眉間に深い皺を寄せて凝視しても、見間違いではなかった。
何も、なかった。
建物や道路、空といった、当然そこにあるべき風景が、塵一つ残さず消え去っていた。
空色なのかアイボリーなのかも判別できない、無機質な色彩の空白だけが車窓の向こうに広がっている。
幻は慌てて他の方向も眺めた。前も、横も、後ろもすべて同じだった。車両の外にはひたすら無限の虚空が拡張されているだけで、輪郭を持つ物体は何一つ存在しなかった。
完璧なまでの空虚。
喉の奥から、思わず呻きが漏れる。
恐怖を超えた虚無感に圧倒され、幻は必死に周囲を見回した。同じ車両にはまだ何人かの乗客が残っていたが、驚いている者は誰もいない。明らかに窓の外が見えているはずなのに、皆平然と本やスマホに目を落としている。むしろ彼らは、過呼吸でも起こしたかのように息を荒らげ始めた幻に対し、不審な、あるいは心配そうな視線を向けてくる始末だった。
「幻」奏汰が静かに尋ねた。「見えるんだな。……大丈夫か?」
「……大丈夫なわけないだろ」幻は激しく首を振った。「なんだよ、これ。何なんだよ!」
「怖がらなくていいよ」
奏汰が幻の手を握り、落ち着かせるように言った。
「このまま急にどこかへ飛ばされたり、墜落したりすることはない。……もうすぐ、元の景色に戻る。たぶんね」
幻は奏汰に握られた手を振り払う余裕もなく、必死に呼吸を整えた。
どうにかして状況を把握しようと抗う。不思議と、自分が狂って幻を見ているとは、これっぽっちも思わなかった。ただ、この現象の正体を知りたかった。
「マジック……みたいなものだろ?」幻は聞いた。「空間芸術とかさ。実はこの窓ガラスがスクリーンになっていて、CGを流してるとか」
「違うよ」
「それとも、俺に催眠術でもかけたのか」
奏汰は首を横に振った。「違う」
「じゃ、俺の頭がおかしくなったっていうのかよ!」
幻は藁をも掴む思いで周囲を見渡し、少し離れた席に座っている乗客に視線を投げた。四十代のサラリーマンに見える、ごく平凡な男性だった。
「すみません」幻は彼に呼びかけた。「ちょっと、すみません」
男性はスマホから目を離し、不機嫌そうに幻を見た。
「……なんだね」
幻は窓の外を指さした。「窓の外に、何が見えますか?」
「……」
男性は不審げに眉をひそめたが、幻の表情があまりに必死だったからか、しぶしぶ窓の外に目を向けてから答えた。
「街の風景が見えるが。普通に」
「街って……俺には何も見えないんですけど……」
幻は窓の外と男性を交互に見つめ、さらに畳みかけた。
「普通って、具体的にどう普通なんですか? おかしいところはないんですか?」
「……はあ?」
「例えば、ホワイトアウトみたいに真っ白で何も見えないとか……」
「なんだお前、ふざけてるのか?」
「いいえ、なんでもありません……」
幻は力なく首を振ると、こくりと頭を下げた。
「すみません。失礼しました」
そのまま席を立ち、他の乗客にも同じ質問を繰り返して回った。
だが、ほとんどが最初の男性と同じ答えを返すか、あるいは幻を狂人を見るような目で見て、そそくさと席を移してしまった。
幻は結局、元の席に戻って座り込んだ。洗顔でもするかのように両手で何度も顔をこすり、奏汰にぽつりと呟いた。
「……やっぱり、狂ったのは俺の方みたいだな」
「さあね」奏汰は肩をすくめた。「本当に狂っている人は、自分が狂っているなんて自覚できないものだと思うけど」
「じゃ、何なんだってんだよ。……ここが、本当に母さんの夢の中だって言うのか?」
「そうだよ」
「じゃ俺は……本当に生まれたんじゃなくて、ただの想像上の存在にすぎないってこと? ……本当に?」
奏汰は淡々と、けれど重々しく頷いた。「……ああ」
「全部作り物なのか? 家も、学校も、友達も、俺の周りにあるものすべてが?」
「そう。すべて紬の想像の産物。ここは、紬の脳内なんだから」
「……俺が、偽物。……本当に?」
幻は手で口を覆った。吐き気がじわじわとせり上がってくる。
「記憶は? 俺が持ってる思い出も全部偽物なのか? 俺が生きてきた十七年間は、母さんが捏造したまやかしの記憶なのかよ」
「いや。それは違うと思う」
奏汰は説明した。
「この夢の中の時間は、現実よりずっと速く流れているんだ。現実の時間で考えれば、君が生まれてからまだ一ヶ月ほどしか経っていない。けれど、この中では十七年もの月日が流れたんだよ。正確に計算したわけじゃないけど、体感の比率はそれくらいのはず」
「……一ヶ月?」
あきれて乾いた笑いが漏れる。
「俺、生まれてから一ヶ月しか経ってないのか」
「現実の尺度で測ればね。でも、この夢の中では一分一秒の捏造もなく、君は十七年間を確かに生きてきた。紬と一緒にね。俺もたまに遠くから、君が成長していく姿を見ていたから……これだけは確かだ」
幻は少しだけ安堵したが、再び窓の外に広がる異常な光景を見て、それが何の気休めになるのかと自嘲した。不幸中の幸いと呼ぶには、あまりにも絶望が深すぎた。
「学校でも言ったけど、」
奏汰は言葉を重ねた。
「現実の紬は今、昏睡状態で酸素マスクをつけていて、日に日に衰弱している。見るに堪えないほど痩せ細っているんだ。これほどの規模とクオリティの明晰夢を維持するだけでも、膨大なエネルギーを消費するからね」
「……」
「その上、時間の流れまで大幅に操作した。一ヶ月という期間を無理やり十七年に延ばしたんだから、現実の二百倍以上の速度で脳をフル回転させている計算になる。コンピュータならとっくにオーバーヒートして、焼き切れているレベルだよ。それほどの酷使に、身体が耐えられるはずがない」
幻は、母がなぜそこまでして時間を引き延ばしたのかを問おうとしたが、すぐに止めた。本人以外の誰かに訊いても意味はないし、何より訊きたいことが山積みすぎて、逆に思考が停止してしまった。
「案の定、」奏汰の声が続く。「紬ももう限界が来たみたいだ。この数日で、夢の中の速度が目に見えて落ち始めている。もはや現実とほぼ変わらないほどにね。速度だけじゃない。視覚的な欠陥……エラーも増え始めている。今、窓の外に広がっているこの光景も、その一つだよ」
「エラー、か」
もはや笑うこともできなかった。
寒くもないのに、顎がガタガタと震え出す。
これ以上は何も聞きたくなかったが、奏汰の告白は止まらない。
「これから先、あらゆる場所で歪みが生じるだろうと思う。この夢は今、急速に崩壊しつつある。紬の身体は今、死にかけているんだ。このままだと本当に……」
「わかった。……もういい」
幻はたまらず片手を上げて、彼を制止した。
「少し黙っててくれ。……今、吐きそうだから」
「……ああ、悪い」
奏汰はそれ以上、何も言わなかった。
幻はしばらく蹲ったまま、思考の迷路に迷い込んだ。
考えというよりは、走馬灯のような記憶の断片が、脈絡もなく頭の中を駆け巡っていく。
ふと視線を上げると、窓の外の風景はいつの間にか「正常」に戻っていた。だが今度は、電車の方が正常ではなかった。
車両が、幻が最初に乗ったはずの駅に停車していた。
路線を一周したわけでもなく、乗り換えたわけでもない。これは、物理的にあり得ないと言える。
奏汰の言う「エラー」の仕業に違いない。
だが、幻は先ほどのように怯えることはなかった。ただ、酷い眩暈に襲われるだけだった。
「……降りる」
停車し、ドアが開くと同時に、幻は外へと飛び出した。そのままトイレを探して走ったが、耐えきれず途中の茂みで吐き戻した。
後から追ってきた奏汰が、無言で背中をさすってくれる。
幻は腰をかがめたまま、凄絶な呻きとともに嘔吐を繰り返した。
ようやく落ち着いた頃、奏汰がティッシュを数枚重ねて差し出した。幻はそれを受け取って口を拭い、荒い息を整えた。
胃の中身どころか、血管の血まで根こそぎ抜き取られたような空虚感。
手足が痺れ、内臓を絞り出すような腹痛が残ったが、それもすぐに薄れていった。
幻は嘔吐した際にこぼれた僅かな涙を無造作に拭うと、重い足取りで歩き始めた。自分が汚した場所が気にならなかったわけではないが、どうせここは夢なのだと思うと、後片付けをする気も、申し訳なさを感じる心も、どこかへ霧散してしまった。
「……君には、酷な話かもしれないけれど」
奏汰が後ろからついてきながら言った。
「ここが夢の世界だってこと、もう信じてくれるようになったよね?」
「ああ。おかげさまで」幻は感情の失せた視線を投げかけた。「これで満足か?」
奏汰の顔に一瞬だけ申し訳なさが浮かんだが、すぐに消えた。
「幻。君にお願いがあるんだ」
彼は幻の目を真っ直ぐに見据え、言葉を継いだ。
「君が紬を……君の母さんを、夢から目覚めさせてほしい。頼む」
幻は「今すぐ目の前から消えてくれ」という衝動を必死に抑え込み、短く尋ねた。
「……どうすればいいんだよ」
「方法は二つある」
奏汰は説明した。
「一つ目は、本人の意志で目覚める方法だ。眠りに落ちた位置に戻り、現実の自分と同じ姿勢を取って、意識を『外』に向ければいい。ただ、これは本人がここを夢だと自覚していることが前提だ。だから、まずは紬に正気を取り戻させる必要がある」
彼はそこで言葉を切り、沈黙した。幻は学校で聞いた話を思い出し、何が続くか察しがついた。
言葉に詰まっている奏汰を促すように、「二つ目は?」と先を促すと、彼は重い口を開いた。
「二つ目は強制的に起こす方法……つまり、夢の中で殺せばいい。もちろんこれは無理だから、一つ目の方法で行くしかない」
「つまり、母さんにここが自分の夢だと認めさせればいいんだな」
「そうだ。認めた後に、現実に戻るよう説得もしなければならないだろうけど」
「それで、母さんが目覚めた後は? ……俺はどうなるの?消えるのか?」
「いや、それはないと思う」
奏汰は確信に満ちた口調で言った。
「君がまだ赤ん坊だった頃の話だけど、君を一人残して、俺たちが一度夢から出たことがあったんだ。翌日、また戻ってみたら、君はちゃんとそのまま残っていたよ。だから、多分大丈夫だ」
「この世界は? そのまま続くのか?」
「同じように維持されていた。だから、紬が出た後もきっと消えはしないはずだよ。今ほど精巧ではなくなるかもしれないけど……たぶんね」
「たぶん、ばっかりだな」
「……ごめん。その先のことは、正直俺にも分からないんだ」
幻は溜息を吐くと、話を続けた。
「いつまでに目覚めさせなきゃいけないんだ?」
「一刻を争う状況ではある。けれど、今日中にとは言わない。ただ、早ければ早いほどいいんだ。何度も言うけど、紬の身体はもう限界なんだよ」
「……とりあえず、わかった」
話しながら歩いているうちに、駅の出口まで来ていた。
幻は改札に戻ろうとしたが、思い止まった。あの『エラー』に満ちた箱に、再び乗る勇気が湧かなかった。
「帰る」
幻はそう言い捨てて、出口へ向かってとぼとぼと歩き出した。
「え、歩いて帰るのか? ここ、まだ学校の近くだけど」奏汰が驚いて尋ねた。
「ああ。歩いて帰る」
「電車が嫌ならタクシーを呼ぼうか?」
「いいって」幻は苛立ちを隠さずに遮った。「とにかく、今日はもうここまでにしてくれ」
「……わかった」
奏汰はそれ以上、ついては来なかった。
幻は一人で出口の階段を上がった。背後から、奏汰の「お気をつけて」という声が微かに響いた。