← 目次へ戻る

13


紬として生きるようになってから約一ヶ月が経ったある日。  幻は奏汰に誘われ、放課後のファミリーレストランに立ち寄った。  二人は窓際のテーブルに座り、軽い飲み物を注文した。店員が去った後、二人はしばらく無言で窓の外を眺めていた。  呼び出しておきながら何も言い出さない奏汰に痺れを切らし、結局、幻が先に口を開いた。 「それで? 話したいことって何?」 「……最近、体の具合はどうだ?」 「心配しないで。母さんの体だ、健康には気をつけてる」 「……その割には、特大サイズのパフェなんて注文したんだな」  幻は一瞬言葉に詰まったが、すぐに反論した。 「いいじゃないか、パフェくらい」 「甘いものが好きなのは、やっぱり紬と一緒なんだな」 「……で、話って? 用件だけ手短に言えよ」 「わかったよ」  奏汰は待っていたとばかりに、本題を切り出した。 「紬はどうした。もう一ヶ月経つけど、まだ出てこないのか?」 「うん。全然。夢さえ見られないんだ」 「そうか……」  会話が途切れる。  幻は不審そうに奏汰を睨んだ。  まさかこんな確認のためだけに呼び出したわけではないだろう。ましてや、放課後の穏やかなひとときを楽しもうという仲でもない。  奏汰の顔には、隠しきれない疑念が浮かんでいた。 「……お前、まさか嘘をついてるんじゃないだろうな?」  幻は苛立ちを抑えながら問い返した。「どういう意味だよ」 「本当は、紬の居場所を知ってるんじゃないのか?」 「知らないって言ってるだろ!」  幻はついに声を荒らげた。 「こんなことで嘘をつくわけないだろ。俺だって、自分がここに居座っちゃいけないことくらい分かってる。戻れるなら今すぐにでも戻りたいよ。でも、どうすればいいか分からないんだ。お前だって、休み時間に何度も明晰夢を試して、結局入れなかったじゃないか」 「さあな」  奏汰は肩をすくめ、吐き捨てるように言った。 「君が、俺を入れないように邪魔してるのかもしれないだろ」 「……っ」  幻は絶句した。  奏汰は最初から、幻を信じるつもりなどなかったのだ。  幻が呆れて黙り込むと、奏汰はそれを好機と見たのか、さらに畳みかけた。 「幻。もう……紬の体から去ってくれ」  幻は下唇を噛んだ。  痛いほど強く噛み締めたが、ふとこれが母の体であることを思い出し、力を抜く。そして奏汰と真っ向から視線を合わせる。  彼の瞳には、紬を案じる色だけが溢れていた。  最初は嘘でもついて彼を安心させようかとも思ったが、その表情を見て、幻は急に考えを変えた。 「嫌だ」 「……何?」 「俺は生きる。このまま消えたくない。きっと母さんがそう望んで、俺をこの現実に送り出したんだ」 「……」 「だから俺は、生きることに決めた」  奏汰はしばらく呆然と幻を見つめていたが、やがて視線をテーブルへと落とした。  後悔しているのか、あるいは諦めたのか。  その沈んだ仕草を見て、幻の胸がチクリと痛んだ。 「ところでさ」幻はあえて言葉を継いだ。「あんたの理屈で言えば、あんたは俺の父親だろ? なのに自分の子供に消えろだなんて、酷いよ」 『父親』という言葉に、奏汰が弾かれたように顔を上げた。 「そ、それは……例え話だろ。あくまで夢の中での出来事だし、確かなことじゃない」 「なんで? 母さんと、やったんだろ?」 「お、おい!」  奏汰は慌てて周囲を見回し、声を潜めた。 「俺がいつそんなこと言った!」 「じゃあ、やってないの?」 「……キスしかしてない。それも、夢の中だけで」 「夢でもやったことには変わりないじゃん」 「だから、キス以外は何もなかったって言ってるだろ!」  奏汰は再び辺りを気にしながら、咳払いで動揺を誤魔化した。 「……とにかく、その話はやめよう。今重要なのはそこじゃないからな」  奏汰は必死に冷静さを取り戻そうとしていたが、顔は赤らむ一方だった。その様子がどうにも癪に障り、幻はわざといたずらっぽく口にした。 「親父」  途端、赤かった奏汰の顔が、今度は一気に青ざめる。 「やめろ」 「なんで? 俺は呼びやすいけどな。これから二人きりの時は、親父って呼ぶことにするよ」 「マジでやめろって!た、頼むから……」  幻は奏汰の慌てぶりを見て満足げに微笑むと、追い打ちをかけるように言った。 「とにかく、そういうことだから。俺は嘘なんてついてない。母さんが勝手に引きこもっちゃっただけなんだよ。これ以上俺を問い詰めないでくれ」  奏汰が反論しようと口を開きかけた時、ちょうど「お待たせいたしました」という店員の声が割り込んできた。  奏汰は溜息とともに口を閉じ、店員は手際よく注文の品を並べていく。  奏汰はブラックコーヒー、幻の前には特大サイズのチョコパフェが置かれた。  店員が去った後、しばし沈黙が流れる。  奏汰が一人で物思いに耽っているようだったので、幻は構わずスプーンを持ち上げた。そして一番上のアイスクリームを掬い、口に運ぶ。 「……?」  チョコの香りが口の中でとろけた瞬間、幻は目を見開いた。  何かが、決定的に違った。  彼はスプーンを口に咥えたまま、石像のように固まった。その異変に気づいた奏汰が、コーヒーカップを持ち上げながら怪訝そうに尋ねた。 「どうした?」  幻はパフェから視線を外し、奏汰を凝視して言った。 「……これ、なんでこんなに美味しいんだ?」 「は?」 「信じられないくらい旨い。え、何ここ? パフェが超有名な店なの?」 「……そんなにか?」  幻は奏汰の前にパフェを突き出した。 「食べてみてよ、ほら」  幻のあまりの剣幕に興味を引かれたのか、奏汰もスプーンを取って一口口にした。二口、三口と確かめるように味わった後、彼は眉を寄せて言った。 「……普通だけどな」 「嘘!全然違うよ?この一ヶ月で食べた中で、間違いなく一番美味しいよ!」 「まあ、甘いのは確かだけど……。本当、甘党なんだな。糖尿になるぞ」 「旨い……旨すぎる……」  幻は感激に震えながら、あっという間に器を空にした。  それどころか、すぐに物足りなさが襲ってきた。高カロリーを摂取したはずなのに、むしろ胃袋が刺激され、空腹感が増していくようだった。  奏汰が呆れ顔で見ていたが、幻は無視してティッシュで口を拭うと、すぐに店員を呼んだ。 「ちょっと待て」奏汰が止める。「まだ食うつもりか?」 「……甘いものを食べたら、今度はしょっぱいのが食べたくなった」  幻はメニューを手に取り、熱心に品定めを始めた。  かつてないほど食欲が滾っていた。写真を見るたびに、あれもこれもと欲求が膨らみ、どうしても一つに絞ることができない。  結局、幻は五つの料理を一度に注文した。 「そんなに頼んで大丈夫か? 無茶すんなよ」 「平気だよ。ちょうど夕食の時間だし。親父も一緒に食べればいいだろ」 「……俺は家で食べるから。あと、その呼び方やめろって」  しばらくして、注文した料理が次々と運ばれてきた。  まるで誕生日パーティーでも始まったかのようにテーブルが埋め尽くされ、立ち上る湯気とともに香ばしい匂いが漂う。 「いい匂い……! めちゃくちゃいい匂いがする!」  幻はしばらく目を閉じ、鼻を近づけて料理の芳香を堪能した後、夢中で食べ始めた。  やはり、美味しかった。  どれもこれも、飛び上がるほどに。 「旨い……」幻は泣き出しそうな心地で言った。「ここ、本当に普通のファミレス? こんなにレベルの高い料理が味わえるなんて……」  奏汰は疑わしげに料理を見下ろし、スプーンでオムライスを一口掠め取って自分の口へ運んだ。 「わからないな」彼は首を傾げた。「味の好みはあるだろうけど、どう考えても普通のオムライスだぞ。他の店と大差ない」 「俺にも分からないけど、とにかく俺の口には最高に合う。ここ、行きつけにするわ。あ……でも、お金がないか……」  幻は財布を開き、残金を確認した。とりあえず今頼んだ分を払う余裕はあったが、その後は無一文になる計算だ。  幻は溜息を吐き、食事に戻った。これが最後のご馳走かもしれないと思いながら堪能していると、奏汰がふと尋ねた。 「……もしかして君、味覚が戻り始めてるんじゃないか?」  幻は動かしていた口を一瞬止め、再びゆっくりと咀嚼した。  確かに、その可能性には思い至っていなかった。  最初に紬の体に入った時は、あらゆる五感が膜を張ったようにぼんやりとしていたが、一ヶ月も経つとその不自由さに慣れ、忘れてしまっていたのだ。  幻は食べ物を飲み込むと、答えた。 「そうかな。でも、なんで急に?」 「分からないけど、現実で目覚めてから、かなりの時間が経ったしな。味覚だけじゃなくて、他の感覚も少しずつ同期し始めてるんじゃないか?」 「……本当かな」 「俺には判断できない。……君自身はどう感じる?」  幻は少し興奮しながら、全身の感覚に意識を集中させた。  瞑想でもするかのような静寂の中でしばらく待ってみたが、やがて小さく首を横に振った。 「……まだ、よく分からない」  確かに今日は何かが違う気がしたが、単なる気のせいかもしれない。  とにかく店内に座っているだけでは、確かめる術がなかった。  幻は急いで食事を終え、外に出ることにした。  いくら美味しくても、一人で五人前を平らげるのは物理的に無理があったが、残すのは忍びなく、途中からは奏汰の助けを借りてなんとか完食した。


 店を出て外へ一歩踏み出した瞬間、夜のそよ風が幻の頬をなでるように通り過ぎる。  幻はその風の行方を追いかけるように空を仰ぎ、ぽつりと呟いた。 「……風が、涼しい」  肌に触れる瑞々しい感触が、いつもより鮮明に、長く残る。  もっと強く吹いてほしいと願ったが、あいにく空は穏やかだった。  幻は胸の奥を突き上げるような言いようのない高揚感に突き動かされ、隣を歩く奏汰に尋ねた。 「自転車。……自転車、持ってる?」  奏汰は怪訝そうに目をしばたたかせた。 「え? ああ、家にあるけど。急にどうしたんだよ」 「乗ってみたい。あっちの世界と乗り心地がどう違うか、確かめたくて」  奏汰は少し考え込む素振りを見せたが、やがて踵を返し、駅とは反対の方角を指差した。 「……分かった。家まで歩いてすぐだから、取りに行くか」 「うん!」  二人は奏汰の家へと向かった。  もどかしさに駆られて今すぐ駆け出したい気分だったが、幻ははやる気持ちを抑え、奏汰の歩調に合わせて歩いた。  期待が大きすぎれば、裏切られたときの反動も大きい。浮き立つ心を、無理やり冷静に引き戻す。


 奏汰の家に着き、二人は庭へと入った。  そこには二台の自転車が並んでいた。  一台はありふれたママチャリで、もう一台は——幻がよく知っているモデルのBMXだった。  幻はそれを指差して尋ねた。「これ、親父の?」 「お前さ……」諦めて答えてくれる。「ああ、俺のだよ」 「……」  幻は吸い寄せられるように歩み寄り、その車体を凝視した。  フレームの曲線、サイズ、色、プリントされたロゴに至るまで。  紬から誕生日プレゼントとしてもらったものと、寸分違わず同じだった。  奏汰が訪ねてくる。「なんだ。それが気に入ったのか?」 「うん」幻はどこか懐かしむような響きを込めて言った。「ずっと、欲しかったやつなんだ」 「……じゃ、それに乗るか?」 「いいの?」 「ああ、構わないよ」 「じゃあ、お言葉に甘えて」  幻はBMXのサドルに跨り、奏汰はママチャリに跨った。  幻が先頭を切り、二人は夕暮れの住宅街へ走り出した。  最初は、周辺を散策するようにゆったりとしたペースで回った。  幻はサドルから腰を浮かせたり座り直したりしながら、慎重にペダルを漕いだ。全身の感覚を研ぎ澄ませ、これまでと何が違うのかを探り続けた。  確かに心地よさはあったが、パフェを食べたときほどの衝撃はない。  背後から奏汰の声が飛ぶ。 「どうだ? 何か違うか?」 「うーん、まあまあかな。……一度、思いっきり飛ばしてみたいんだけど」  幻がそう提案すると、奏汰がハンドルの向きを変えた。 「なら、河川敷に行こう。あそこなら道も広いし、人通りもほとんどないからな」


 まもなく二人は河川敷に到着した。  幻は舗装された道の上で辺りを見回す。  遠くの水際で遊ぶ子供たちの影がいくつか見えるだけで、目の前の道は果てしなく空っぽだった。  幻は直線の先を見据え、一気に速度を上げた。  重いギアの入ったペダルを無理やり踏み込むと、足に鋭い痛みが走った。  母の身体になって初めて感じる、確かな筋肉の軋み。  自然と吐息が荒くなる。 「おい、無理するなよ!」  背後で奏汰が叫んでいる。  だがその声は、幻の背中をさらに押し出す合図にしか聞こえなかった。  幻はさらに深く身を屈め、全力でペダルを回した。  空気が耳元を切り裂くような鋭い音を立て始めると、一瞬だけ恐怖が首筋を掠めた。  転んで母の身体を傷つけてしまう心配よりも、このまま世界の境界を飛び越え、知らない場所へ吸い込まれてしまうのではないかという、根源的な恐怖。  だが、その不安もすぐに消えた。  筋肉の痛みが快感へと変わり、現実の重みが全身を支配していく。  道は依然として静まり返っていた。世界を独占したかのような万能感に包まれ、幻は風を切り裂いて走った。  噴き出した汗が、肌をなでる風の感覚をよりいっそう鮮烈なものに変えていく。  ふと気づくと、幻の唇には満面の笑みが浮かんでいた。 「……気持ちいい」  幻は夜の風を口いっぱいに含みながら呟いた。 「これが現実感ってやつか。……現実って、こんなに素敵なんだな」 「幻!」  後ろから追いついてきた奏汰が、必死の形相で叫んだ。 「速度を落とせ! 速すぎる!」  その声に我に返り、幻は大人しくブレーキをかけた。  奏汰が横に並ぶなり、声を荒らげて叱りつける。 「危ないだろ! 転んだらどうするんだ。何度も言うけど、今その身体は君の身体じゃなくて……」  けれど不意に、奏汰の言葉が途切れた。  幻が不思議に思って見ると、奏汰はどこか射抜かれたような顔で、幻の横顔を凝視していた。 「……何? 俺の顔に何かついてるのか?」  尋ねても、彼は無言のまま動かない。  何が不満なのかは分からなかったが、かといって不快な視線でもなかった。彼が視線を逸らす気配を見せないので、幻はもう一度呼びかけた。 「……親父?」 「あ、……うん」  奏汰はハッと現実に引き戻されたような顔をして、狼狽気味に答えた。 「……いや、なんでもない。ただ、紬の笑顔……久しぶりに見たから」 「……そうか」  幻は、照れを隠せない奏汰の横顔を見て、ニヤリと口角を上げた。 「親父、本当に母さんのことが大好きなんだな」 「う、うるさい。……とにかく、楽しそうでよかったよ」 「……」  その言葉に嘘はないことが、彼の表情から伝わってきた。  幻は少し気まずくなり、視線を逸らして言った。 「……言っとくけど、中身はまだ俺だからな。スキンシップとか、絶対無理だぞ」 「こっちだって無理だよ!」  奏汰が心底驚いたように声を上げた。 「お前とできるわけないだろ。そんな心配、しなくていい」 「そうか。ならいいけど」 「ただ、俺は……」奏汰はまた何かを言いかけて、言葉を飲み込んだ。「いや、なんでもない」 「なんだよ。最後まで言えよ。俺が何だ?」  奏汰はどこか物憂げな表情で沈黙した後、気分を変えるように明るい声で言った。 「それより、自転車以外にもやりたいことはあるか?」  幻はもっと追求しようかとも思ったが、それも面倒になり、質問に答えることにした。 「ああ。やりたいこと、たくさんできた」  幻はリストアップしていたやりたいことを、次々と口にした。  病院にいた頃は指一本動かすのも億劫だったが、現実の素晴らしさに気づいてからは一変した。目に見えるもの、思いつくもの、そのすべてが幻にとっての渇望の対象となっていた。  一通り話し終えると、奏汰がぽつりと呟いた。 「……それ、全部やるとなると結構お金がかかりそうだな」 「だろうな。バイトでもしようかな」 「校則でバイトの許可をもらうのは、なかなかハードルが高いよ」 「そうなのか?」 「ああ。……リストを削るか? こんなこと言うのは悪いけど、紬の体でいつまでいられるか、正直分からないだろ」 「だからこそ、全部やらなきゃいけないんだ。母さんが戻ってくる前に、俺はこの現実を思い切り使い果たしたい」 「……」  いつの間にか二人は河川敷を離れ、太陽も沈みかけていた。  帰路につこうと自転車を止めた時、幻はふと前方に目を奪われた。  視界いっぱいに、見事な夕焼けが広がる。  二人は言葉を失い、ただその景色を眺めた。空はパステル調のグラデーションに染まり、筆で掃いたような薄雲が淡い紫に濡れている。  こんなにも鮮やかで、絵画のように美しい空を、幻はかつて見たことがなかった。 「わかったよ」奏汰が言った。「じゃあ、俺も出資する」  幻は夕焼けから目を離し、奏汰を振り返った。 「何を?」 「君の『現実満喫プラン』の費用だよ。俺も出す」 「え? なんで?」 「なんでって……」奏汰は少し躊躇いながら言った。「一応、俺は君の父親って設定だったわけだしな。まあ、それくらいはしてやってもいいかなって。貯めてた小遣いも結構あるんだ。……嫌か?」  下心があるようには聞こえなかった。  幻は小さく微笑んで答えた。 「いや。助かるよ。ありがとう、親父」  幻は再び夕焼けに視線を戻した。  そして空が深い藍色に沈むまで、その場に立ち尽くしたまま、景色を瞳に焼き付け続けた。  奏汰はそんな幻を、静かに待ち続けていた。