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結局、アルバイトの許可は下りなかった。  校則では成績が平均以上であることが条件だったが、紬の成績はそれを下回っていたからだ。  食い下がってはみたものの、ルールはルールだった。幻は内緒で働こうかとも考えたが、バレれば停学処分は免れないと奏汰に諭され、断念した。  幸いというべきか、紬自身の貯金にはそれなりの余裕があった。  彼女が自分の未来のために蓄えてきた金だと思うと、使うのに少なからず抵抗はあったが、最終的には紬のためなのだ。 「成仏するための経費」だと自分に言い聞かせ、奏汰の言葉に従って使うことに決めた。


 それからというもの、幻は放課後や週末のほとんどを奏汰と共に過ごし、街を遊び回った。  食べ歩きに始まり、映画館、水族館、遊園地。  コース自体はありふれたデートのようだったが、五感が研ぎ澄まされている今の幻には、何をするにも過剰なほどの楽しさがあった。  特に、紬がまだ経験したことのない物事は格別だった。  夢の中では、紬の知識不足ゆえに上手く再現できていなかった未開拓の領域。  それが現実の輪郭を持って現れるたびに、幻の心は激しく揺さぶられた。  そのため、幻は映画や水族館といった定番よりも、紬が興味を持たなかったであろう場所を重点的に回った。遊園地の絶叫マシンを制覇し、インディーズバンドの爆音ライブに身を投じた。  しばらくの間は、ただ純粋に楽しかった。  全身の細胞が沸き立つような快感に身を委ねていた。  しかし、刺激を繰り返すうちに、それらも徐々に日常へと馴染んでいった。短期的で強烈な快楽は、やがて穏やかで緩やかな満足感へと形を変えていった。  幻は、いつの間にかこの現実に、そして紬の体に、完全に適応していた。  幻として生きていた頃の体よりも、今の体の方がずっと「自分」らしく感じられるほどに。  幻はそんな心境の変化に戸惑い、時にショックを受けながらも、どこかで安堵している自分にも気づいていた。  そして紬からは、相変わらず何の音沙汰もなかった。


「海を見に行こう」  下校途中、幻がふと思い立ったように提案した。 「本物の海がどんなものか、急に確かめたくなった」  横に並んで歩いていた奏汰は、空を見上げて「海か……」と低く呟き、静かに頷いた。 「まあ、電車に乗ればすぐだしな。今から行くか」 「うん」


 二人はほどなくして、寂れた浜辺に到着した。  空には雲一つなく、十月の潮風が肌に冷たく刺さる。  幻は奏汰と共に、砂浜へと続くコンクリートの階段に腰を下ろした。  エメラルド色に澄んだ穏やかな水面を、ただじっと眺める。  その風景があまりに静謐で、幻は不意に深い眠気に襲われそうになった。 「どうだ?」奏汰が尋ねた。「夢の海と、違うところはある?」 「……別に。あんまり変わりはないかな。退屈だよ。もう帰るか?」 「え、もう? せっかく来たんだから、もう少しいようよ」 「……」  幻は奏汰の横顔を盗み見る。彼の方から何かを要求してくるのは珍しいことで、少し意外だった。  幻は結局頷いて、再び波打ち際へと視線を戻した。  だが、背後を時折掠めていく車の走行音と、穏やかすぎる潮騒が、ますます眠気を誘う。  幻はとうとう我慢できず、勢いよく立ち上がった。  階段を駆け降り、砂浜へと踏み出す。  柔らかな砂に足が埋もれ、ローファーの中に不快な粒子が入り込んだ。  幻は迷わず靴を脱ぎ捨てた。  靴下も脱いで手に持ち、裸足で歩き始める。  波打ち際まで進み、寄せては返す真っ白な泡に、そっと足を浸した。  冷たい水が素肌に触れた瞬間、感電したように全身の毛が逆立つ感覚がした。  幻は構わず、ふくらはぎの深さまで進んだ。  靴と鞄を砂の上に放り出し、さらに深い場所へと踏み込む。  水面が膝を越え、腰の高さまでせり上がったところで、幻はしなやかに体を沈め、全身を水面下へと潜らせた。  水中の鈍く響く音を聞きながら少しだけ泳ぎ、やがて上半身を突き出した。濡れて乱れた髪をかき上げ、空を仰ぐ。  驚くほど爽快だった。  まるで今、この瞬間に別の命として生まれ変わったかのような錯覚に陥っていく。 「幻!」  いつの間にか波打ち際まで来ていた奏汰が、呆れたように叫んだ。 「着替えも持ってないんだぞ、どうする気だよ!」 「そっちかよ……」幻が笑いながら言い返す。「親父も入れよ! 最高に気持ちいいぞ!」 「いいから早く上がってこい! 風邪引くから!」  幻は忠告を無視して、しばらく海水浴を楽しんだ。  ただ純粋に楽しくて、自然と笑みがこぼれる。  奏汰は幻が投げ捨てた靴と鞄を抱えたまま、困り顔で右往左往しているだけだった。あまり心配させるのも悪いと思い、幻は不承不承、水から上がった。 「何度も言うけどな、幻」  案の定、奏汰の小言が飛んでくる。 「その体は紬のものなんだぞ。風邪でも引いたらどうするんだ!ほら、見ろ、震えてるじゃないか。唇だって青いし」 「そうか? 俺は全然寒くないけど」 「お前がそうでも、体は悲鳴を上げてるんだよ」  奏汰は鞄から自分の体操着のジャージを取り出し、幻に差し出した。幻はそれで髪の水分を雑に拭き取ると、そのまま袖を通す。  ふと奏汰と目が合い、何気なく微笑んでみせる。  奏汰はそんな幻をぼうっと見つめた後、乱暴に幻の頭を撫でて髪をかき乱した。 「帰るぞ」  と、一言残して先に歩き出す彼に、幻も小走りで続いた。


 帰りの電車の中。  幻は座席に座ったままうつらうつらとし、隣に座る奏汰の肩に頭をぶつけて目を覚ました。  体温が下がったせいか、体が小刻みに震える。  寒冷という名の、あまりに心地よい現実感。  幻は向かいの車窓を見つめながら、かつて目にした「ホワイトアウト」の記憶を思い出し、背筋を凍らせた。震えが激しさを増し、幻は逃げるように奏汰の方へ顔を向けた。  奏汰は熱心にスマホを操作していた。  その無防備な横顔を見ると、なぜか心が落ち着いていく。  画面を覗き込んでみると、そこには宇宙産業に関連する画像が次々と流れていた。  宇宙望遠鏡が捉えた鮮やかな星雲や、月面開発のための探査車の写真。 「宇宙に興味あるの?」  幻が尋ねると、奏汰はびくりとしてスマホを隠すように遠ざけた。 「……勝手に見るなよ」 「いや、ルナクルーザーが見えたから、つい。ごめん」 「……え」奏汰の目が丸くなった。「興味あるのか? アルテミス計画」 「うん。実は俺、宇宙飛行士になって、月に行くのが夢なんだ」 「……」 「いや、夢だったと言うべきかな。今はもう、『夢』を見ることもできなくなったし」 「……」  奏汰が沈黙する。  ただただ、見開いた目で幻の顔を凝視している。 「な、何だよ?」  幻が怪訝そうに問うと、奏汰はぽつりと零した。 「……マジか」 「何が?」 「俺もなんだ」  奏汰は静かに、けれど熱を帯びた声で続けた。 「俺も、宇宙飛行士になって月に行くのが夢だったんだ。今はもう、諦めかけてるけど」  幻は奏汰の言葉を反芻し、怪訝そうに聞き返した。 「……それで?」 「え? それでって、お前、これの凄さが分からないのか?」 「何がだよ」 「俺たち、夢が同じなんだよ。これはもう、ただの偶然じゃない」 「……どうせ、母さんがわざとそう設定したんだろ」  幻は吐き捨てるように言った。  しかし、奏汰はきっぱりと首を振った。 「いや、それは不可能だ」 「なんで言い切れるんだよ」 「俺にこんな夢があるなんて、紬には一度も話したことがないから」 「……」 「紬だけじゃない。家族を含め、誰にも言ったことないんだ。日記にすら書いたことがない。……ただ心の中だけで抱いてきた、俺一人しか知らないはずの秘密だったんだよ」  それを聞いて、幻もようやく驚きを覚えた。  なぜなら幻もまた、紬を含め誰一人としてこの夢を明かしたことがなかったからだった。  あまりに身の程知らずな夢だと思っていたから。  けれど、だからこそ心の奥底に、誰にも触れられない宝物のように隠し持っていた。  この世で自分一人しか知らないはずの、幼い頃からの漠然とした、けれど愛おしい夢。 「そんな夢を、幻も同じように持っていたなんて……」  独り言のように呟く奏汰の顔には、隠しきれない喜びが滲む。 「本当は今さっきまで疑ってたんだ。紬が幻の振りをしているんじゃないかって。でも、違ったんだな。幻には、本当に俺の魂の一部が宿っているんだ」 「……」 「幻は、間違いなく俺の子供だ。一人の、確かな人間なんだよ」


 ――一人の、確かな人間なんだ。  その言葉は、駅で奏汰と別れ、帰宅してシャワーを浴び、夕食を済ませた後も、ずっと頭の芯にこびりついて離れなかった。  心地よい余韻はいつしか熱を帯び、全身を包み込んでいく。  幻は、そのまま泥のように眠りに落ちた。  苦しいはずの発熱さえ、痺れるような快感だった。  一生この熱に浮かされてもいいから、ずっとこの「現実」に留まりたい。  誰かの子供として、一人の人間として存在し続けたい。  そう強く願いながら、幻は意識を失うように深い闇へと沈んでいった。