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16


瞼を開けた瞬間、溜まっていた涙がこぼれ落ちた。  幻は袖で目元を拭いながら、上半身を起こした。見回せばそこは紬の部屋で、自分はベッドの上にいた。  再び、紬の体に戻ったのだ。  寝巻きは夜通しかいた汗でじっとりと濡れている。  幻は目から流れたものも単なる汗だと思い込もうとしたが、視界の滲みが、それが涙であることを告げていた。  まだ早朝だった。  幻が額の汗を拭っていると、部屋のドアが静かに開く音がした。  振り返ると、祖母が心配そうな顔で立っていた。 「紬、大丈夫?」  彼女はベッドの縁に腰掛け、幻の背中を優しく撫でた。 「……悪い夢でも見たの?」 「え? どうして?」 「ずっと、お母さんを呼んでたわよ」 「……私が?」 「ええ。『お母さん、お母さん』って。何度も」 「そうだったんだ……」幻はぎこちなく笑いを作った。「ごめん。寝言が多かったみたい」  少しの沈黙の後、祖母がそっと尋ねた。 「……泣いたの?」 「え?……あれ?いつ勝手に流れちゃったんだろう」 「一体、どんな夢を……」  祖母は痛ましそうに眉を寄せた。幻は顔に残った湿り気を袖で乱暴に拭い、平然を装って答えた。 「もう大丈夫。風邪もすっかり治ったみたいだし」 「本当に? 無理しちゃダメよ」  祖母はまだ半信半疑といった様子で幻の額に手を当て、続けた。 「熱は下がったみたいだけど……。体調が悪いなら、今日は休んでもいいのよ?」 「ううん、大丈夫。本当にもう平気だから。学校、行ってくるね」  何度も念を押すと、祖母はようやく納得したようだった。  布団を被って一晩眠り続けたおかげで、身体の不調は消えていた。  夢の残滓に揺れていた心も、朝の光を浴びるうちに次第に落ち着きを取り戻していった。  幻はいつも通り登校の準備を済ませ、家を出た。


 昼休み。  幻は奏汰と共に屋上のベンチに座り、弁当を口に運んでいた。  ふと自分自身に裏切られたような、奇妙な敗北感に包まれる。  昨日までは、この現実の世界で生き続けることを、あれほど強く願っていたはずだった。  しかし、昨夜見たあの空虚な夢一つで、心が百八十度反転してしまった。  甘美な夢から無理やり引き剥がされたような猛烈な喪失感が、今の彼の精神を麻痺させている。  そのせいで、丹精込めて作られた弁当のおかずも、透き通るような秋の青空も、すべてが無味乾燥な記号のようにしか感じられなかった。  沈黙に耐えかねたのか、奏汰が声をかけてきた。 「どうした? 食欲ないの?」 「……ああ、ちょっとね」 「なんだよ、まだ熱があるのか?」 「いや、熱は下がったよ。ただ……」  昨夜の夢のことを話そうかと思ったが、結局飲み込んだ。  あの中に入れる確証もなく、紬の行方も依然として分からないままでは、奏汰に中途半端な期待を抱かせるだけだ。  幻が言葉を濁すと、奏汰は気を利かせたように続けた。 「食欲がないなら、旨いもん食いに行くしかないな。今日の放課後、時間あるか?」  少し浮き足立った奏汰の誘いに、幻は力なく首を振った。 「……今日はいいよ。真っ直ぐ帰りたい。最近遊びすぎて、お金も底をつきそうだし」 「お金は俺が出すよ」 「いいよ。最近、俺のせいで結構使わせちゃっただろ。無理しなくていい」 「無理なんてしてないさ。俺、今はお金持ってるんだ。バイトしてるからな」  幻は奏汰に視線を移した。「……バイト? いつから?」 「幻の感覚が戻り始めてすぐだよ」 「そうだったんだ……。学校の許可は取れたのか?」 「ああ」奏汰は少し誇らしげに顎を上げた。「俺、成績上位だから。とにかく、今日バイト代が入ったから金は俺に任せろ。この前、定休日で行けなかったスイーツカフェ、今日行こうぜ」 「……」 「それに、遊園地にももっかい行きたいって言ってただろ? それも俺が払うから、今度の日曜日はどう?」 「でも……」 「本当に大丈夫だから。幻のために稼いだ金なんだから、遠慮するなって。……一応、俺は幻の『父親』なんだから、これくらいはさせてくれ。な? 行こう」  幻は、熱意に満ちた奏汰の顔をしばらく見つめた。  その真っ直ぐな瞳を前にすると、どうしても断ることができず、幻は結局小さく頷いた。 「……わかった。行くよ」  幻が答えると、奏汰は満面の笑みを浮かべて頷き、再び弁当を口に運び始めた。


 日曜日。  二人は朝早くから合流し、遊園地へと繰り出した。  幻は半分引きずられるような形で奏汰の後をついて回った。  その遊園地は、かつて夢の中で母と何度か訪れた場所と同じ構造をしている。  もちろん、こちらは「現実」だ。  アトラクションがもたらすスリルや風の感触、内臓が浮き上がるような快感は、幼い頃の記憶にあるものより遥かに鮮烈で素晴らしかった。  けれど、心から「楽しい」という感覚は湧いてこなかった。  奏汰の手前、楽しんでいるふりをしてはいたが、頭の片隅には常にあの「夢」の光景がこびりついていた。  あの不気味な夢を見てから、一週間が経とうとしていた。  その後、一度も夢には戻れていない。  もしかしたら、あの時が夢の中に入れる最後のチャンスだったのではないか。  そんな恐怖と、一方でどこか安堵するような気持ちが混ざり合い、幻の心は千々に乱れていた。  相反する二つの感情が、幻の両腕を掴んで左右に強く引っ張り合っている。  彼の理性は、さながら綱引きの綱のようにギリギリのところで張り詰めていた。 「幻!」  突然降ってきた奏汰の声に、幻は肩を震わせて我に返った。 「……あ、うん。何?」  幻が惚けた顔で問い返すと、奏汰は少し不満げに眉を寄せた。 「何をそんなに考え込んでるんだよ。何度も呼んだのに。……俺の話、全然聞いてなかっただろ」  幻は慌てて記憶を辿ろうとしたが、結局、正直に頭を下げた。 「ごめん。……聞いてなかった。何て言ったんだ?」 「もういいよ。二度も言うことじゃないし」 「……ごめん」  奏汰は溜息を吐いたが、すぐに表情を和らげて言った。 「いや、いいんだ。俺こそ悪い。最近、無理やり付き合わせすぎたよな。今日もさ」 「そんなことないよ」幻は必死に否定した。「遊園地に行きたいって言ったのは俺なんだから。ほら、行こう。次は何に乗る?」 「……」  無理にテンションを上げようとしているのは、誰の目にも明らかだった。  奏汰が「もう帰ろう」と言い出すことを恐れ、幻は近くに見えた観覧車を指差した。 「あれ……あれに乗ろう。な?」  奏汰は気乗りにしない様子だったが、幻がその腕を引くと、大人しくついてきてくれた。  待ち客のいないゴンドラへと、二人はスタッフに促されるまま乗り込んだ。


 所々塗装が剥げ、微かな不安を煽るゴンドラの中。  二人は向かい合って座り、しばらくの間、無言で窓の外に広がる景色を眺めていた。  ゴンドラが頂上に向けて半分ほど上がった頃、奏汰が静かに口を開いた。 「……もう、こっちの世界にはだいぶ慣れた?」 「まあ、そうだね」幻は頷いた。「ここに来てから、もう二ヶ月以上経つし」 「二ヶ月か。……早いな」 「うん。現実で過ごした時間が、夢の中で存在した時間の『二倍』になったよ」 「……ってことは、幻は今、生後三ヶ月ってことか」 「そう。まだまだ赤ちゃんだよ。お食い初め、やってくれる?」 「赤ちゃんが自分からリクエストしてくるなよ」  奏汰は呆れたように笑い、「お食い初めか……」と呟いて再び窓の外へ視線をやった。  その横顔が次第に真剣なものに変わっていくのを見て、彼は本気で検討しているのだと気づく。幻はそんな彼を少しばかり呆れて見つめていたが、意を決して、ずっと隠していたことを打ち明けた。 「……実はさ。あの、海に入って風邪を引いた日の夜、一度だけ夢に戻れたんだ。俺が元々いた、あの世界に」 「……本当か?」  奏汰が弾かれたように、熱を帯びた視線を向けてくる。 「それで? どうだった。紬には会えたの?」 「……いや。どれだけ探しても、ダメだった。っていうか、母さんどころか、人間そのものが一人もいなかったんだ。街の形は残っていたけど、どこも荒れ果てていた。まるで、世界の終わりでも見てる感じだったよ」 「どういうことだ……」奏汰が眉根を寄せる。「紬が作った世界が、崩壊し始めているっていうのか?」 「多分、そうだと思う」  奏汰は何かを言いかけて大きく息を吸ったが、結局、それは重い溜息となって漏れ出た。  彼は複雑な表情で足元を見つめ、掠れた声で尋ねた。 「……もし。もし紬に会えたら、幻はどうしたい?」  その問いに、幻の胸がドクンと鳴った。  考えると、指先が冷たくなるほどの恐怖が襲ってくる。  けれど、幻は逃げ場を断つように、力強く言い切った。 「……もちろん。母さんと、入れ替わるよ」 「その後は?」 「その後は……元の世界に戻って過ごすことになるだろうな」 「でも、その世界は今、崩壊してるんだろ?」 「……」  幻は答える代わりに、窓の外へと視線を逃がした。  奏汰もそれ以上は追及してこず、ゴンドラの中に再び静寂が下りる。  奏汰が腕を組んで考えに耽っている間、幻は窓に薄く映る紬の横顔を眺めた。そして、ゴンドラが頂上を通り過ぎ、ゆっくりと下降を始める頃、ぽつりと零した。 「……母さんに、会いたい」  衝動的に込み上げようとする涙を、幻は奥歯を噛み締めて堪えた。 「母さんが、俺の代わりに消えようとしてるみたいだ。そんなの嫌だよ。俺が消えるのも怖いけど……俺のせいで母さんが消えるのは、もっと嫌だ」 「幻……」 「大丈夫。心の準備なら、とっくにできてるから。どうせ俺は、元々本当に生きている存在じゃないんだし。むしろ、二ヶ月も現実を味わわせてもらったことに、感謝してるくらいだよ」  嘘だった。  夢で一ヶ月、現実で二ヶ月。合わせてたったの三ヶ月しか生きられずに消えなければならないなんて、絶対に嫌だった。  耐えきれず泣き出しそうになったその瞬間、奏汰がいきなり口を開いた。 「幻。俺は、お前のことが好きになった」 「え?」溢れそうだった涙が一瞬で引っ込む。「……は?」  奏汰の表情は、どう見ても真剣そのものだった。  幻は反射的に腕を上げてガードを作り、奏汰から距離を取る。そして、ひどく落ち着いた声で言った。 「親父……いや、お父さん。俺、中身はまだ幻だからな?あんたの息子なんだからな?しっかりして」 「え?」  奏汰は最初、何を言われたのか理解できないようだったが、すぐに事態を察して顔を真っ赤にし、両手と頭を激しく振った。 「ち、違う、違う! 」彼が必死に説明する。「誤解するな!そういう意味じゃない! 家族として、人間として好きだって言ってるんだよ!」 「……あ」全身の緊張がふっと解ける。「なんだ、そういうことか」 「当たり前だろ!」  奏汰は火照った顔を手で仰ぎながら、早口で続けた。 「もちろん紬のことは異性として好きだし、いろいろしたいとも思うけど……今は違うんだ。幻、お前が入っている紬の体には、不思議なくらい性的な……その、妙な気配を感じないんだよ」 「……」 「ただ、なんて言えばいいか……慈しみというか。言葉にするのは難しいけど、俺はもう、お前のことを本当の家族だとしか思えなくなってるから」  幻はゆっくりと腕を降ろし、少し皮肉めいた笑みを浮かべた。 「そうか。もうこの体が女には見えなくなったわけか。母さんが聞いたら結構傷つくんじゃないの?」 「冗談を言ってる場合じゃない」  奏汰ははっきりと言い切った。 「幻。俺は、お前に消えてほしくないんだ。その代わりに……たとえ紬が消えることになったとしても」 「……っ、何だって?」  幻は思わず立ち上がりそうになったが、なんとか踏み止まって問い返した。 「それ、本気で言ってるのか?」 「ああ、本気だ。少し前までは俺自身、こんなこと言うなんて想像もできなかったけれど。でも、もうこうなっちゃったんだからしょうがない。気づいたら、お前が可愛くてたまらなくなってたんだ」 「……」 「もし、二人のうち一人しか生きられないっていうなら……幻、俺はお前が生きるべきだと思う」 「信じられない。そんなの……絶対に間違ってる」  幻は何度も首を振った。  だが一方で、彼の言葉が狂おしいほど嬉しいのも事実だった。  矛盾した感情を整理するために、幻はわざと強い口調で反論した。 「親父、今きっと混乱してる。考えてもみろよ、俺は偽物なんだぞ。実際に産まれたわけじゃない、夢の中の妄想に過ぎないんだ。親父自身がそう言ってたじゃないか! 散々言ってきたことを、今更覆すつもりかよ」 「幻は、偽物なんかじゃない」  奏汰の声が、ゴンドラの中に静かに響く。 「幻が生まれたばかりの頃、紬が俺に言ったことがある。実体があるものだけが『本物』ってわけじゃないって。現実に存在しなくても『重さ』を持つことはできるってな。当時は意味が分からなかったけど……幻、お前を知った今なら、その言葉の意味が分かる。だからお願いだ。このまま、ずっと生きてくれ」 「でも、母さんは……?じゃ、親父は、母さんのことはもうどうでもいいのかよ!」 「忘れるわけないだろ!もちろん会いたいよ、死ぬほど。でも、結局これは紬が選んだ道なんだ。俺はもう、彼女の意志に従うことに決めたんだよ」 「……」 「だから幻、お前は自分のことだけを考えればいい。これからはこの現実を、一生懸命生きることだけを考えろ。紬だって、きっとそれを望んでいるはずだから……わかったか?」  幻は返事をしなかった。  紬が本当にそれを望んでいるのなら、なぜ今になってまた夢が見られるようになったのか。  体調を崩して寝込んだことで、一時的に回路が繋がっただけなのだろうか。  紬は何も言わず、一方的に姿を消した。  幻にとっては、それが何よりももどかしかった。  母に会いたい。  会って、ちゃんと話をしたい。  観覧車が一周し、乗り場へと戻ってきた。  それを最後に、二人は遊園地を後にした。  もう遊び回るような気分ではなく、幻は奏汰と別れて真っ直ぐ帰宅した。  リビングのソファに座り、夢に関する専門書を捲る。祖父母と夕食を囲み、シャワーを浴び、翌日の予習を済ませ、スマホで動画を眺める。  いつもの「日常」をなぞるように時間を過ごした後、幻は重い瞼を閉じた。