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15


幻は目を覚ました。  体の重だるさは消え、驚くほどすっきりとしている。  昨夜の悪寒が嘘のようだった。もう一度目を閉じようとして、幻は得体の知れない違和感に目を見開いた。  じっと、天井を見つめる。 「……」  見慣れた天井だった。  けれど、何かが違う。  周囲を見回し、幻は愕然とした。  彼が横たわっているのは、部屋のベッドではなく、リビングのソファだった。  慌てて跳ね起きる。自分の体を見下ろし、鏡へと駆け寄った。  そこに映っていたのは紬ではなく、「幻」の姿だった。  服装も、あの時ソファで眠りに落ちたままの、汗に濡れた制服姿。 「戻った……のか」  久しぶりに聞く自分の声に、わずかな戸惑いを覚える。体の感覚もどこか頼りなく、浮遊感があった。  ふと、天井にぶら下がったままのロープが目に入る。  幻はそれを虚ろな目で見上げてから、スマホを手に取った。時間を確認しようとしたが、画面は暗いままで反応しない。再起動も受け付けなかった。  幻は苛立ちとともにそれをソファへ放り投げ、窓を開けた。  夕闇が迫り、太陽が地平線へと沈んでいくところだった。  薄暗いリビングに明かりを灯し、家中を捜し歩く。  紬の部屋のドアを開ける。  ……誰もいない。  キッチンにも、風呂場にも、人の気配はなかった。 「母さん!」  叫び声は、廃屋のような冷たい沈黙に吸い込まれていった。  耐えきれなくなり、幻は逃げるように家を飛び出した。庭にも紬の姿はなく、門扉を抜けて外へと出る。  彼はその場に立ち尽くし、ゆっくりと周囲を見渡した。  静かすぎた。  人影はおろか、車が走る音さえ聞こえない。  閑静な住宅街であることを差し引いても、異常な静寂だった。  耳が聞こえなくなったのかと疑ったが、自分の激しい鼓動や、アスファルトを叩く靴音だけは耳障りなほど鮮明に響いていた。 「母さん! どこにいるんだ!」  幻は叫びながら走り出した。  歩みはすぐに全力疾走へと変わり、呼吸が荒れ狂う。  母を捜しているのか、何かに追われているのかさえ分からなかった。住宅街を抜け、大通りへと差し掛かる。  そこで、幻は絶句した。  そこには、誰もいなかった。  帰宅ラッシュの時間帯だというのに、人影はおろか、車一台走っていない。  鳥のさえずりも、野良猫の気配さえない。ただ、無機質なアスファルトとコンクリートの塊が、不気味なほど整然と並んでいるだけだった。  幻は、広大な墓標のような大通りの真ん中へと進み出た。  何もない視界の先、巨大な交差点の中央で立ち止まる。 「母さ―――ん!!」  幻が叫ぶと、その声は十字路の四方へと広がり、ビル群に反射して無機質なエコーとなって返ってきた。 「いるんだろ?」  幻は縋るように周囲を見回した。 「どこにいるんだよ。隠れてないで出てきてくれ。……お願いだから」  それからしばらくの間、幻は放浪者のように紬を捜し歩いた。  バスも電車も動いておらず、ただ自分の足で駆けるしかなかった。  夢だと自覚しているせいか、どれほど走っても筋肉が悲鳴を上げることはない。  しかし、幻はやがて足を止めざるを得なくなった。あまりにも、暗くなりすぎたからだった。  西に沈んだ太陽が地平線の彼方へ完全に姿を消すと、街は申し合わせたように一斉に深い闇へと沈んだ。  建物の灯りも街灯も、何一つ灯らない通りは、まるで世界規模の停電に飲み込まれたかのようだった。  何も、見えない。  幻は両手を泳がせるように前方に突き出し、手探りで歩き出した。  目を開けているよりも、逆に閉じている方が明るいのではないかと思えるほどの漆黒。  この暗闇なら、さぞ素晴らしい星空が拝めるだろうと期待して顔を上げたが、天の川どころか星一つ見当たらなかった。  徐々に、方向感覚が削り取られていく。  前後も上下も判別がつかなくなり、やがては自分が目を開けているのか閉じているのかさえ分からなくなった。  幻は暗闇の海を浮遊するように彷徨った末、とうとう力尽きて膝を折った。肉体的な疲労ではなく、精神が磨り減ったせいだった。  幻はそのままアスファルトに横たわり、仰向けになった。  これから何をどうすればいいのか――思考の迷路に沈みかけていたその時。  微かな刺激が視神経を叩いた。  幻が必死に焦点を合わせると、夜空の片隅に、睫毛よりも細い三日月が、小さな埃のように頼りなく浮かんでいた。  幻はその消え入りそうな微光をぼんやりと見つめ続け、やがて訪れた抗いがたい眠りに身を任せた。