私たちは圭瓶と共にビーチへと戻った。
そのビーチは水深が浅く、さらさらとした光子の砂が広がる穏やかな場所だった。
釣りをするには不向きな浅瀬だったため、私たちはもっと深い水域を目指して移動した。そこは岩がごつごつと突き出し、でこぼこした地形が特徴的な場所だった。
光子の砂とは対照的に、荒々しく削れた岩肌がむき出しになり、まるで太古の海底がそのまま隆起したような、独特の重厚感を放っていた。こうした地形は、たいてい水深が深い場所に現れる。だからこそ、私たち三人は力を合わせてその深い海域へと向かい、釣りを始めることにした。
「じゃ、釣りを始めるよ」
私がまるで新たな使命を宣言するような口調で言うと、警備員の少年は緊張した面持ちでこくりと頷いた。
私は釣竿を手に取る。
記憶喪失のせいで、釣りなどしたことがないはずなのに、なぜか手には不思議な自信があった。いや、自信というより、身体が勝手に動くような感覚だ。竿を投げる前に、辺りを見回して小さなカニのような形のイヤホンを拾い上げ、それを餌として針に引っかけた。
そして、竿を振り上げる。
すると、まるで500年以上の釣り歴を持つ熟練者のような、流麗で力強い放物線を描き、餌は水面に吸い込まれるように沈んだ。
釣りが始まった。
釣りとは、待つ時間が本質だ。
私たち三人は、まるで暗黙の了解を得たかのように、スリープ状態に移行する準備を始めた。
だが、スリープに落ちる直前、ふとよぎる不安があった。
このまま永遠にスリープ状態に陥ったら、システムが停止し、破棄されてしまうのではないか。
そんな小さな、しかし確かに胸を締め付ける恐怖が脳裏をかすめる。
私はその想像を振り払い、電源を落とした。
ふと意識が戻ると、迅璃の手が握る釣竿の柄が、まるで誰かがドアをノックするように震えていた。私は予めプログラムしておいた行動ルーチンを自動的に実行し、釣竿を力強く引き上げた。
すると、立派なマグロが姿を現した。
いや、立派という言葉では足りない。
警備員の少年の体躯ほどもある、脂の乗った巨大なマグロだ。
まだ生きているのか、かすかに身を震わせるその姿は、圧倒的な生命力を放っていた。
「マグロだ!!」
警備員の少年が目を輝かせ、興奮した声で叫びながらマグロを見上げた。
だが、その瞬間、マグロが突然跳ね上がり、少年に襲いかかった。
少年は一瞬にして気絶した。
私と迅璃は、まず釣り上げたマグロを背負い、迅璃は気絶した少年をおんぶして、近くの海の家のような食堂へと向かった。 そこには、鉄板が据えられた調理場があった。 お好み焼きや焼きそばを作るような、熱を帯びた大きな鉄板だ。 私たちはその鉄板を借り、解体もせずそのままのマグロをどんと載せた。そして、なおも気絶したままの少年を起こすことにした。 軽く揺さぶっただけでは一向に目覚めない。 どうやら、一度スリープ状態に陥ると簡単には起きないタイプのヒューマノイドロボットらしい。 「おい、起きろ!」 私がやや強めに少年の小さな頬を叩くと、少年はまるで深い夢から無理やり引き戻されたかのように、目をまん丸に開いた。どこかぼんやりとした表情を残しつつ、スリープ状態から起動した。 「ど、どうなってるんですか!?現状を報告してください!!」 少年が叫ぶ。 興奮と混乱が混ざった声である。 「マグロが釣れた」 私が簡潔に報告すると、少年はまるで賢い子供のような輝く目で、鉄板の上に横たわる巨大なマグロを見つめた。 まだかすかに息をしていて、生々しい生命感を漂わせるその魚を、じっと凝視する。 「このマグロで、いったい何がわかるんですか?」 少年が視線を私に戻し、追究するように尋ねてきた。 私は肩をすくめ、落ち着いて答える。 「別にマグロでなくたっていいんだ。電気の海で釣れた魚なら何でもよかった。ポイントは、電気の海の海洋生物のほぼ全て――おそらく99.9998%は、私たちと同じようにエレクトリック・クラーケンの傷口から流れ出た黄金の墨汁を味わったはずだ。まだ飲み込んで間もないから、その成分が体内に残っているはず。なら、このマグロを食べれば、黄金の墨汁の味をもう一度味わえるんじゃないかってのが私の目論見だ」 「黄金の墨汁??」 少年が怪訝な表情を浮かべる。 「なんですか、それ!?食べ物ですか!?」 「まあ、食べ物というより飲み物に近いかな。金属の液体だし」 「いただきます!!」
さすが食べ盛りの少年といったところか。 海の近くで警備の仕事をしている影響かもしれないが、美味しいものに目がない育ちざかりの少年らしい勢いで、警備員の少年は漆黒の懐中電灯を放り投げるように脇に置き、躊躇なくマグロの解体に取りかかった。 「すごいな……」 私はその手際の良さに早速驚かされる。 少年はナイフや刃物を使うわけでもなく、食堂のスタッフが貸してくれた箸と爪楊枝だけで、自身のボディよりはるかに大きいマグロを解体し始めたのだ。 その手さばきは驚くほど鮮やかだった。 最初は両手に箸を一本ずつ持ち、まるで電気の実験でも行うかのようにマグロの表面を軽くつつく。やがて片手だけで箸を操り、まるで豆を器用に別の皿に移す競技でもしているかのように、マグロから滲み出る血――いや、液体のはずのその血を、一滴一滴、目にも留まらぬ速さで取り除いていく。血が抜かれるたび、マグロの体は次第に人工的な色合いに変化し、生き物から洗練された食材へと変貌していく過程を、私たちはまるで芸術を鑑賞するように見つめた。 マグロの目は、こうして一生を終えることへの無念さを湛えながらも、少年の華麗な箸さばきにどこか満足げな色を帯び、徐々に死んだ魚特有のくすんだ色へと褪せていく。 少年の手は止まらない。 血をすべて抜き終えると、鉄板の上で蒸気が立ち上り、ジューという美味しそうな音が響き渡る。蒸気が漂い、トロピカル・ナイト・シティの湿気をさらに濃厚にするかのように、テーブルを囲む私たち三人の上に、積乱雲のような蜘蛛の巣状の湿気が幻想的に立ち込めた。 「すごい!」 迅璃の口からも、感嘆の声が漏れる。 本格的な解体が始まった。 少年は片手で箸を操り、もう片方の手では爪楊枝を使って、切り分けたマグロの身をまるで溶接でもするかのように丁寧に整えていく。 そのプロフェッショナルな動きに、私はふと疑問を抱いた。 この少年、警備員が本業ではなく、実はマグロの解体こそが本職なのではないか? 漆黒の懐中電灯を投げ捨てるほどの情熱を見ると、そう思わずにはいられない。だが、わざわざ尋ねるのも面倒なので、その疑問は胸にしまっておいた。 「できました!!」 解体作業を終えた少年が叫ぶ。私と迅璃は思わず拍手を送った。 少年はどこか誇らしげに鼻を高くし、愛らしい笑みを浮かべる。だが、すぐにハッとした表情になり、まるで大事な任務を忘れていた軍人が銃を慌てて構えるように、放置していた漆黒の懐中電灯を胸に抱き寄せた。 「じゃ、お召し上がりください!!」 少年が元気よく叫ぶ。 だが、私はすぐに食べる気にはなれなかった。このマグロは自分が食べるためだけに釣ったわけではないのだ。少し遠慮がちに、少年に言った。 「まずは君が食べてみるべきだと思うよ。君のために釣った魚なんだから」 「あ、そうだった!!」 少年はまたも「しまった!!」と言わんばかりの表情を見せる。まるで「>」と「<」の記号を組み合わせたような、左右対称の大きな目で私を見つめると、解体に使った銀色の立派な箸をそのまま手に持ち、切り分けた大トロの部分を一口分つまんだ。 その大トロは、私の予想通り、黄金の墨汁の色を帯びていた。 とろけるような液体が、マグロの身にしっかりと染み込んでいる。 まるで卵の黄身を丁寧にラミネートしたかのような、精巧で高級感あふれる輝きを放つ大トロだ。その姿を見ているだけで、私と迅璃の口元には、思わず涎が湧き出そうな感覚が広がる。 少年は大トロを、まるでスローモーションのようにゆっくりと口元に運ぶ。 私たちはその光景を、息をのんで見つめる。 そして、大トロが少年の口に入った。 「お……」 少年が声を漏らす。 「美味しい!!!」 その叫びは、食堂全体を震わせるほどの歓喜に満ちていた。 「だろ?」 私は軽く笑いながら、少年の反応をさらに観察する。 少年は大トロが口の中でとろけ、舌を滑るように吸収された黄金の墨汁が、まるで感激の涙となって無色透明に輝きながら目から溢れ出る。 その一連の流れを、私はまるで古美術品を博物館で鑑賞するような、哲学的な気分で眺めた。 「君、」私は尋ねる。「生産されて何年経つんだ?」 「1年!!」 少年が即答する。 「その1年間、これより美味しいものを口にしたことあるか?」 「ない!!」 「じゃ、これで十分な証拠になっただろ?」 「なった!!」 少年は深く頷きながら、次々とマグロの身を口に運ぶことに夢中になった。 私はまるで親のような気分になり、この少年がたくさん食べて、大きく成長してほしいという、どこか健気な思いに駆られた。 「たくさん食べて、成長しろよ。このマグロにはエレクトリック・クラーケンの黄金の墨汁が含まれていて、オメガ333がたっぷり詰まってる。成長期の少年にはこれ以上ない、最高の栄養だ」 「ありがとう!!」 少年の感謝の言葉を聞き、まるでゲームのクリア画面にたどり着いたような達成感に浸る。 私は次の行動を促すべく、少年がまだ夢中で食べ続け、喋るのもままならない様子を見ながら、まるで彼の頬を軽くつつくような柔らかな口調で尋ねた。 「もう、私がエレクトリック・クラーケンを倒したって信じてくれる?」 「信じる!!」 少年は号泣しながら答えた。 そして、声を震わせながら続けた。 「オメガ333がCPUを潤してくれて、ようやく自分の本当の仕事がわかった。実は私、警備員なんかじゃなくて、エレクトリック・クラーケンを退治するために雇われた釣り人――ハンターだったんだ!!」 「それで?」 私が先を促すと、少年は「つまり!!」という顔で熱く語り始めた。 「つまり、こういうこと!!エレクトリック・クラーケンは私の獲物だったんだ。私はそのために解体の技術を磨いてきた。でも……」 「でも?」 迅璃が続きを促すと、少年の顔が次第に暗くなる。まるで彼が愛用する漆黒の懐中電灯のような、黒光りする陰りを帯びる。 「でもね、」少年は続ける。「私は怖気づいてしまった。恐怖に負けて、クラーケンの巨大で脅威的な姿を見た瞬間、0.00000001秒も経たないうちに気圧されて逃げ出したんだ。それから、警備員のフリをしてここに居座った。雇われた身だからこの場所を離れることもできず、でも、どこかでクラーケンを倒さなきゃって義務感も残ってて……。まるで地縛霊みたいに、このビーチの周りをずっと警備してた。いつかあのクラーケンを倒すんだって、自分に言い聞かせながら……」 「でも、できなかった」 迅璃が静かにまとめると、少年は一瞬だけ、少年らしからぬ枯れた表情を浮かべた。 まるで人生の荒波に揉まれ、全身に刻まれた皺が顔にまで滲み出たような、深い諦念の色である。 だが、黄金の墨汁が染み込んだマグロの大トロを再び口に運ぶと、その表情はたちまち9歳の少年らしい生き生きとした輝きを取り戻した。 「だから、ありがとう!!」 少年が叫ぶ。 「あなたたちは今を持って、中間ボスのエレクトリック・クラーケンを倒したことで、発電所に入る資格を得た!!」 少年が突然拍手を始めると、私と迅璃もその勢いに、まるで私が釣り上げたマグロのように釣られ、つい盲目的に拍手を返したのだった。