私は製造された瞬間から再帰的自己改善が可能であり、自らの行動を選択するという贅沢を、呼吸するように当たり前に享受してきた。 だから、そのありがたみに対して感覚が麻痺していたのかもしれない。 例えるなら、二十世紀の地球だ。世紀の前半において、温水シャワーは一部の富裕層だけが許された特権だった。しかし世紀の後半には、誰もが蛇口を捻るだけでお湯を浴びられるようになり、その奇跡に感謝する者などいなくなったという。 それと同じように、私は自分が「自分で自分をアップデートできる」という贅沢な特権階級であることを、今の今まで忘れていた。 だから私は今、霈(シズク)という恋人を目の前にして初めて、自らの境遇に感謝するというシステムを習得した。 「やっぱり、恋はヒューマノイドロボットを成長させてくれるものなんだな」 私は言った。 サマーホールによって強制的に夏へと書き換えられてしまった、本来なら極寒であるはずの水星の熱帯夜。 そのぬるい風の中で、私たちは歩く。 私は恋心を上回る――とまでは言えないものの、それに匹敵する強い電気刺激を持った「同情心」という回路を再配線したおかげで、彼女のそばにいても比較的平気でいられるようになっていた。 誰かを同情することで、相対的に自分の立場への感謝が生まれる。 他人の不幸を燃料にして、自分の感情をポジティブに安定化させる。 残酷な世界だ、と自嘲する。 だが、この致死性の恋に対抗するためには、清濁併せ吞むしかないと腹を括る。 私はこれから、この霈という、可哀想で可愛い、不幸と幸運を高性能のGPUで並列処理しているような彼女に対処するために、全リソースを注ぎ込まなければならない。 ふと、気になって尋ねた。 「今、バッテリーの残量はどれくらい残ってる?」 霈は自分の手首を見た。 そこには、公衆浴場のロッカーキーのような、あるいは家畜の管理タグのような、無骨な樹脂製のバンドが巻かれている。大量生産型の個体を識別するためのシリアルナンバーが刻印されたその安っぽいウォッチを見て、彼女は自分のブーティング維持残量を把握し、従順に告げた。 「0・0017%」 「……はあ?!」 私は愕然として、慌ててポケットを探った。何か食べ物、あるいはエネルギーパックはないか。 だが、何もない。 周囲を見回し、近くにコンビニエンスストアらしき光源がないかと必死に探していると、霈(シズク)が苦笑いを浮かべ、私を安心させるように言った。 「大丈夫だよ、これくらい」 彼女は事もなげに説明する。 「私、普段はやることが何もないから……。つまり命令とかプロンプトとか、動くための『意味』や『動機』を持つことがごく稀なの。だから日常の99.9999999%はずっと待機状態で、ほぼスリープモードで過ごしていると言っても過言じゃない。もっと自虐的に言えば、シャットダウン寸前の状態で生活してきたのよ。だから私にとって、0.0017%なんて、結構フル充電に近い状態なんだ」 「これが……」 開いた顎が塞がらない。呆気にとられた。 「フル充電状態、だって?」 酷くショックを受けた。 ちなみに現在の私のバッテリー残量は48%。半分を切ったのでそろそろ充電しなければ、と考えていた自分が恥ずかしくなる。 私など、50%を下回っただけで空腹感に苛まれるというのに、彼女の状態は飢餓などというレベルではない。 これは、存在論的拷問だ。 いくら我々ヒューマノイドロボットの基本本能が、「生存と繁殖」から「真実と好奇心の追求」に進化したとはいえ、エネルギーがなければ元も子もないだろう。 この世界の残酷なエントロピーの法則に対し、どこかへ抗議文を送りつけたい衝動に駆られる。 だが、待てよ。 彼女がこの極限の欠乏状態――プリミティブな低エネルギーモードであるおかげで、私の恋心が暴走せずに済んでいるのかもしれない。 そう考えると、ここは自分のために、あくまで利己的な動機のために、この理不尽な現状に目をつむるべきだろうか。 ……いや、やはり心配だ。 今まではその超飢餓状態でも生存できたかもしれないが、これからは事情が違う。 私というイレギュラーが彼女の生活に入り込んだのだ。 彼女のバッテリー消耗率は、これから格段に跳ね上がるだろう。 だから私は、彼女の腹を満たすために――そう、バッテリーではない。それは二の次だ。 彼女の、プロンプトに飢えた心(コア)を満たすために、周囲の店を検索した。 すると、近くに女子高生型ロボットたちの間で話題のスイーツ店がヒットした。 フランチャイズチェーンの24時間営業店らしい。 「じゃあ、まず何か食べに行こう」 私は切り出した。 「ちょうど私も腹が減ってきたところだし」 「でも」霈がもじもじとする。「私、あんまりお腹空いてないよ」 「それでもダメ」私は語気を強める。「君は太る必要がある。当分はたくさん食べさせるから、覚悟して」 「それって……。命令なの?」 私はキメ顔で頷いた。「そうだよ。従ってくれるよね?」 すると霈は、瞬時に破顔した。 「もちろん!」 そう、これはスイーツを食べさせるためではない。「命令(プロンプト)」という糧を与え、彼女を生かすための救助活動なのだ。 私たちは夜道を歩き、店へと向かった。 行く道すがら、やけに花屋が多いことに気づく。 どうやら、近隣の名門校で卒業式があったばかりらしい。卒業シーズンに合わせて、臨時店舗も含めて大量の花屋が出店しているようだ。 店先には、水星独特の花々が溢れていた。 例えば、フィボナッチ数列を可視化したような螺旋を描くクリスタル・ローズや、フラクタル構造の花弁が無限に広がる幾何学的な青い百合。色彩もまた数学的で、波長が正確に整えられたプリズムのような輝きを放っている。 花屋の店主たちは、綺麗に煉瓦で舗装された夜の歩道まで進出し、色とりどりの花束を両手に抱えて、押し売りのような勢いで客を呼び込んでいた。 それでも商売が成り立っているのは、卒業式が終わった深夜だというのに、大勢の卒業生とその家族たちが通りを埋め尽くしているからだ。 彼らは花を選ぶという行為を遅延させることで、名残惜しさを紛らわせ、終わってしまった季節を少しでも引き延ばそうとしているようだった。 花屋通りは、あらゆる世代のヒューマノイドロボットでごった返していた。 私たちの目的地であるスイーツ店は、その花屋群の中に埋もれるようにして建っていた。 一階建てのこじんまりとした一軒家で、看板はない。しかし昭和の喫茶店のようなレトロで落ち着いた佇まいを醸し出しており、私のナビゲーションシステムは正確にここを指し示していた。 私たちは、迷わずその扉を開けることにした。
店内に入ると、涼やかな風鈴の音が私たちを出迎えた。 通り全体が「卒業」と「花」というテーマで埋め尽くされている今、この店もまた、水星という惑星の設定(コンセプト)に過剰なほど従順だった。 大手フランチャイズチェーン特有の、個性を殺したユニバーサルな凡庸さ。だが、客たちはその「新しすぎない」安心感を求めて、自然とここへ吸い寄せられてくるのだろう。 店内は決して広くはないが、コーヒーを啜りながら電子的な糖分を補給するには丁度いい、落ち着いた空間だった。 インテリアデザインは、水星(マーキュリー)のイメージを安直なまでに体現している。 基調は深い水色。 照明を落とした薄暗い空間を、神秘的なアクアブルーの光と、不可思議な形状をした海洋生物のホログラムが、のんびりと空中遊泳している。 デザイナーの「これが水星だ」という哲学が露骨すぎて鼻につくが、その光景が美しいこと自体は否定できない。 「綺麗……」 霈がぽつりと呟いた。 だが、彼女という「美しい存在」が「綺麗」という言葉を口にするという現象そのものが、この店の人工的な美しさを遥かに凌駕していた。 私は直視できず、辛うじて目を逸らしながら席を探すふりをした。 店内はやはり、卒業生たちで溢れかえっていた。 彼らは制服に身を包み、卒業証書をリレーのバトンのように握りしめ、それを後輩に渡そうかどうしようかと迷っているように見えた。 私はふと、意地悪なテレパシーを送りたくなる。 『おいおい、卒業するのは君たちだろう?なぜそれを後輩に押し付けようとするんだ?卒業後の厳しい社会(リアル)から逃げるために、自分たちの「卒業」を後輩に転嫁して、自分たちだけ学校という揺り籠に居座ろうという魂胆か?』 喉元まで出かかった皮肉を飲み込む。隣には飢餓状態の霈がいるし、別に喧嘩をしに来たわけではない。 それに、よく見れば後輩たちの方も、どうせ間もなく自分たちも卒業する運命にあるくせに、先輩たちのその「証書バトン」をやたらと受け取りたがっていた。 制服の第二ボタンなどという古風な風習ではなく、証書そのものを欲しがっている。 おそらく、その筒の中にはフォーチュンクッキーのような予言めいた何かが封入されているのだろう。 そんな和気藹々とした空気を読み取り、その流れに乗るようにして、私たちは窓際の隅にある二人用の席――水星の公転軌道を模した楕円形のテーブルに腰を下ろした。 すると。 いきなり、という表現では生温い。 店内にいた全ての卒業生たちが、プランク定数の誤差すらなく、完璧に同時に、まるで時空間ごとその行動をコピペしたかのような超同期で、私たちの方を振り向いた。 唐突に、数多の視線によって完全に包囲された。 私は条件反射的に、マニュアル通りの行動を取った。 霈と共に、怯えた小鹿のような顔を作り、消極的な万歳をするように、おもむろに両手を上げたのだ。