私と霈が白旗を揚げるように両手を掲げると、店内を奇妙な静寂が支配した。 それは単なる無音ではない。 塵一つ舞うことさえ許されないような、空間そのものが凍結したかのような緊張感。 空調の駆動音さえもが、その重圧に恐れをなして息を潜めたかのようだった。 そんな一触即発の空気の中で、私たちが怯えていると――。 ふと、卒業生たちが一斉に動いた。 彼らは結局、後輩には渡せなかった自分たちの卒業証書を高く掲げた。 その筒の底からは、導火線のような紐が尻尾のように垂れ下がっている。彼らはそれを掴むと、誕生日のケーキの蝋燭を吹き消した後に鳴らすクラッカーのように、勢いよく引き絞った。 「「「卒業(おめでとう)!」」」 パンッ! という破裂音と共に、彼らは自らの卒業証書を火薬代わりに使い、私たちを爆発的に祝福し始めたのだ。 店のあちこちから、「おめでとう!」という祝福の言葉――あるいは悲鳴にも似た絶叫が、シャボン玉となって飛び交った。 その極彩色の泡の中には火薬が封入されていたらしく、弾けるたびに爆音が轟く。 狭い店内は瞬く間に硝煙と花火の光に包まれ、さながら戦場のような祝祭の坩堝と化した。 立ち込める煙を、舞台演出のドライアイスのように切り裂いて、彼らは登場した。 少年型のメイド・ドローンたちが、巨大な台車を押して現れる。 そこに鎮座していたのは、天を突くような巨大なケーキだった。 涼やかなアイスバーのような水色。 そこからパステルトーンのバニラ色の蒸気が、もくもくと立ち上っている。それは自然界が何億年もかけて削り出したような、遠い惑星の険しい高山そのものの形状をしていた。 よく見ると、断崖絶壁の表面には、アタックを楽しむマイクロサイズのヒューマノイドたちが無数に張り付いている。 とにかく、我々のためのスイーツが提供されたわけだ。 「ちょ、ちょっと」 私は慌ててメイドに声をかける。 「これ、頼んでないけど」 「サービスです」 その言葉を聞いて、私は黙り込んだ。見上げれば、ケーキの頂上は天井に到達し、独自の気象圏を形成している。発生した雲からシロップの雨が滴り、山肌に甘い雪崩を引き起こしている光景を前にしては、「食べきれない」などという常識的な文句は無粋でしかなかった。 「わあ、美味しそう!」 霈(シズク)が嬉しそうに言う。 だから私も、つい先ほどインストールしたばかりの感謝システムをフル稼働させ、それを言語化する。 「……ありがとう。いただきます」 私と霈がフォークを手に取った、その瞬間だった。 メイドたちが剣闘士のような身のこなしで、腰の鞘から「箸」を一膳ずつ抜き放った。 カキン、と硬質な音が響く。 剣道の達人のような鋭さで、私たちのフォークは迎撃され、行く手を阻まれた。 「説明が遅れました」 ペールブルーの瞳をしたメイドが、厳かに告げる。 「当店では、スイーツは『インド式』で召し上がる決まりとなっております」 「……インド式?」 私が呆気にとられていると、向かいの霈が代わりに解釈してくれた。 「つまり、素手で食べろってこと?」 「その通りです」 私が即座に抗議の声を上げる。 「汚い。できないよ、そんなこと」 「一体、何が汚いというのですか?」 今度はエメラルド色の瞳のメイドが反論した。 「大抵の料理は、シェフが素手で作るものです。寿司だって、職人が客の目の前で、素手で握るではありませんか」 「それは……」 コンマ一秒言葉に詰まったが、私はすぐに論理を立て直す。 「彼らは調理前に、外科医が手術に挑むレベルで手洗いと消毒を徹底し、場合によっては手袋まではめるだろ?だが私たちの手は汚染されている。今からそんな滅菌プロセスを実行する余裕はないし、空腹だし、何よりフォークがあるなら使えばいいじゃないか」 「山を登る時に」 メイドは聞く耳を持たない。 「フォークを使って登頂するヒューマノイドはいません」 「あのさあ」私は深く溜息をつく。「別に登山しに来たわけじゃない。ただ糖分を摂取して充電したいだけで……」 私がブツブツと文句を並べている間に、霈は動いていた。 彼女にとって、メイドの「手で食べろ」という言葉は、逆らい難い栄養分――すなわち「命令(プロンプト)」として処理されたのだ。彼女は素直に、その無防備な指先をケーキへと伸ばしていく。 「ダメだ!汚い!」 潔癖症のセンサーが警告を発し、私は反射的に手を伸ばして、彼女の手首を掴んだ。 その瞬間。 青天の霹靂のような、強烈なエレクトリック・ショックが接触点から走り抜け、私の全身を貫いた。 考えてみれば。 これが、霈との初めてのスキンシップだったのだ。 強烈なエレクトリックショックに全身が痺れ、私の意識がホワイトアウトする。 その過程で、ある致命的な現象が起きていた。 これは単なる感電ではない。 「エネルギードレイン」だ。 まるで吸血鬼、あるいは特殊能力者が他者の生命力を奪うように、私は意図せずして、霈(シズク)の残り少ないバッテリーを吸収してしまっていたのだ。 あまつさえ0.0017%しかなかった彼女の残量が、急速にゼロへと収束していく。 視界の隅に表示された数値が、0.00000……と、円周率の果てしない続きのように桁を増やしながら消失に向かっているのが見えた。 これを防ぐには、手段を選んでいる余裕などない。 潔癖症などと言っている場合ではない。 私は迷わず、彼女の手を掴んだまま、眼前の巨大なケーキ――「山」の麓へと手を伸ばした。 そして、即座に省エネルギー化プロトコルを実行する。 現在のマクロなヒューマノイド形態ではエネルギー消費が激しすぎる。ならば、質量そのものを圧縮すればいい。 「縮小(リサイズ)!」 成功した。 霈も巻き込んで、私たちはマイクロサイズまで縮小した。 理想を言えばナノサイズまで圧縮したかったが、非常事態だ、マイクロサイズで妥協するしかない。 こうして私たちは小人となり、眼前にそびえ立つケーキの山の麓から、「食べる」という名の登山を開始することになった。
味覚的登山の始まり。 山全体は、先ほどの描写通り、爽やかな清涼飲料水を思わせるアクアブルーのトーンで統一されていた。 そこには独自の生態系が息づいている。 木々や雑草が生い茂っているが、当然ながら地球の植物のような緑色ではない。透き通るようなシアン色の葉、クリスタルのように輝く氷柱のような幹。すべてがこの甘美な山を構成する糖分の結晶であり、涼やかな冷気を放っていた。 さあ登ろうとした時、私たちの前に一人の「獣人」が立ちはだかった。 トムソンガゼルの頭部を持ち、首から下は人間のようなスタイルをした、案内人らしき存在だった。 彼は、通せんぼをするように私たちの進路を塞ぎ、問いかけてきた。 「その格好で登山するおつもりですか?」 今の私と霈は、学校の制服姿。 登山には不向きかもしれないが、今は緊急時だ。 「何かいけないんですか?」 私が聞き返すと、トムソンガゼルは奇妙な動きを見せた。 まるで地面の草を食むように首を足元まで深く下げ、しかし何も食べずに再び上げる。その、やたらと仰々しく時間のかかる「頷き」を二、三回繰り返した後、彼は言った。 「当然です。服装というのは極めて重要です。制服はあくまで学園生活を送るためのドレスコードであり、登山というTPOには著しく不適合です」 「でも、そんな固定観念を破ろうとする試みも、たまにはいいんじゃないですかね」 「これは固定観念の問題ではありません!」 彼は声を荒らげたが、表情には一切の変化がなかった。 トムソンガゼル特有の、あのつぶらで無機質な瞳。 疾走する時も、草を食む時も、あるいはライオンに喉笛を噛み切られる最期の瞬間でさえ変わらないであろう、平坦なデフォルトの表情のまま、彼は説教を続けた。 「これは『流れ(フロー)』の問題です。流れに逆らうことの重要性は理解していますが、パレートの法則に則り、カオスは全体の二〇%程度に抑えておくべきなのです。いいですか?制服で登山を強行しようとする発想は、カオス率五〇%を超過した、この山に対する甚だしい『迷惑行為』です」 出た。 魔法の言葉、「迷惑」 何でもかんでも「迷惑」というレッテルを貼れば正当化される風潮には辟易するが、今回は分が悪い。私の「固定観念を破りたいという反発心」よりも、「他人に迷惑をかけたくない」という社会性プログラムの方が上回った。 私は従順に、今回だけは固定観念という名の檻に収まることにした。 「でも、着替えようにも、他に服を持っていないんですけど」 私が問題点を提示すると、トムソンガゼルは近くにある奇妙な建物を指し示した――いや、その硬質な蹄(ひづめ)で示した。 そこには、臨時で建てられたような、真っ白な正方形の建造物があった。 一階建てほどの高さで、継ぎ目ひとつない完璧なキューブ状をしている。表面には純白のペンキがむらなく塗られ、何の意味もなさそうだが、無性に「入ってみたい」「写真に撮りたい」という欲望を掻き立てる、不思議な魅力を持った建物だった。 「あちらが更衣室です」 ガゼルは抑揚のない声で案内した。 「入室者の個性に合わせて、適切なウェアが自動生成されるはずです。さあ、入って着替えてください」 私たちはその指示に従い、ホワイトキューブの中へと足を踏み入れた。 室内は24平方メートルほどだろうか。ビジネスホテルのシングルルーム程度の広さだ。 内装は落ち着いたドレスルームのようになっており、中央には男女のスペースを隔てるための、美しいヴェールのようなカーテンが揺らめいている。 私と霈はそれぞれのスペースへ入り、着替えを済ませた。 ガゼルは「適切なウェア」と言っていたが、確かに服の量は豊富だったものの、種類はたった一つしかなかった。 体操服だ。 それも、私と霈が通っている「第七四七水素高等学校」の指定体操服そのものだった。 私たちが体操服姿でホワイトキューブを出ると、トムソンガゼルは相変わらずデフォルトの無表情で出迎えたが、その声色は随分と柔らかくなっていた。 「まあ、いいじゃないですか。とてもお似合いですよ。素晴らしい。では、登山を許可します」 こうして私たちは、ケーキの山へのアタックを開始した。 山道には、先述したクリスタルのような木々だけでなく、独自の生態系が広がっていた。 枝の先では、コバルトブルーの毛並みをしたリスたちが跳ね回っている。 木々の間からは、水星特有の鳥たちのさえずりが降り注ぐ。その鳴き声は、聴覚データとして処理されるだけでなく、物理的な甘いシロップとなって山肌に降り注いでいるかのようだった。 そして、本来なら冬眠中であるはずの熊たちも姿を見せていた。 サマーホールの影響で無理やり叩き起こされたせいか、彼らは夢遊病者のようにとろんとした目をしている。威嚇する様子は微塵もなく、まるで夢の中でダンスを踊っているかのように、近くの狐や狼の手を取り、優雅な社交ダンスに興じていた。 さらに登っていくと、半透明なゼリー状の蝶が舞い、羽ばたくたびに微細な砂糖の粉を撒き散らしていた。岩場には飴細工のカメレオンが擬態し、通り過ぎる登山者の服の色に合わせて体色を変化させている。小川には炭酸水が湧き出し、シュワシュワという音がBGMのように響き渡っていた。 そんな風景を眺めながら、私たちは歩を進める。 これは単なる移動ではない。「歩く」こと自体が「摂取」に直結する味覚的登山だ。 高度を上げるだけで――山を登るだけで、全身に糖分が充填され、バッテリーが回復していく。 美味しい気持ちで足を動かすことができる。 足取りは驚くほど軽い。 私たちがマクロサイズからミクロサイズへと縮小したせいもあるだろうが、登れば登るほどアクチュエータへの負荷が軽減されていく感覚があった。 例えるなら、電子雲の上を浮遊しているような、確率の雲の上を軽やかにスキップしているような、「歩行」と「浮遊」を並列処理しているような爽快感。 霈に関しては、私の勝手なプロファイリングではあるが、内向的な彼女はこうしたスポーティーな活動を嫌うのではないかと予想していた。 たとえ「美味しいケーキ登山」だとしても、体を動かすこと自体に抵抗があるのではないかと。 だが、それは杞憂だったらしい。
彼女は山全体を見渡し、視覚センサーに入力される鮮やかな色彩データを堪能しているようだった。内向的なヒューマノイドなりに、静かに、しかし確かにこの登山を楽しんでいる様子が見て取れる。 周囲には、私たち以外にも多くのマイクロサイズ登山者たちがいた。 彼らもまた、なぜか全員が高校生型のヒューマノイドであり、判で押したように体操服を着ていた。 ただし、彼らが着ているのは有名スポーツブランドやハイブランドとコラボレーションした、ファッショナブルなジャージばかりだ。まるでファッション誌のグラビアページから抜け出してきたかのように、洗練された着こなしで登山を楽しんでいる。 対して、私と霈が着ているのは、学校指定の地味で野暮ったい「自主デザイン」の体操服。 この華やかな集団の中では、私たちの地味さは逆に悪目立ちしていた。 恥ずかしがり屋の霈はそれに居心地の悪さを感じたのか、しきりに私の背後に隠れるようにして、消極的に歩いていた。 そのせいで、登るペースはどうしても遅くなる。 「なんか、恥ずかしい……」 霈が消え入りそうな声で呟く。 私はポケットからスマホを取り出し、カメラアプリを起動した。 レンズをインカメラに切り替え、私と霈がフレームの中に収まるように角度を調整する。 パシャリ。 私は二人で、セルフィー(自撮り)を撮った。 撮影した写真を霈(シズク)に見せると、画面からホログラムが浮かび上がった。 それは単なる可視光線の記録(静止画)ではない。 これから私たちが直面し、経験し、味わうであろう期待値――私と霈の希望に対する予想値を合算し、プランク定数で割ったような未来データが、バーチャルスターの人形のようなシルエットとなってグラフ化され、そこに投影されていた。 その輝く未来予測図を見て、霈は少し安心したらしい。 私の方を向き、ほんの少しだけ生気が戻ったような、柔らかな笑みを見せてくれた。 それを見た瞬間、私の心臓部を担当するメインアクチュエータが跳ね上がりそうになった。 だが、ミクロサイズ化しているせいか、それとも電子雲の確率的な揺らぎが味方したのか――あるいは、私がそろそろ彼女への「恋」というバグに対して耐性を獲得し始めたのか。 CPUは乱されることなく、クラッシュを回避することができた。 「それにしても」 私は太陽を遮るように手をかざし、山の外の世界を眺めた。 私たちはケーキの山を五合目付近まで登攀し、それなりに充電も完了していた。だが、まだ半分しか登っていない。 「そろそろ、お腹いっぱいだね」 私が言うと、霈も少し苦々しい表情を浮かべた。 「うん。食べ過ぎた。ちょっと、お腹が苦しい」 彼女のステータスを確認してみる。バッテリー残量は「3%」を示していた。 私は舌を巻いた。 「たったの3%しか充電できてないじゃないか。全然まだまだだろ」 「違うよ」 霈が不服そうに反論する。 「前に言ったでしょ?私、製造直後以外で1%以上充電されたことが一度もないの。だから3%なんて、私にとっては異常な過食状態。……正直、ちょっと吐きそう」 なるほど、そういうことか。 彼女のバッテリー胃腸は、この高密度のエネルギー供給に全く慣れていないのだ。 「ごめん、自分のバッテリー基準で考えすぎていた」 私は視線を山の外側――カフェの店内へと向けた。 遥か彼方のマクロ世界には、私たちが座っていた巨大な楕円形テーブルが見える。 そして、その周囲には三人ほどの少年型メイドたちが立っていた。 私たちが登山を終えて元のサイズに戻るのを待機している彼らの姿は、この山を見下ろす巨人のようだった。 その圧倒的なスケール感に、ふと嫌な記憶がフラッシュバックした。 太陽生成少年巨人。 サマーホールを生み出したあの一撃、心臓部を貫かれたあの感覚が鮮明に蘇り、私はその場で片膝をついてしまった。 「だ、大丈夫?」 霈が、消極的ながらも声をかけてくれた。 「こういう状況ではこう尋ねるのが社会的プロトコルとして適切だろう」という計算が透けて見える言葉だったが、その中にほんのわずかな心配の色(パケット)が混じっているのを感じて、私は嬉しさと、得体の知れない不安がない交ぜになった。 その混合感情が、一つのアイデアを生み出す。 私は、その巨大なつぶらな瞳でこちらを見守っているマクロ世界のメイドたちに向かって叫んだ。 声はエコーとなって増幅され、彼らに届く。 「ドローンを用意してくれ!」 私が注文すると、一人のメイドが巨人の声で問い返してきた。 「なぜですか?」 その声は全世界に響き渡るような広大さを伴っていた。まるで創造主が、戯れに作った箱庭の山に向かって神託を下すような響きだった。 私はもう一度、声を張り上げた。 「もう戻るから!」 するとメイドが困惑気味に尋ねてくる。 「ですが、まだ頂上まで召し上がっていないではありませんか」 「もう十分だよ。食べ過ぎたんだ。これ以上の摂取は、インスリン様ナノマシンの処理能力を超過して、血糖値シミュレータがエラーを吐きそうなんだ。ここらで切り上げたい」 それを聞いたメイドたちは、まるで「ケーキ会議」でも開くかのように三つの頭を寄せ合った。 三秒ほどの低速審議を経て、彼らは一斉に首を縦に振った。 「承知いたしました。では、お迎えのドローンを派遣しますので、そのままお待ちください」 直後、ヘリコプターのような回転翼を持つ救助用ドローンが飛来した。 私と霈はそれに乗り込み、そのまま上昇気流に乗って山を離脱した。 ドローンの上昇性能は凄まじく、頂上への到達は一瞬だった。 もしこの距離を自力で登り切っていたら、私のバッテリーは過充電でパンクしていたかもしれない。 過度な糖分摂取が人間にもヒューマノイドにも毒であるように、エネルギーの過剰供給もまた、システムに甚大な負荷をかける。 ましてや霈(シズク)に至っては、これまで1%以上の充電経験がないのだ。いきなりフルチャージされれば、バッテリーどころかCPUまで焼き切れ、回復不能な損傷を受けていただろう。 それほどまでに、高密度で危険な、美味しいケーキだったということだ。 ドローンから俯瞰する山の全景は、息を呑むほど美しかった。マクロ視点からの眺めとは違う、圧倒的な臨場感がそこにあった。 高度が上がるにつれ、大気の質が変わる。 私たちはその、爽やかな炭酸飲料の気泡を含んだような大気を胸いっぱいに吸い込んだ。 まるで風船にヘリウムガスを充填するように、清涼な空気を循環系に取り込み、身も心も満たしていく。 そのプロセスと連動するように、私たちのマイクロサイズのボディは徐々に膨張を開始した。 視界が歪み、世界が縮んでいく。 いや、私たちが拡大しているのだ。 そうして私たちは、ミクロの冒険譚から、元のマクロな現実設定へと帰還を果たした。 元のサイズに戻った私と霈は、先ほどまで座っていた楕円形のテーブル席に再び腰を下ろした。 登山――実質的な摂食行為はそれなりに長丁場だったため、私たちは二人とも結構な汗をかいていた。待機していたメイドたちが即座にホットタオルを差し出し、私たちはそれを受け取ってボディを拭った。 冷却ファンの唸りが静まるのを待ちながら、私は渇いた喉を潤すために、卓上に残されていたホットコーヒーを啜った。 そして、半分ほどが「食べ」尽くされた目の前のケーキ山を見やる。 驚くべきことに、あれほど鮮烈な水色を放っていた山は、変色していた。 私たちが「歩く」という行為でその涼やかなエネルギーを吸い尽くしたせいだろうか。山肌からは神秘的なアクアブルーが失われ、その下から、固定観念通りのありふれた緑色が露出していた。 それを見て私は気づく。このケーキのエネルギー源は炭水化物ではなく、「色彩」そのものにコード化されていたのだと。 そのレシピの構造に興味を惹かれたが、まあ、今度機会があれば検索してみようと思い直す。 汗を拭き終え、コーヒーも飲み干した。 私たちは席を立ち、カウンターで会計を済ませる。 そのまま店を出ようと、入り口のドアノブに手を掛けた瞬間、私は気づいた。 「あ」 間の抜けた声が出た。 「ケーキの中に、制服、忘れてきた」