← 目次へ戻る

17


翌朝。  悠人は重い身体を無理やり引きずるようにして、ベッドから起き上がった。  睡眠不足で頭が鉛のように重い。夜中に誰かの部屋のドアが開く音がしないか、聞き耳を立てていたせいで、結局ほとんど一睡もできないまま夜を明かしてしまったのだ。  悠人は部屋を抜け出し、蒼大と芽生の部屋を順にノックした。しかし、どちらの部屋からも人の気配はしない。  一瞬で眠気が吹き飛んだ。悠人は階段を駆け下り、リビングへと飛び込んだ。  蒼大と芽生はそこにいた。二人は食卓についており、その正面には母が座っていた。  悠人が近づくと、母が彼を振り返り、震える声で語りかけてきた。 「……悠人。本当に、あんたの言う通りだったわ」  その声は、深い感激に満ちていた。 「正直、昨日までは信じきれなかったけれど……。話してみたら、はっきりとわかった。この子たちは、本当に蒼大と芽生なのね。二人とも、私とあの子たちしか知らないはずの思い出を、あまりにも正確に覚えているの」  悠人は肺の中の空気をすべて吐き出すように、深い溜息をついた。 「……だから、そう言ったでしょ」 「本当に……信じてくれるんですか?」  蒼大が、まるで夢でも見ているかのような、掠れた声で訊ねた。母は慈しむように微笑み、深く頷く。その様子を、芽生は感極まったように口を覆いながら見つめていた。 「二人とも、おいで」  母が椅子から立ち上がり、両腕を広げた。 「……抱きしめてもいい?」  蒼大と芽生も、椅子を引く音を立てて立ち上がった。親子が互いに歩み寄ろうとした、まさにその時――。  玄関のドアロックが解錠される無機質な電子音が響き、父が家の中に入ってきた。  徹夜仕事明けのせいか、父の顔は悠人以上に酷くやつれていた。  彼は疲労の色を隠そうともせず、リビングにいる面々を一瞥もせずに自分の部屋へ直行しようとした。 「ちょっと、お父さん」  母が呼び止めると、父はのろのろと足を止めた。母が食卓を指先でトントンと叩きながら促す。 「こっちに来て座って。話があるの」 「……疲れて死にそうなんだ。明日にしてくれないか」 「今じゃないとダメ。とても大切な話なのよ」 「……」  父は力なく溜息をつき、結局歩み寄って椅子に腰掛けた。不機嫌そうに周囲を見回す。 「……なんだ、話って」  母が滔々と説明を始めた。次第に父の半開きだった目に力が戻ってきたが、それは決して好意的な色ではなかった。  案の定、母が話し終えるや否や、父は冷ややかな失笑を漏らした。 「……それを、本気で信じるのか」 「私は信じる」  母が断固とした口調で言い返すと、父は力なく首を振った。 「……いや。あんたは今、信じているんじゃない。ただ、そう信じると決めただけだ」 「……なんですって?」  母は一瞬呆然としたが、すぐに色をなして反論した。 「結局同じことじゃない! 信じるっていうのは心の問題なんだから。それに……あの子たちは、私と二人きりでしか共有していないはずの思い出を、全部知っていたのよ?」 「違う」  父は冷淡に反論した。 「信じるというのは、事実に基づいた問題だ。いくら似ていようと、この子たちは単なる『他人の空似』に過ぎない。それに思い出の件だって、二人しか知らないなんてどうやって確信できる? 芽生と蒼大が生前、悠人に話していたことを、悠人がこの子たちに吹き込んだ可能性だってあるだろう」 「はあ? そんな手の込んだ嘘を、この子たちがつく理由なんてどこにあるのよ」 「さあな。知りたくもない」  父は、蒼大と芽生を冷ややかな目で射抜きながら言った。 「君たちが悠人と本当はどういう関係なのか、どうして家出を口実にしてまでここに入り込もうとしているのか、追求するつもりはない。だから、今すぐ出て行ってくれ。交通費くらいは出してやる」 「ちょっと待ってよ、お父さん。昨日と話が違うじゃん」 「考えが変わったんだ」  父は威圧的な動作で内ポケットから財布を取り出すと、数枚の札を抜き取り、食卓の上に放り出した。そのままリビングを出ようとする父を、母の鋭い声が引き止めた。 「だったら、検査しましょう」  それは、宣戦布告のような響きだった。 「遺伝子検査よ。それで本物だと判明したら、その時は『事実』として受け入れてくれるわね?」  父は静まり返った瞳で母を見つめ、やがてゆっくりと首を横に振った。 「……狂ってる」  父は吐き捨てるように言った。 「この子たちが来てあんたの酒が減ったようだから、しばらく放っておいてやろうと思ったが……。これなら、酔っていた方がまだマシだった。頼むから、現実逃避はいい加減にしてくれ!」  父が声を荒らげると、母は高く乾いた笑い声を上げた。 「現実逃避? あんたがそれを言う資格があると思ってるの?」 「……なんだと?」 「あんたこそ、わざと仕事を増やして、ずっと家から逃げ回っているじゃない」 「……」 「私が知らないとでも思ってた? 蒼大と芽生が亡くなった後、あんた、長期出張の多い部署に移ったでしょ。出張がない時だってそう。昇進のためだなんだと口実を作って、週末まで働く。最近は徹夜まで……。そんなに家にいたくなかった?」 「それはお前だって同じだろう! 特にすることもないくせに、毎日どこをほっつき歩いてるんだ。あの時だってそうだ。あの日、お前が家にさえいたら、あんな事には……」  怒りに任せて口走った直後、言い過ぎたと思ったのか、父は一歩遅れて言葉を飲み込んだ。しかし、母の顔は見る見るうちに怒りで赤く染まっていった。 「今、あの日のことを……」母が絞り出すように言った。「私のせいにした?」 「……責任がないとは、言えないだろ」 「だったら、あんたこそあの時、どこで何をしていたのよ!」  母が激昂し叫ぶと、見かねた悠人が割って入った。 「母さん、父さん。喧嘩はやめて……」  しかし母は止まらなかった。さらに声を張り上げる。 「少なくとも、あんたが車で送ってくれてさえいたら、あんな事故は起きなかった!」 「知っていれば当然そうしたさ! だけど子供たちが内緒で行こうとしたから、あんな結果になったんじゃないか」 「そうよ、よく知ってるじゃない。親に黙って出かけようとする子供を、どうやって止めろって言うの? それに私はあの日、一週間前から約束があるって伝えていたよね。私は家にいないから、代わりに子供たちと一緒にいてくれって、あんたにちゃんと頼んだはずよ。覚えてないの?」  悠人は、二人を止めるのを諦めた。どうやら二人は今、あの日以来七年間、一度も触れることのなかった「過去」を初めてぶつけ合っているようだった。悠人は沈黙して、そのやり取りを観覧することにした。 「……覚えてない」  父が自信なげに呟くと、母がすぐさま畳みかける。 「私ははっきり覚えてる。あんたがどんな言い訳をして家を出たかも、全部。『子供たちももう大きくなったんだから、週末までべったり面倒を見る必要はない』って、あんた、そう言ったのよ。そうして、朝早くからゴルフに出かけた」 「……それがどうした。俺のせいだと言いたいのか」 「私は、あの日の外出を一週間前から知らせていた。それなのに、あんたは当日の朝、いきなりゴルフの約束を優先して、私に一言の相談もなく出て行った。違う?」 「部長の呼び出しだったんだ、俺だって断れなかったんだよ!」 「……それが、言い訳になると思ってるの?」  悠人はついに、こらえきれずに頭を下げた。質の悪いコントを見せられているような気分だった。失笑が漏れそうになるのを必死で噛み殺したが、その拍子に噛んだ下唇から、微かな血の味が滲んだ。 「いつも仕事、仕事、仕事……」  母の糾弾は続いた。 「いつも家族より会社が最優先。そんなあんたが、私の言うことを信じてくれるなんて……最初から期待なんてしてない」 「わかった。もういい。遺伝子検査でも何でも、勝手にすればいいじゃないか」  父が投げやりな様子で背を向けると、母はその背中に向けて冷淡な言葉を突きつけた。 「……いいえ、もういいわ。私たち、離婚しましょう」  父が、心底うんざりしたように振り返る。 「なんで急にそうなるんだ」 「あんたが信じてくれないからよ。私はこの子たちと……蒼大と芽生と一緒に暮らすわ」 「どうやってだ。養子縁組でもするつもりか」 「そうよ」  父は鼻でせせら笑うと、内ポケットから煙草の箱を取り出した。だが火を点けることもせず、淡々と言葉を継いだ。 「……じゃあ、悠人はどうするんだ」 「悠人は、あんたが育てればいいわ」 「……は?」  蒼大の呆然とした声が割り込み、悠人はそちらに目を向けた。両親の争いのせいで、彼という存在を忘れていた。とにかく、蒼大は怒りを感じているようだった。  蒼大に続き、芽生も食ってかかる。 「それ、どういう意味ですか。悠人兄ちゃんは、いらないってこと?」 「あなたたちは、ちょっと……」  母は額を指で押さえ、苛立ちを堪えるような口調で言った。 「少し黙っていてくれる? 今、お父さんと話を付けてるんだから」 「いや、おかしいだろ」蒼大が食い下がる。「僕たちの話なんだ。なのになんで勝手に決めてるんだよ」 「ちょっと、おばさん」芽生も加勢した。「さっきの言葉、何なんですか。いくら私たちが戻ってきたからって、ひどすぎるじゃん。ずっと生きていた一人の子供は、眼中にもないんですか!」 「お前らは黙って出て行け!」父が二人に向かって怒鳴りつけた。「もうお前らには関係のないことだ。今すぐ出て行け!」 「関係ないわけないでしょ! この子たちは本当に蒼大と芽生なんだから!」 「だから、悠人兄ちゃんはどうなるんだよ! 同じ息子じゃないのかよ!」  四人が興奮し、罵声を浴びせ合う光景を、悠人は非常に落ち着いた心地で眺めていた。皆、言いたいことがたくさんあるようだったが、その言葉の一つひとつがもう悠人の心には届かなかった。彼らの声は、獣の遠吠えのように形を失ったまま、ただ耳元を通り過ぎていくだけだった。  悠人は、ふと気づいた。昨夜眠れなかったのは、自分や父だけではない。母も、蒼大も、芽生も、一睡もできなかったに違いない。そのせいで今は皆、神経が尖っているだけなのだ。この山さえ乗り越えれば、またあの和気あいあいとした関係に戻れるはずだ。  タイミングが悪かっただけだ。  悠人は自分の過ちを認め、残り少ない忍耐力を振り絞って、この泥沼を打開する方法を探し始めた。だが、リビングの喧騒が五月蝿すぎて、どうしても思考に集中できない。 「ちょっと……」悠人は片手を上げた。「皆、静かに……頼むから……」  しかし、騒ぎは収まる気配を見せない。とうとう、張り詰めていたギターの弦が弾けるような音が、悠人の脳裏を打ち抜いた。 「うるさい!!」  悠人の絶叫が、リビングに響き渡った。  結局、彼らと同じように声を荒らげる以外、道はなかった。望んでいた方法ではなかったが、効果はあった。皆が言葉を切り、束の間の温かい静寂が訪れる。  悠人は、自分に向けられる視線を感じながら、激昂した感情を鎮めようと努めた。ところが、空気がどこか変だ。なぜか皆、恐怖に打たれたような顔で悠人を見つめている。 「……悠人」母が声を震わせた。「唇に、血が……」  言われて、悠人は顎の力を緩めた。痛みはなかったが、怪訝に思って唇に指を当てると、確かに鮮血が滲んでいた。さっき、唇を噛み切りながら失笑を堪えた時のものだ。 「……ど、どうしちゃったの?」  母が狼狽した顔で近寄ってくる。血の付いた唇に触れようとした彼女の手を、悠人は反射的に振り払った。 「触るな」  力の加減ができなかった。強く打たれた母が手の甲を抑えて呻くと、次は父が詰め寄ってきた。 「悠人、お前、母親に対してその態度はなんだ!」  父が悠人の肩を掴み、力任せにこちらを向かせようとする。悠人はそれを突き飛ばした。それもまた加減が利かず、父を床に転倒させてしまう。  悠人は、呆れ果てたように溜息を吐き、やがて低く、呟いた。 「……なんなんだよ、あんたたち。いまさら子供扱いか? いまさら、家族扱いか? ……いまさら?」  悠人は、手を握りしめたまま怯えたように自分を見つめる母と、床に座り込んだまま呆然と自分を見上げる父を、しばらくじっと見つめていた。  そうしているうちに、まるで酷く現実味のない夢を見ているかのような気分になってきた。意識は朦朧とし、体の力加減がうまく制御できない。顔の筋肉は麻酔を打たれたかのように強張り、ぴくりとも動かなかった。  その結果、不本意ながらも冷徹で揺らぎのないポーカーフェイスが出来上がっていた。それでも、言葉だけは滑らかに口から零れ落ちた。 「……七年間、他人みたいに、いや、幽霊みたいに息を殺して生きてきた。あんたたちが、それを望んでいるみたいだったから」  声は小さく、全員に届いているかは疑わしかったが、悠人は構わずに続けた。 「言いたいことがあるなら、素直に言えばよかったじゃん。俺を叱ればよかったじゃん。……二人とも、本当は誰でもない、生き残った俺を一番恨んでいるんだろ?」 「…………」 「俺が、あの子たちを殺したと思ってるんだろう?」  肯定も、否定も返ってこなかった。  悠人は淡々と言葉を重ねる。 「俺はいつだって、謝る準備はできていた。あんたたちが俺を殴るなら殴られる準備も、捨てようとするなら捨てられる準備も、ずっと前からできていたんだよ」  悠人は、目の前の二人に心から同情した。自分のような息子を持ったせいで、愛すべき子供を二人も失った哀れな両親。  悠人は静かに、二人に向かって頭を下げた。 「……俺で、ごめんなさい」  皮肉ではなく、あくまで丁寧な、心の底からの謝罪だった。 「俺一人だけが図々しく生き残ってしまって、本当に申し訳ありません。……俺は、大罪を犯しました」  しばらくして、悠人は再び背筋を伸ばして立った。母も父も、もはや悠人の顔を見てはいなかった。視線を落とし、あるいはそっぽを向いている。 「よかったじゃん」悠人は言った。「離婚、昔からしたかったんだろ? 目の敵にしていた俺はもう消えてやるから、あとは好きにすればいいよ。……でも、やっと一つになれた俺たち兄妹を、勝手に引き裂くことだけは許さない。俺たちはここを出て、三人だけで暮らす」  その宣言に、両親が弾かれたように悠人を振り返った。だが、それよりも早く、蒼大と芽生が戸惑いの声を上げた。 「……で、でも兄ちゃん」 「それじゃ、最初の目的と……」  言葉を濁す二人に、悠人は静かに諭した。 「最初の目的? 思い出してごらん。俺たちの本来の目的は何だった? 『俺たち三人』で、ずっと一緒にいることだったはずだよ。親なんていうのは、例えばオプションみたいなものさ。あれば便利かもしれないけれど、絶対に必要なものじゃない。俺たち三人さえいれば、それで十分なんだ」  それでも、蒼大と芽生の表情は晴れない。悠人は、無理に口角を上げて微笑んで見せた。引きつった笑みが不自然な影を落としたが、それでも悠人は屈することなく笑い続けた。 「大丈夫だよ。……本来の姿を取り戻そうとしているだけなんだ。本来の、三兄妹の形を」 「…………」 「さあ、出よう。早く」  悠人が先に歩き出す。だが、どこか子供が駄々をこねるようなその言動に、蒼大と芽生は困惑を隠せない様子で立ち尽くしていた。ついてこようとする気配すらない。  悠人は、張り付いた笑みを一瞬で消し去った。 「……出ろと言ってるんだ」  それでも二人は動かない。 「でも、兄ちゃん……」 「兄ちゃん……」 「出ろ‼」  リビングに再び怒声が轟き、蒼大と芽生はびくりと肩を震わせて俯いた。二人が自分の意に従わないことへの、抑えきれない苛立ちが悠人を支配した。それでも二人が重い腰を上げ、自分の後を追ってきたのを見て、これ以上声を荒らげる必要がないことに安堵した。